平山さんの『真田信繁』に入る前に、
今日の「しんぶん赤旗」の草笛光子さんです。「真田丸」のとり役について、【 脚本家の三谷幸喜さんに「草笛さんをイメージして書きます」と言われました。/ 「真田家のルーツ的存在で、おかしなおババでしょう。しっかりしながら、ユーモアもある。皆さんに受けました。三谷さんに私のことをこういうふうに見てくださったんだと、うれしかったです」】と語っています。
この時代の女性の活躍の記録がどれほど残されているか分かりませんが、ここではドラマ「真田丸」に即してまさに昌幸の母・信之信繁の祖母・とりは真田家のルーツ的であったと思います。記録にあろうとなかろうと当時でも日常生活で、子供らが祖父母から受けた影響はかなり大きかったでしょう。
現在は爺亡きあと婆の生存が10年前後あるのですから、より大きい影響を与えるのではないでしょうか。我が家の状況で言えば爺生存中から孫に与える影響は圧倒的に婆さんです。一昨夜の新宿のホテルの前で孫と別れる前に爺は握手だけでしたが、婆は握手のあとハグしていました。
「真田丸」での昌幸の死に対してネット号泣「昌幸ロス」などという言葉が並べられています。なかには九度山での昌幸の暮しが「衣食住足りて」などと書かれたものがありましたが、昨日載せました昌幸発給の文書が示す生活実態は「生活の困窮と合力の催促」だったのです。
平山さんの示す生活実態の続きです。
【 信之も父昌幸の窮状を知っており、重臣木村綱茂・原半兵衛に対し、金の準備ができ次第、五枚でも六枚でもいいから送金するように命じている(『信濃史料』21巻51頁)、上田に残った正室山之手殿も信之に頼んで飛脚を仕立ててもらい、高野山へ緊急の届け物を行っている(同50頁)。
なお、昌幸・信繁父子が収入増をはかるために、「真田紐」なる木綿の紐を作ったとの伝承があるが(『長国寺殿御事蹟稿』)、事実かどうか定かでない。
昌幸は九度山配流当初、遠からず赦免され故郷に戻れると楽観視していたらしい。兄信綱の菩提寺・信綱寺に宛てた慶長八年三月十五日付の書状では、今年の夏には家康が関東に下るとのことなので、本多正信が恐らく私のことを話してくれることでしょう、そうしたら(赦免されるでしょうから)下山してお目に掛かりゆっくりお話ししたいものですと記している(No.1)。また時期不明ながら、ほぼ同時期とみられる一月三日付の禰津神五郎宛書状では、こちらも変わりはありません、ご安心下さい。年が明けましたので私は下山も近づいてきたと喜んでおります、と書き送っている(No.4)。昌幸のこの口ぶりには、赦免の可能性を伝える情報があったのかも知れない。だが結局、家康が昌幸を許すことはなかった。一向に下山の知らせも来ることもなく、時期だけが過ぎていった。】
こうして「やがて九度山生活が十年を迎えた頃」と続くのですが、明日にします。