断想:聖霊降臨後第24主日(特定26)(2018.11.4)
神の国から遠くない マルコ12:28~34
<テキスト、超々訳>
◆最も重要な掟(12:28~34)
1人の律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスの賢い返答に感心して、イエスに質問いたしました。「すべての戒めの中で、最も重要な戒めは何でしょうか」。イエスは答えられました、「最も重要な戒めは、『イスラエルよ、聞け。主なる私たちの神は、ただ1人の主です。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛しなさい』、これです。2番目に重要な戒めは、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい』、これです。これらより大事な戒めはありません」。
この答えを聞いた、この律法学者はイエスに言いました。「先生、仰せの通りです、『神は1人であって、その他に神はありません』と言われたのは、本当です。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われました。「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はいませんでした。
<以上>
1. 出来事
先ず始めに、簡単にストーリーを確認しておく。
先ず一人の律法学者がイエスの話を聞き、サドカイ派の人々の質問に対する「立派な答え」に感心して、「あらゆる掟のうちで、どれが第1でしょうか」と質問する。この質問はユダヤ人なら誰でも答えられるようなものであり、受け止め方によっては人をバカにしたような内容であった。しかしイエスはその質問にもまともに答えている。しかも質問者の質問以上に「第2の掟」も付け加えている。イエスの態度とその答えに律法学者の方も襟を正してイエスに対して「先生」と呼び、その答えが正しいことを認め、復唱する。ただ、その際彼も一言付け加える。「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と。今度はイエスの方が感心し、「あなたは、神の国から遠くない」と評価する。
二人の対話は決して敵対的ではなく、お互に相手の意見をよく聞き、評価した上で、自分自身の意見も付け加えている。つまりここには典型的な律法学者同士の議論が感じられる。
さて、この記事をマタイも自分の福音書の中で受け継いでいる(22:34-40)。その際マタイは、ファリサイ派の人々がイエスを論破するために、「一人の律法の専門家をイエスを試すために派遣する」と書き加える。つまり初めから意地悪な論争を仕掛けた出来事と変形する。ルカはマタイの影響を受けて「イエスを試そうとして」、議論のテーマを律法問題から「永遠の命」に関する議論に変更する(10:25-37)。その質問に対してイエスは「律法には何と書いてあるのか」と切り返す。それに対して律法の専門家は当然のこと、わかりきったこととして「心を尽くし・・・・」以下の答えをしている。編集者であるルカにとってもこの答えは当然のことで議論の余地はない。にもかかわらずルカはという文脈とは全く関係のない言葉を挿入している。その答えに対してイエスは「分かっているのなら、それを実行したらいいではないか」と語る。以下、主題は「隣人とは何か」という問題に変わる。以下の問題は本日の課題ではないので省略する。
2.問題の所在
先ずマルコに対してマタイとルカではこの問答が設定されている場と雰囲気がかなり異なることが明白である。マルコでの対話の清々しさに対してマタイとルカには非常に嫌らしい雰囲気が漂っている。マタイではイエスがサドカイ派の人々を言い込めたということが出来事の出発点となっている。そのために律法学者たちが集まって相談した上、一人の律法学者がイエスの元に派遣されている。その目的は「イエスを試す」(マタイ22:35、ルカ10:25)ということで、この場合はイエスを理論的にやっつけるということが目的である。つまりこの物語自体がイエスと律法学者、さらに広くはキリスト教とユダヤ教との敵対関係の上で展開している。確かにマルコ福音書でもイエスと律法学者たちとは険悪な関係にあったということは描かれている。例えば本日のテキストのすぐ後にもイエスが律法学者を激しく批判している言葉が見られる(12:38~40)。
しかし少なくとも本日のテキストにおいてはイエスと律法学者との対話は決して敵対的ではなく、むしろ紳士的である。何故こんなに違うのであろうか。おそらく執筆された時代の差であろう。
3.激変の10年
