
かなり以前に古本屋で見つけて手に入れ、読みたいと思いながら、なかなか読めなかった本であるが、この度一気に読み上げた。この本を改めて取り上げた理由は、過越の祭りという大きな祭りの期間に重大事件の裁判や処刑が行われたということについての疑問からである。
著者は1915年、ニューヨーク生まれのユダヤ人(非キリスト者)で、オックスフォード大学でオリエント学を専攻した学者である。この書は、一人のユダヤ人として福音書や使徒言行録、およびパウロ書簡をかなり丹念に読み、そこに描かれているイエスという人物について分析し、イエスは900人ないし2000人の手兵をひきいて、エルサレムの神殿を占拠したと推論する。従ってイエスはローマの手により、ローマの方法により処刑されたのであるとする。その後のキリスト教の歴史において、キリスト教はローマ社会で生き抜くために、イエスはユダヤ人の手により処刑されたという視点から福音書が編集されたと言う。
もう一つの点は、イエスの生涯とその後パウロによって展開されたキリスト教との間には連続性はないと言う。この点については、すでにブルトマンによって論じられていることと重なるが、ユダヤ人でなければ分からない点も多く拾い上げられており、非常に面白いが危険でもある。純真なキリスト者には「毒」ではあるが、まさか「禁書」にするわけにはいかないであろう。まぁ、こういう聖書の読み方もあるのだということは知っておいてもよいであろう。これを読んで自分のキリスト教信仰というものが何を土台にしているのかということを考えることも大切ではある。
著者は1915年、ニューヨーク生まれのユダヤ人(非キリスト者)で、オックスフォード大学でオリエント学を専攻した学者である。この書は、一人のユダヤ人として福音書や使徒言行録、およびパウロ書簡をかなり丹念に読み、そこに描かれているイエスという人物について分析し、イエスは900人ないし2000人の手兵をひきいて、エルサレムの神殿を占拠したと推論する。従ってイエスはローマの手により、ローマの方法により処刑されたのであるとする。その後のキリスト教の歴史において、キリスト教はローマ社会で生き抜くために、イエスはユダヤ人の手により処刑されたという視点から福音書が編集されたと言う。
もう一つの点は、イエスの生涯とその後パウロによって展開されたキリスト教との間には連続性はないと言う。この点については、すでにブルトマンによって論じられていることと重なるが、ユダヤ人でなければ分からない点も多く拾い上げられており、非常に面白いが危険でもある。純真なキリスト者には「毒」ではあるが、まさか「禁書」にするわけにはいかないであろう。まぁ、こういう聖書の読み方もあるのだということは知っておいてもよいであろう。これを読んで自分のキリスト教信仰というものが何を土台にしているのかということを考えることも大切ではある。