今日の「てんがらもんラジオ」は石神紅雀さんの「川柳教室」でした、この「つぶやき」は直接今日のことではなくその周辺の話です。
「てんがらもんラジオ」233回は、2016年9月8日chidoriブログ で。
以前俳句をかなり深くたしなんでいる人に「川柳もこなしている俳人はいるでしょうか」と尋ねたことがありました。その答えは「いませんね」でした。そうだろうなー、と思っていましたが、いました。
それも自分の手元にあったのでした、
私の持っているものはこの本の新装版ですが内容は同じです。
磯貝碧蹄館(いそがいへきていかん)は「一〇代から川柳を村田周魚、俳句を萩原蘿月(らげつ)に学ぶ」と紹介されています。この本の一節に「俳句と川柳のくべつ」があります。これは「俳句の構造と実作」という章のなかにあるものですから、あくまでも「俳句の基礎知識」の一環としての説明です。
【 役人の子はにぎにぎをよく覚え
この句は『柳多留(やなぎたる=江戸時代の川柳集)に出ている古川柳ですが、実によく穿(うが)っていて、なるほどと合点させられます。(略)
川柳の場合は、殊に「滑稽、機智、穿ち」の三つを三要素として作りますが、俳句も、その中の一つ、機智、「意外性」を武器としていることは同じです。寸鉄人を刺すという川柳的鋭さには欠けますが、欠けるというよりも、俳句の本質が、人間諷詠を含めた自然諷詠であるため、直接的に、暴露的に詠(うた)えないのです。しかし、時代が人間中心主義になってきましたので、川柳とのけじめ、区別がつかなくなってきていることも事実です。
私は、川柳は「外側から抉(えぐ)るもの」、俳句は「内側から生まれるものと思っています。」もちろん「季節感」の有無もその区別のポイントに該当します。
この先を考えている豆の蔓 吉川雉子郎(吉川英治)
のぼりゆく草細りゆく天道虫 中村草田男
川柳は、豆の蔓を人間として表現しています。人間の盲点を突いているところが、もっとも川柳の川柳たるところです。俳句はいうまでもありませんが、滑稽感を、自然感に移行しています。】
俳人にして柳人・磯貝碧蹄館の説明はまだ未だ続きますが、これまでにします。終りに俳人・長谷川櫂さんのひと言をそのまま、
( 三省堂『現代俳句大事典』426頁)
(文中の太字はkaeruによります)