マルコはこのテキストの最後に「もはや、あえて質問する者はなかった」という言葉を付加している。勿論この言葉の直接的な意味は、この言葉の通りであろうが、そうするとこの出来事に続く文脈でイエスと律法学者との間でいわゆる「ダビデの子論争」が報告されているのはおかしい。おそらくマルコとしては、このような気持ちの良い論争は今後キリスト教とユダヤ人との間で行われなくなるであろうという気持ちが表れているのではないだろうか。
確かにマルコ福音書が書かれた60年頃がキリスト教とユダヤ教との関係における大きな変化の分岐点になっている。紀元62年に主の兄弟ヤコブが殉死し、第1次ユダヤ戦争(66年~70年)の結果エルサレムの神殿が崩壊し、73年にマサダの砦が陥落している。まさに激動の10年である。マルコ福音書はこの間に書かれ、マタイとルカとは激動が治まった80年代にそれぞれ福音書を書いている。この間にキリスト教とユダヤ教との関係はまったく異なってしまっている。ユダヤ教もキリスト教もそれぞれ生き残りをかけて必死の状況であり、それぞれが異なった道に進んでいった。ユダヤ教は首都エルサレムも神殿もろとも破壊され、そこに住むことさえ禁止されてしまった。もはや祭儀宗教としての機能は完全に停止し、もっぱら律法の遵守に民族のサバイバルをかける状態になっていた。キリスト教においてもユダヤ教との関係は断絶し、割礼の有無や食べ物規定などユダヤ教に由来する諸習慣も問題にされなくなっていった。
実はエルサレム陥落に際して全ユダヤ人は可能な限りエルサレムに留まりローマに対する抵抗運動を展開していた。最も激しく抵抗したのがいわゆるゼーロタイと呼ばれる熱心党で最終的にはこの抵抗運動は紀元73年にマサダの砦で全員玉砕という悲劇で終わった。エルサレムの神殿の崩壊によりサドカイ派は消滅し、ファリサイ派の内の過激な部分はゼーロタイに加わって全滅し、ファイサイ派の穏健グループだけが存続した。その間の混乱の中、キリスト教はいち早くエルサレムを脱出してヨルダン川の東側のペラという町やガリラヤ地方に移住をしている。そのためファリサイ派ではキリスト教徒に対して「裏切り者」というレッテルを貼り、両者の関係は断絶したのである。それ以後、キリスト教とユダヤ教とは敵対関係になった。そのような状況においてマタイはキリスト教こそがユダヤ教の正統な後継者であると自覚し思想を形成したのである。マルコ福音書にはイエスとユダヤ教とがそれほど敵対的でなかった時代の残映が保存されている。それが本日のテキストであろう。
4.イエスの言葉
イエスの言葉に立ち帰って考える。この時イエスは律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」と語られた。「遠くない」とは一体どういう意味であろう。まったく同じだという訳ではないが、全然間違っているという訳でもない。まさに「遠くない」である。神の国まで後一歩。この場合、もちろん「神の国」とは「私(イエス)と同じ立場」、「イエスの仲間」、教会を意味する。この一歩を乗り越えれば、あなたと私は完全に一致する。じゃ、イエスのその「最後一歩」とは何を意味しているのだろうか。それを発見する5つのヒントがここでの会話の中に隠されている。
先ず第1のヒントは
(1)「焼き尽くす献げ物やいけにえにまさるもの」
この言葉は「そうだ。あなたは神の国から遠くはない」といわれた直前に律法学者が口にした言葉である。この言葉が直接的に意味することは、隣人愛は宗教的儀式よりも優れているという意味である。宗教的儀式を否定しているわけではないが、それではまだ足りないのだ。神へ向かう愛が隣人へと向かわなければならないということであろう。イエスは律法学者の言葉の中にその方向性を見て、もう後一歩だと言った。その最後の一歩とは何であろうか。
そこで第2のヒント、これも律法学者の言葉を受けて、
(2)「隣人を自分のように愛する」
ここでいう「自分のように」とはなにか。「自分のように隣人を愛する」とはどういうことか。この言葉をレビ記にまで遡って考えると、要するに、この句は隣人と自分自身とを同等に扱えという意味であるらしい(参照:辻学『隣人愛のはじまり』44頁以下)。言葉としては分かりやすいが、実際の場面でこれを実践しようと思うと、それは大変難しいことになる。究極的には命の譲り合い、あるいは命の奪い合いという場面をも想定しなければならないだろう。勿論、相手次第ということだろうが、この戒めはそこまで要求しているのであろうか。少なくともこの言葉は甘くはない。「どこまで」という問いが残る。そこで10:17~21の金持ちの男の出来事を思い出す。そこで第3のヒントは、
(3)「あなたに欠けているものが一つある」
金持ちの男は十戒における人間に関連する6つの戒めを「子供の時から守ってきました」と宣言する。この言葉には偽りはないであろう。イエスはこの男にさらに何を要求するのであろうか。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とイエスは命じる。この言葉を聞いてこの男は気を落として、悲しみながら立ち去ったという。
あなた方はこの出来事をどう考えるのだろうか。イエスの言葉の方が無茶である。この人の方が正しいと思わないだろうか。財産を全部売ってしまったら、もうそれから以後、人々に施すこともできなくなるではないか。それでいいのだろうか。「全部施せ」という言葉には愛の行為には限界がないことを示している。この出来事は非常に重要な問題を提起している。ユダヤ教徒である律法学者の隣人愛とは「ここまで」であろう。
この出来事を通してイエスが示している第4のヒントは、
(4) 隣人愛の限界を超えるものである。
隣人愛を超えるもの、言わば、「敵を愛する」ということが思い浮かぶ。残念ながらマルコには敵を愛するという思想は見られない。敵を愛するとは倫理に属する概念であり、それはマタイの言葉であるし、ユダヤ教においても既に出て来ている倫理思想である。
そこで最後の第5のヒント、
(5) ユダヤ教になくて、キリスト教にあるものとは何か。
この律法学者はユダヤ教における隣人愛を示し、イエスはそれを認め「あなたは神の国から遠くはない」といわれた。つまり、それはユダヤ教にはなくてイエスにあるものである。それは何か。この点こそすべてのキリスト者はしっかりと自覚しておかねばならないことである。この点を認めるからこそ、私たちはユダヤ教徒ではなく、仏教徒ではなく、他のいかなる宗教の信者ではなく、キリスト者である。もし、この点を自覚し、それこそが本当の愛であるということを認めるならば、その人はどのような宗教に属していようと、あるいは無宗教であろうと、「キリスト者」である。まさにその点こそ、律法学者パウロがイエスの中に見たものであり、イエスを信じ、イエスに従ったものである。
ヨハネ文書の著者はそれをこういう言葉で示している。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(1ヨハネ3:16)。この言葉はパウロよりも一世代後のキリスト者による言葉であるが、パウロ自身が経験したことでもある。だからこそ、パウロはキリストの十字架に異常なこだわりを持つ。
神の国から遠くない マルコ12:28~34
<テキスト、超々訳>
◆最も重要な掟(12:28~34)
1人の律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスの賢い返答に感心して、イエスに質問いたしました。「すべての戒めの中で、最も重要な戒めは何でしょうか」。イエスは答えられました、「最も重要な戒めは、『イスラエルよ、聞け。主なる私たちの神は、ただ1人の主です。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛しなさい』、これです。2番目に重要な戒めは、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい』、これです。これらより大事な戒めはありません」。
この答えを聞いた、この律法学者はイエスに言いました。「先生、仰せの通りです、『神は1人であって、その他に神はありません』と言われたのは、本当です。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われました。「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はいませんでした。
<以上>
1. 出来事
先ず始めに、簡単にストーリーを確認しておく。
先ず一人の律法学者がイエスの話を聞き、サドカイ派の人々の質問に対する「立派な答え」に感心して、「あらゆる掟のうちで、どれが第1でしょうか」と質問する。この質問はユダヤ人なら誰でも答えられるようなものであり、受け止め方によっては人をバカにしたような内容であった。しかしイエスはその質問にもまともに答えている。しかも質問者の質問以上に「第2の掟」も付け加えている。イエスの態度とその答えに律法学者の方も襟を正してイエスに対して「先生」と呼び、その答えが正しいことを認め、復唱する。ただ、その際彼も一言付け加える。「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と。今度はイエスの方が感心し、「あなたは、神の国から遠くない」と評価する。
二人の対話は決して敵対的ではなく、お互に相手の意見をよく聞き、評価した上で、自分自身の意見も付け加えている。つまりここには典型的な律法学者同士の議論が感じられる。
さて、この記事をマタイも自分の福音書の中で受け継いでいる(22:34-40)。その際マタイは、ファリサイ派の人々がイエスを論破するために、「一人の律法の専門家をイエスを試すために派遣する」と書き加える。つまり初めから意地悪な論争を仕掛けた出来事と変形する。ルカはマタイの影響を受けて「イエスを試そうとして」、議論のテーマを律法問題から「永遠の命」に関する議論に変更する(10:25-37)。その質問に対してイエスは「律法には何と書いてあるのか」と切り返す。それに対して律法の専門家は当然のこと、わかりきったこととして「心を尽くし・・・・」以下の答えをしている。編集者であるルカにとってもこの答えは当然のことで議論の余地はない。にもかかわらずルカはという文脈とは全く関係のない言葉を挿入している。その答えに対してイエスは「分かっているのなら、それを実行したらいいではないか」と語る。以下、主題は「隣人とは何か」という問題に変わる。以下の問題は本日の課題ではないので省略する。
2.問題の所在
先ずマルコに対してマタイとルカではこの問答が設定されている場と雰囲気がかなり異なることが明白である。マルコでの対話の清々しさに対してマタイとルカには非常に嫌らしい雰囲気が漂っている。マタイではイエスがサドカイ派の人々を言い込めたということが出来事の出発点となっている。そのために律法学者たちが集まって相談した上、一人の律法学者がイエスの元に派遣されている。その目的は「イエスを試す」(マタイ22:35、ルカ10:25)ということで、この場合はイエスを理論的にやっつけるということが目的である。つまりこの物語自体がイエスと律法学者、さらに広くはキリスト教とユダヤ教との敵対関係の上で展開している。確かにマルコ福音書でもイエスと律法学者たちとは険悪な関係にあったということは描かれている。例えば本日のテキストのすぐ後にもイエスが律法学者を激しく批判している言葉が見られる(12:38~40)。
しかし少なくとも本日のテキストにおいてはイエスと律法学者との対話は決して敵対的ではなく、むしろ紳士的である。何故こんなに違うのであろうか。おそらく執筆された時代の差であろう。
3.激変の10年
マルコはこのテキストの最後に「もはや、あえて質問する者はなかった」という言葉を付加している。勿論この言葉の直接的な意味は、この言葉の通りであろうが、そうするとこの出来事に続く文脈でイエスと律法学者との間でいわゆる「ダビデの子論争」が報告されているのはおかしい。おそらくマルコとしては、このような気持ちの良い論争は今後キリスト教とユダヤ人との間で行われなくなるであろうという気持ちが表れているのではないだろうか。
確かにマルコ福音書が書かれた60年頃がキリスト教とユダヤ教との関係における大きな変化の分岐点になっている。紀元62年に主の兄弟ヤコブが殉死し、第1次ユダヤ戦争(66年~70年)の結果エルサレムの神殿が崩壊し、73年にマサダの砦が陥落している。まさに激動の10年である。マルコ福音書はこの間に書かれ、マタイとルカとは激動が治まった80年代にそれぞれ福音書を書いている。この間にキリスト教とユダヤ教との関係はまったく異なってしまっている。ユダヤ教もキリスト教もそれぞれ生き残りをかけて必死の状況であり、それぞれが異なった道に進んでいった。ユダヤ教は首都エルサレムも神殿もろとも破壊され、そこに住むことさえ禁止されてしまった。もはや祭儀宗教としての機能は完全に停止し、もっぱら律法の遵守に民族のサバイバルをかける状態になっていた。キリスト教においてもユダヤ教との関係は断絶し、割礼の有無や食べ物規定などユダヤ教に由来する諸習慣も問題にされなくなっていった。
実はエルサレム陥落に際して全ユダヤ人は可能な限りエルサレムに留まりローマに対する抵抗運動を展開していた。最も激しく抵抗したのがいわゆるゼーロタイと呼ばれる熱心党で最終的にはこの抵抗運動は紀元73年にマサダの砦で全員玉砕という悲劇で終わった。エルサレムの神殿の崩壊によりサドカイ派は消滅し、ファリサイ派の内の過激な部分はゼーロタイに加わって全滅し、ファイサイ派の穏健グループだけが存続した。その間の混乱の中、キリスト教はいち早くエルサレムを脱出してヨルダン川の東側のペラという町やガリラヤ地方に移住をしている。そのためファリサイ派ではキリスト教徒に対して「裏切り者」というレッテルを貼り、両者の関係は断絶したのである。それ以後、キリスト教とユダヤ教とは敵対関係になった。そのような状況においてマタイはキリスト教こそがユダヤ教の正統な後継者であると自覚し思想を形成したのである。マルコ福音書にはイエスとユダヤ教とがそれほど敵対的でなかった時代の残映が保存されている。それが本日のテキストであろう。
4.イエスの言葉
イエスの言葉に立ち帰って考える。この時イエスは律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」と語られた。「遠くない」とは一体どういう意味であろう。まったく同じだという訳ではないが、全然間違っているという訳でもない。まさに「遠くない」である。神の国まで後一歩。この場合、もちろん「神の国」とは「私(イエス)と同じ立場」、「イエスの仲間」、教会を意味する。この一歩を乗り越えれば、あなたと私は完全に一致する。じゃ、イエスのその「最後一歩」とは何を意味しているのだろうか。それを発見する5つのヒントがここでの会話の中に隠されている。
先ず第1のヒントは
(1)「焼き尽くす献げ物やいけにえにまさるもの」
この言葉は「そうだ。あなたは神の国から遠くはない」といわれた直前に律法学者が口にした言葉である。この言葉が直接的に意味することは、隣人愛は宗教的儀式よりも優れているという意味である。宗教的儀式を否定しているわけではないが、それではまだ足りないのだ。神へ向かう愛が隣人へと向かわなければならないということであろう。イエスは律法学者の言葉の中にその方向性を見て、もう後一歩だと言った。その最後の一歩とは何であろうか。
そこで第2のヒント、これも律法学者の言葉を受けて、
(2)「隣人を自分のように愛する」
ここでいう「自分のように」とはなにか。「自分のように隣人を愛する」とはどういうことか。この言葉をレビ記にまで遡って考えると、要するに、この句は隣人と自分自身とを同等に扱えという意味であるらしい(参照:辻学『隣人愛のはじまり』44頁以下)。言葉としては分かりやすいが、実際の場面でこれを実践しようと思うと、それは大変難しいことになる。究極的には命の譲り合い、あるいは命の奪い合いという場面をも想定しなければならないだろう。勿論、相手次第ということだろうが、この戒めはそこまで要求しているのであろうか。少なくともこの言葉は甘くはない。「どこまで」という問いが残る。そこで10:17~21の金持ちの男の出来事を思い出す。そこで第3のヒントは、
(3)「あなたに欠けているものが一つある」
金持ちの男は十戒における人間に関連する6つの戒めを「子供の時から守ってきました」と宣言する。この言葉には偽りはないであろう。イエスはこの男にさらに何を要求するのであろうか。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とイエスは命じる。この言葉を聞いてこの男は気を落として、悲しみながら立ち去ったという。
あなた方はこの出来事をどう考えるのだろうか。イエスの言葉の方が無茶である。この人の方が正しいと思わないだろうか。財産を全部売ってしまったら、もうそれから以後、人々に施すこともできなくなるではないか。それでいいのだろうか。「全部施せ」という言葉には愛の行為には限界がないことを示している。この出来事は非常に重要な問題を提起している。ユダヤ教徒である律法学者の隣人愛とは「ここまで」であろう。
この出来事を通してイエスが示している第4のヒントは、
(4) 隣人愛の限界を超えるものである。
隣人愛を超えるもの、言わば、「敵を愛する」ということが思い浮かぶ。残念ながらマルコには敵を愛するという思想は見られない。敵を愛するとは倫理に属する概念であり、それはマタイの言葉であるし、ユダヤ教においても既に出て来ている倫理思想である。
そこで最後の第5のヒント、
(5) ユダヤ教になくて、キリスト教にあるものとは何か。
この律法学者はユダヤ教における隣人愛を示し、イエスはそれを認め「あなたは神の国から遠くはない」といわれた。つまり、それはユダヤ教にはなくてイエスにあるものである。それは何か。この点こそすべてのキリスト者はしっかりと自覚しておかねばならないことである。この点を認めるからこそ、私たちはユダヤ教徒ではなく、仏教徒ではなく、他のいかなる宗教の信者ではなく、キリスト者である。もし、この点を自覚し、それこそが本当の愛であるということを認めるならば、その人はどのような宗教に属していようと、あるいは無宗教であろうと、「キリスト者」である。まさにその点こそ、律法学者パウロがイエスの中に見たものであり、イエスを信じ、イエスに従ったものである。
ヨハネ文書の著者はそれをこういう言葉で示している。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(1ヨハネ3:16)。この言葉はパウロよりも一世代後のキリスト者による言葉であるが、パウロ自身が経験したことでもある。だからこそ、パウロはキリストの十字架に異常なこだわりを持つ。