ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 (2018.1.7)

2018-01-04 09:24:40 | 説教
断想:顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 (2018.1.7)

成人したイエスの登場 マルコ1:7~11

<テキスト、私訳>
「私よりも偉大なお方が、後から来られます。私は、かがんでその方の履物の紐をほどく資格もないほどです。私はあなたたちに水で洗礼を授けていますが、その方は聖霊で洗礼をお授けになります」。
ちょうどその頃、イエスというガリラヤのナザレ出身の男がやって来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。イエスが水から出てくると、天が裂けて、霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になりました。そしてまさにその時、天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者だ」という声が聞こえてきました。

<以上>

1.初期の教会における「洗礼論」
まず、顕現後第1主日は同時に「主イエス洗礼の日」とも呼ばれる。要するに誕生したイエスにとっての最初のイベントは受洗だという訳だという。ところで、ここに大問題がある。それはイエスが本当に洗礼を受けたかどうかという疑問である。それを初めてはっきりと「イエスは洗礼を受けた」と宣言したのはマルコである。従ってマルコがそれを宣言するまではハッキリしてなかった。マルコ以後でも、マタイなどはイエスは洗礼を受ける必要がなかったと考えていたようである。しかし洗礼を受けたことが事実だとしたら(つまりマルコがそういうならば)、それを否定するわけにはいかず、何とか理由付けを行っている(マタイ3:13~15)。またルカはできるだけそういう疑問を持たせないように、ただ淡々とイエスの受洗の状況を民衆の一人としての出来事として報告し、それに対する論評を避けている。これも一つの姿勢である。逆に原ヨハネ福音書(マルコ福音書のほぼ同時代)では洗礼を授けているヨハネ自身がイエスを「霊によって洗礼を授ける人である」ということを認識した出来事であったとして描く。誤解されると困るが、私もイエスが洗礼を受けたということに疑問があるわけではなく、書かれた資料としては、マルコ以外にないという事実を指摘しているだけである。
イエス自身の洗礼ではないが、ヨハネ福音書ではイエスが洗礼を授けていたのかどうかということでかなり混乱した情報があったことを暗示している(3:22,4:2)。
パウロは洗礼についてかなり懐疑的で、1コリント1:14~16で次にように言っている。「クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません」。もっともパウロの時代には洗礼そのものの理解についても、必ずしも明白ではなく、「死者のための洗礼」(1コリント15:29)というような議論さえ見られる。初期の教会では洗礼は必ず受けなければならないものと考えられていたのかも明確ではない。使徒言行録では一応、キリスト者になるということを表現するのに「洗礼を受けた者3000人」という言い方をしているが、これも順序としてはキリスト者は洗礼を受けるものであるという定式が確立した後の影響であろう。
洗礼ということについて考える場合に洗礼者ヨハネの集団との関係を考慮すべきであろう。使徒言行録によると、洗礼者ヨハネの集団による「水の洗礼」とイエスによる「聖霊による洗礼」という理解との間に確執があったような感じがする。この点については専門家による研究の成果を待たねばならないであろう。
以上のような洗礼に関する混乱を調停し、かつ洗礼者ヨハネの集団を教会に吸収合併させる根拠として、マルコは福音書においてイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたという記事を書いたのであろうと推察する。それは同時にキリスト者になるということの儀式として洗礼を位置づけることでもあった。洗礼者ヨハネによる「水の洗礼」を受けることが同時にイエスによる「聖霊の洗礼」を受ける経験となる。イエス・キリストの御名によって「水による洗礼」を受けることによって「霊を受け」キリスト者になる。キリスト教会にとって最初の受洗者はイエスであり、イエスの名によって、それ以後の人はイエスと一体化する洗礼を受けることと理解された(ロマ6:3)。この時点で「洗礼」という意味が大変身する。洗礼者ヨハネの洗礼とは「罪の悔い改めと赦し」という意味が全てであったが、イエスによる洗礼においては「聖霊を受ける」ということの意味が前面に出てきた。

