昨日は「てんがらもんラジオ」に関連して『九十歳。何がめでたい』の表紙でした、今日はこれです。
「晩鐘」は全471頁のこの本の471頁目、その最後の一行にあります。
でもその鐘の音は、あるいは他の人には聞えない、私だけに聞えているものかもしれません。
この一行の意味を知るためには、書き出しの
先生、畑中辰彦が死にました。
から読み続けて来なければならないので、ここでは触れません。
昨日の「九十歳」との関連で「あとがき」の一部を引用します。
この「あとがき」の日付は2014年 秋 とあります、1923年11月生まれですから91歳の秋に記されたものです。
八十八歳が八十九になり、とうとう九十を超えましたが、死ぬ筈が死なずに今、こうしてあとがきを書いている自分のしぶとさに呆れています。
「これからはのんびり、人生の終りの休暇を楽しみなさいよ」
と何人かの友人がいってくましたが、「のんびりしなさい」といわれても、「のんびり」なんて今まで経験したことがないもので、どうすることかわりません。(略)つい、「有難迷惑」という思いが頭を擡げてしまうのです。
自分の人生を作家の目で見つめた、かつての夫を分かろうとし苦闘した結論がここに書かれているのです。それは真実の理解なんてあり得ない、不可能なのではないか、「黙って受け容れることしかない」という思いです。
ひとり一人の人生の直面してきたことは不可解さに満ちたことだったでしょう。人生の最期に振りかえれば、その深みに目を奪われ足をとらわれる思いがします。
そこを見つめ一歩越える力を最後まで保つ、やはりのんびりは出来ません。