先日のコンサートに、奈良からいらした方がいました。地元でママさんコーラスの指導をなさっているそうです。彼女が、その打ち上げで、「MI・YO・TA」を歌ってくれました。
「MI・YO・TA」とは、信州浅間山の近く御代田のことです。そこに武満先生の別荘があった。そこで、武満は”納骨堂”と呼んでいた部屋で創作活動をしたり、時には、多くの友人たちが集まって、芸術論をたたかわせたり、美味しいものに舌鼓を打ったり・・・そんな時を過ごした。
「MI・YO・TA」のメロディーは、黛敏郎がこっそり暖めていた武満のメロディーで、彼と一緒に仕事をしていた時にあまりに美しいメロだったので、使わずにおいたものです。96年、65歳の若さで武満先生が亡くなった時、それに、谷川先生が、詩をつけた、小さなレクイエムです。
それを、奈良からいらしたその方は、歌ってくれました。
私は武満先生と、この8月、やはり65歳で亡くなった「草の家」の西森先生のことを重ねていました。そこには、多くの志を同じにした方たちが集まっていたし、豊かな自然と、美味しいもの(大事!?)があった。
まだまだ、やりたいことは、おありだったでしょうし。命がけで何かをしようとしてきた人と、その取り巻きの人たち・・・。
そして、またまた歌と言うものは、いったい何なんだろうと考えていました。集まった方たち、「MI・YO・TA」という歌、金さんが歌ってくださった「イムジン河」、そして「風になろう」・・・。
武満先生が「うたについて」語っておられるのを、思い出しました。
「人類、人種はひとつとならなければならない、それが素晴らしいんだけれど、うただけは千差万別の方が良い。確かに、今のうたは素晴らしい。軽々と国境を越え、民族を越えて世界にひろがるでしょう。人間はひとつになった方がいいけれど、歌う時くらいは、みんな違った方が良い・・・。」
そうそう、私のお友達の一人、愛郎さんも、最近面白いうたを作ったらしい・・・。
どうぞ是非、聴いて・・・。
「MI・YO・TA」とは、信州浅間山の近く御代田のことです。そこに武満先生の別荘があった。そこで、武満は”納骨堂”と呼んでいた部屋で創作活動をしたり、時には、多くの友人たちが集まって、芸術論をたたかわせたり、美味しいものに舌鼓を打ったり・・・そんな時を過ごした。
「MI・YO・TA」のメロディーは、黛敏郎がこっそり暖めていた武満のメロディーで、彼と一緒に仕事をしていた時にあまりに美しいメロだったので、使わずにおいたものです。96年、65歳の若さで武満先生が亡くなった時、それに、谷川先生が、詩をつけた、小さなレクイエムです。
それを、奈良からいらしたその方は、歌ってくれました。
私は武満先生と、この8月、やはり65歳で亡くなった「草の家」の西森先生のことを重ねていました。そこには、多くの志を同じにした方たちが集まっていたし、豊かな自然と、美味しいもの(大事!?)があった。
まだまだ、やりたいことは、おありだったでしょうし。命がけで何かをしようとしてきた人と、その取り巻きの人たち・・・。
そして、またまた歌と言うものは、いったい何なんだろうと考えていました。集まった方たち、「MI・YO・TA」という歌、金さんが歌ってくださった「イムジン河」、そして「風になろう」・・・。
武満先生が「うたについて」語っておられるのを、思い出しました。
「人類、人種はひとつとならなければならない、それが素晴らしいんだけれど、うただけは千差万別の方が良い。確かに、今のうたは素晴らしい。軽々と国境を越え、民族を越えて世界にひろがるでしょう。人間はひとつになった方がいいけれど、歌う時くらいは、みんな違った方が良い・・・。」
そうそう、私のお友達の一人、愛郎さんも、最近面白いうたを作ったらしい・・・。
どうぞ是非、聴いて・・・。