昨日のページを読んでください、
日本では女性は簡単には敗北しなかった
個人的異性愛についてのヨーロッパのこうした歴史を読むと、日本とは少し事情は違うな、という感じを多くの方がもつのではないでしょうか。
今年(二〇〇八年)は「源氏物語」から千年目の年だということが話題になっています。 つまり、この小説の最初の草稿が書かれたのが、いまから千年前、 11世紀の始めごろだと見られています。 プロヴァンスの吟遊詩人たちが、「恋歌」をうたって歩いたごく初期のころに、日本では、恋愛小説の大長篇が、 しかも女性の作家(紫式部)の手によって生みだされ、その作品がいまでも日本と世界で広く読みつがれているのです。
日本には、もっと古い恋愛文学があります。『万葉集』です。 これは、八世紀に編集された歌集です。 エンゲルスが世界最古と評価した、ゲルマンの恋歌の始まりより、さらに百数十年さかのぼった時代に生まれた歌集ですが、 「万葉恋歌」という言葉があるように、そこには、男女の恋愛感情を歌った多数の和歌がおさめられています。 そこには、貴族階級の恋愛も登場しますが、農民の夫婦愛を歌ったものもたくさんあります。 当時、関東の多くの農民が、「防人」とし九州の防衛のために兵士として動員されることが多くありましたが『万葉集』のなかには、夫を送り出した妻と送りだされた農民兵士とのあいだでの恋愛感情を歌った、多くの感動的な歌があります。
これを読むと、日本では、封建社会になるずっと以前に、大和国家の時代に、農民のあいだに、熱い異性愛で結ばれた一夫一婦の家族があり、 その夫婦愛を歌った文学が早くも成立していたことが分かります。 そこには、ヨーロッパでの「世界史的敗北」のあとの「一夫一婦婚」 家族の男性による女性支配とは、ずいぶん違う姿があります。
その背景には、日本独特の家族形態の歴史がありました。「妻問婚(つまどいこん)」といって、女性が嫁として夫の家に入るのではなく、夫が女性の家に通い、 女性の生活はその家族の側でささえる、こういう結婚形態が、 貴族社会でも、庶民の社会でも広まっていました。日本の女性は、そう簡単には 「敗北」 しなかったのです。
日本の女性ががんばっていたことの一つの象徴は、鎌倉政権の初期に活躍した北条政子です。この幕府初代将軍・源頼朝の妻ですが、 夫の頼朝が死んだあとも、政権の中心にたって活躍するのです。
だいたい、当時は、女性は経済的にも、それだけの基盤をもっていました。 たとえば、 政子は北条家の人間で、頼朝と結婚しても、姓を変えずに 「北条」のままでしょう。 そして、女性であっても、北条家の財産を相続し、領地をもっていました。
私は、以前、夫婦で鎌倉を訪ね、この夫婦の墓を探したことがあるのですが、 二人の墓は全然別のところにありました。 政子の墓は、お寺に立派な形で残っているのですが、頼朝の墓は、こ
こがそうではないか、というそれらしいものが、山裾にあるくらいで(ざわめき、笑い)、はっきりは分からないのです。
ともかく、当時の女性は、封建社会でも、独立した人格と権利をもっていました。だから、これは歴史に残る有名な話ですが、頼朝が死んだあとに、鎌倉幕府がけしからんというので、京都の天皇政権が〝鎌倉追討〟の命令を全国の武士に発し、内戦を起こしたことがあったのです(承久の乱1221年)。そのとき、鎌倉武士の男たちが、天皇政権が相手だということに恐れおののいたようですが、そこへ政子が出ていって大号令をかけた、というのです。天皇政権の追討命令は〝非義の綸旨〟だ、「綸旨りんじ」というのは天皇の命令のことですが、天皇の命令であっても大義のないものだ、と断じ、あなたがたはせっかくつくった武家政治をそんな命令をおそれてつぶす気かと訴えたのです。 それでみんなが奮い立って、天皇政権の軍を打ち破るのですが、戦争のさなかでも、政子は、中心指導者の一人として、重要な決定には全部くわわっています。政子個人の力ももちろんありますが、大きくいえば、当時の日本における女性の地位もそこに反映していたと思います。
見方はほかにもあるでしょうが、日本で女性が「日本史的」に敗北したのはいつごろかというと、封建社会でも室町時代の始まりごろだとする有力な説があります。 一四世紀です。そのころ、結婚した女性が夫の家に入る嫁取式の結婚が支配的になり、女性は、それまでもっていた独立の権利をしだいに失ってゆきました。 ヨーロッパでは、ギリシア、ローマでいえば、「女性の世界史的敗北」の年代は紀元前を大きくさかのぼりますから、日本での「敗北」は、少なくとも千数百年、あるいはもっとおくれて起こっていることになります。
その日本で、女性参政権を獲得したのが1945年、両性の平等をうたった憲法ができたのが1946年、つまり20世紀の半ばですから、日本での女性の「敗北」の時代は、せいぜい600年ほどの歴史しかもっていないのです。「敗北」の時代がどれだけ長かったか、あるいは短かったか、ということは、日本の女性に刻まれたDNAの問題として、これからの女性の地位を考えるときに大事になることですから、ぜひ頭にいれておいて欲しいと思います。
この北条政子の「訴え場面」が、
自分のために鎌倉を戦場にはできない。 義時は泰時たちに鎌倉の今後を託したのち、 政子に会いに行き、執権として最後の役目を果たす決意を表す。
義時の招集により、御所に御家人たちが勢ぞろいした。 義時が皆の前に立ち、後鳥羽上皇との経緯を話そうとしたとき、 政子が毅然と現れた。 義時を下がらせると、政子は紙を出して読み始める。
「源頼朝様が朝敵を討ち果たし、関東を治めてこのかた、その恩は山よりも高く、海よりも…..…..」
広元に書かせた文章だ。 朝廷が仕掛けた戦により鎌倉に危険が迫っていると、御家人の心に響くように訴えかけている。だが政子は途中で紙をしまった。後鳥羽上皇が狙っているのは、鎌倉ではなく、ここにいる義時の首だと真実を語り始める。
「鎌倉が守られるのならば、命を捨てようとこの人は言った。あなたたちのために、犠牲になろうと決めた」
義時が皆から憎まれてもしかたのない厳しい態度をとってきたのは、鎌倉を守るためだと強調する。
「ここで上皇様に従って、未来永劫、西の言いなりになるか。 戦って坂東武者の世をつくるか・・・・・・ 頼朝様の恩に今こそ応えるのです」
政子が鼓舞すると、御家人たちが雄たけびを上げる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます