kaeruのつぶやき

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「第二次上田合戦の真相」その4。

2016-09-14 21:08:20 | 「真田丸」

「真相」に入る前にこの本です。

町の図書館によって棚を見ていたら「真田幸村」の文字が飛び込んできました。広げて書いている人の名前をみれば「幸村」でなければならないことが分かりました。

南原幹雄、海音寺潮五郎、山田風太郎、柴田錬三郎、菊池寛、五味康祐、井上靖、池波正太郎の諸氏です。立川文庫的な内容もあり、少年時代講談本を夢中になって読んだことを思い出しました。

 

いよいよ第二次上田合戦の火蓋が切られた。】と書かれているのは【徳川秀忠、上田に迫る】の最後の部分です。そこから、

【 第二次上田合戦は、天正十三年(1585)の第一次上田合戦と同様、著名な合戦であるにもかかわらず軍事物など以外に確実な史料に乏しく、戦闘の経過がほとんどわからないのが実情である。まずは、文書で判明する合戦の経緯を紹介しょう。

   徳川軍は、九月三日、上田に接近した。すると、真田昌幸が徳川陣中の嫡男信幸を通じて助命を懇願してきたといい、秀忠はこれを受諾した(『信』18四九一)。その懇願の模様は、九月四日、秀忠が参陣してきた海津城主森忠政に宛てた書状に「真田安房守事、頭をそり罷出、可降参之旨、真田伊豆守を以、種々詫言申候間、命之義可相助与存、昨日以使者申入候」とあり、頭を丸めて降参しますと昌幸が信幸を通じて申し出てきたことから、秀忠はこれを許すと使者を派遣して通達したというのである(同前四九二)。

   ところが、四日になって突然昌幸は態度を豹変させ「至今日存分にて申候間、不能赦免候」と秀忠が森忠政に伝えたように、かなり言いたい放題の放言をしたため、交渉は決裂し、戦闘状態に入った(同前)。秀忠がかなり怒っているので、昌幸は相当挑発的な言葉を並べたらしい。

   徳川軍は、九月五日、上田城に接近した。すると、真田方は守備していた砥石城を捨てて上田城に撤退したといい、これを知った秀忠は、真田信幸に同城の接収と在城を命じた(『信』18四九二)。これで秀忠は昌幸打倒を確信したらしく、浅野長政に対して、ひとまず安心してほしい、こちらの仕置を行ってから上洛するつもりだと述べている。これを最後に、秀忠やその周辺の人々の書状に、上田合戦の模様は見られなくなり、戦闘の経過などはまったくわからない。】

   同時代人の回顧や伝聞としては、大久保忠教ただたか『三河物語』があるに過ぎない、として、その記述をかいつまんで紹介しておこう、と書かれていますがここでは略します。

   ただそのなかで「秀忠は宇都宮を出陣し、中山道を通って真田昌幸の城に通りがけに攻め寄せた」とあります、通説の出処の一つでしょう。

   先ほどの『真田幸村』のなかの菊池寛の作品「真田幸村」のなかに、第二次上田合戦の逸話がありますので、それを紹介しておきます。

【 秀忠軍が、上田を囲んだとき、寄手の使番一人、向う側の味方の陣まで、使を命じられたが、城を廻れば遠廻りになるので、大手の城門に至り、城を通して呉れと云う、昌幸聞いて易き事なりとて通らせる。その男帰途、又搦手に来り、通らせてくれと云う、昌幸又易き事なりと、城中を通し、所々を案内して見せた。時人、通る奴も通る奴だが、通す奴も通す奴だと云って感嘆したと云う。】