ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

土俵際の呼吸

2008-03-11 09:54:51 | ときのまにまに
今朝の朝日新聞で、昨日の朝青龍と鶴竜の取り組みについて、こういう風に論評していた。「背中をドンと押された鶴竜が勢いよく土俵下に落ちた。朝青龍が好調な連勝。「らしさ」が前面に出た気迫相撲だった。」
この記事を読んで、朝日のスポーツ記者はこの程度なのかと、ガッカリした。昨日の朝青龍の相撲を見て「非常に」不愉快だったのはわたしだけではなかろう。相撲は呼吸の勝負である。特に土俵際の呼吸は立ち会い以上に相撲の美しさが現れる。「押し出し」でも「突き出し」でも、土俵際で力の限りを尽くして戦う攻防は見る者に最大の興奮を与える。そして、その極限において、勝負が決まる一瞬前に負ける者は負けを認めて力を抜く。その瞬間勝つ者も力を抜き、勝負が決まる。この瞬間の呼吸がたまらない。ここで、負ける方が少しでも早く負けを認め、力を抜くと、観衆はガッカリする。「もう少しがんばれよ」と言いたくなる。勝った者も、負けた者も、そしてそれを見ている者も、みんなが納得する勝ち負けの瞬間がある。この呼吸は普段の鍛錬の結果得られるものであろう。
相撲とは裸の男と裸の男が身体を接して勝負をする。両者が緊張したままで土俵を割る場合には、たとえ土俵下に落ちても怪我をしないものであるが、負けを認めて力を抜いているのに、それをさらに押し出したり、突き放したりするのは相撲ではなく、喧嘩である。朝青龍にはこの一瞬の呼吸が分かっていないようである。朝日の記者はこの辺の呼吸をもっと学ぶべきである。
昨日の魁皇と雅山との取り組みは「模範的であった」と解説者は言っていたが、まさにその通りで、土俵際の一瞬の呼吸が美しく、すがすがしかった。この辺の呼吸が、勝ち負けにだけこだわる外国人力士には理解できないのであろう。その結果、怪我人の続出となる。やはり、相撲の究極の目的は「美」の実現でなければならない。それでこそ、神事である。

最新の画像もっと見る