2. マルコが語るイエスの洗礼
マルコが語るイエスの洗礼の場面での大きな特徴は、受洗の場面に他の人を登場させていないということである。その点ではマタイもルカも第三者が居合わせていたことを前提として語られている。なぜマルコは第三者が居合わせていないのか。つまりイエスが洗礼を受けたということの「証人」が不在である。要するに、誰が「天が開け,聖霊が鳩のように主イエスの上に降る」という情景を見ていたのか。また「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を誰が聞いたのか。もし、そこに誰かが居合わせていたとしたら、イエスの洗礼の場面は一種の「異常現象」であったことになる。ルカはわざわざ聖霊は「目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3:22)と語り、ヨハネ福音書に至っては、洗礼者ヨハネ自身の証言として「わたしは『霊』が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)と言わせている。ところがマルコは「御自分に降ってくるのをご覧になった」(マルコ1:10)で、それを見ていたのは洗礼者ヨハネとイエス自身だけであり、ヨハネは間もなく死ぬ。つまりマルコの描くイエスの洗礼には証言者がいないということが1つの特徴である。

3. 聖霊による洗礼
洗礼者ヨハネによる洗礼は「水による洗礼」である。水による洗礼の特徴は可視性にある。そこに誰かが居合わせておれば見ることが出来る。教会での洗礼式の場合、その場に居合わせている人は全て証言者となる。しかしイエスが洗礼を受けたとき「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(10節)という経験は、単に目撃者がいないというだけでなく、経験そのものが目に見えない内的なものであったことを示している。この内面的な経験を「聖霊による洗礼」という。使徒言行録19章に洗礼に関するエピソードが記録されている。
<アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」。人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった(使徒19:1~7)。>
このエピソードが「水による洗礼」と「聖霊による洗礼」との関係について最もよく説明している。つまり「聖霊による洗礼」とは「水による洗礼」という目に見える形での洗礼において、目に見えない、しかしそれを受けている人自身には明確な内面的な出来事として経験される。と同時に「水による洗礼」はたとえ経験されても「聖霊による洗礼」を経験しない場合もありうる。
このように、見てくるとイエスの洗礼について特に強調している点がはっきりしてくる。つまり、イエスが水による洗礼を受けたときに経験した出来事は、私たちも洗礼を受けたときに経験したことと同じ経験である。私たちが教会に来て、洗礼を受けたとき、それは悔改めの洗礼でもあったが、それは同時に聖霊による洗礼でもあった。それは決して「異常現象」として経験したことではなかったが、確かにその後の私たちの生活を変える出来事であった。

4. 神の子の宣言
イエスが洗礼を受けたとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉が聞こえたとされる。この言葉の出典はおそらく詩2:7であるが、この言葉をイエスに結びつける伝承はマルコよりもかなり古い。使徒言行録に残されているパウロの説教(使徒13:33)にも引用されている。パウロはイエスの復活との関連の中で、「詩編第2編」の言葉として出典を明らかにした上で引用している。ヘブル書(1:5、5:5)にもこの言葉は引用されているし、福音書ではイエスの変容の出来事とも関連づけられている。おそらく、この言葉をイエスの受洗に関連づけたのはマルコであろうと想像している。
マルコがこの「神の子宣言」をイエスの受洗という出来事と関連づけた意味あるいは目的は、私たちの洗礼経験と深く関連している。つまりイエスの洗礼が私たちの洗礼と同じ経験であるというマルコの主張によれば、この「神の子宣言」も私たちの経験である。私たちは洗礼を受けイエスの仲間にされるとき、神の子と宣言された。洗礼を受けたとき、私たちも神の子となる。
このことを神学的に、ということはマルコとは反対の方向を向いているが、明確に語ったのがヨハネである。「言(ロゴス、すなわちキリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人には神の子となる資格を与えた」(1:12)。ただし、この記事は原ヨハネではなく、教会的編集者の言葉である。

最新の画像もっと見る