午前中に坊さんが来て読経、長男夫婦と義妹に私達夫婦、孫たちは来れず、でした。午後は私達夫婦でお寺さんへ。
お盆はかなり早く出たつもりでしたが椅子席は満員、入口の隅に座り込んだのでしたが、今日はまるで少ない、3月の彼岸より減っているという感じでした。法会のあと墓地へ卒塔婆を持って行きましたが私達以外の夫婦連れが見当たらないのです。
法会中、住職の声高に読み上げるものの中にわかる言葉は先祖代々ということ、その言葉がなんとなく浮いて聞こえてきました。先月の祭では若い人の活気というものを感じたのですがお寺さんでは、それが見られません。祭と仏事の意味合いの違いからくることでしょうが、なにやら消えるもの疎し、の感です。
それはお寺の近くで見た空き地、確かお盆の時には解体がはじまっていたのでした、妻の友人の家だとその時聞いたことを覚えていました。だがどんな家が建っていたのかまるで記憶がありません、この辺はかなり歩いている所です、記憶の中に残っていてもいいと思うのですが……。人も建物も消えて終えば疎し、になりやすいものです。
祭も法会もそれに抗う意識的な行事なのでしょう。
俳句に向う気持にもそんな思いがあるのではないでしょうか。
季節は移ろいやすいものであればこそ、それに抗って心に止めるため心にしみ込みやすい五七五の口調にのせる、そんなことを思った雨の秋彼岸の一日でした。
秋彼岸めっぽう亡夫に逢ひたくて 渋川君枝
秋彼岸行ってあげたい父母の墓 小迫ツネ
亡き吾子に庭のもの剪る秋彼岸 松本美簾
秋彼岸夫は海越ゆ地に眠る 相澤寿江
秋彼岸兵戈無用の文字鐘に 田 湯 岬
『ザ・十万人歳時記 秋』より