今日、友人の鈴木慎梧君から、彼の妻・絹代さんが去る2月14日に「亡き父母のところへ旅立ちました」という手紙を頂きました。彼女のことについては昨年12月7日のブログで紹介いたしましたのでご記憶にある方もおられることと思います。彼女の葬儀は翌2月15日に、夫慎梧さんの司式によって家族葬で執り行われたとのこと。いかにも鈴木家らしい見送りです。
慎梧君は彼女の最期について「2月12日は、自分でトイレに行けたのですが、もうからだが悲鳴をあげていたようで、急にストーンと落ちていったようです」と知らせてくれました。娘さんも「お母さんは最初の7ヶ月の入院生活はすごく、輝いていたけれど、この度の最期はもう一つすごかったね。誰にも下の世話をさせなかったねぇ」と言ったとのこと。まるで彼女の生と共に死も、詩そのもののようです。
最初に彼女の詩を読んだときの「これが詩か」という驚きを忘れることができません。別に韻を含んでいるわけでもありませんし、字数が整っているわけでもありません。まるで小学生の「作文」のように文章が並べられているだけです。ところが、ところがです。その言葉の羅列がすごい。前に紹介した詩ですがもう一度紹介しておきましょう。
………………………………………………
ドキドキ
知らない言葉が
ある言葉とつながった
知らない人が
ある人とつながった
知らない事が
ある事とつながった
もうドキドキ
この一年 数えきれない
ドキドキを感じてきた
新しい年も
この小さなドキドキを
感じていたい
それが私が私であること
………………………………………………
彼女の詩には言葉そのものの魅力がある。誰でも知っている平凡な言葉が彼女の口から発せられると、あるいは字によって並べられると、それが詩になる。これこそが詩の原形です。こんな詩は書こうと思って書けるものではありません。すべての技巧を排除して、言葉そのものの魅力、いや言葉でもなく、彼女の生活そのものが描かれるとき、それが詩になる。
非常に悔やむことが一つだけあります。彼女とは若い頃、慎梧君と彼女とが結婚した頃、神学部の同級生たちが集まって飲んだり騒いだりしていたとき、言葉を交わしただけであったし、その後はほとんど会うチャンスがありませんでした。慎吾君もそうですが、彼女も無口な方で、口から生まれたような連中(そのほとんどが牧師)の中で、ただ楽しそうに微笑んでいただけの彼女でした。こんな詩を書く彼女の普段の話し方や、言葉にもっと接したかったと思います。それが唯一の悔いです。
牧師と結婚した女性は何らかの形で「牧師夫人」という役割を担うことになります。慎梧君の宣教のスタイルや牧会の状況では、ほとんど彼女の出番はなかったかも知れないなぁ、と思うのは実に浅はかなことで、彼女は言葉そのもので彼の宣教を支えていたのだと思います。もうそれは「内助の功」などというレベルをはるかに超えて、御言葉に仕える牧師の言葉そのものを共に担う者であったと思います。その結果、とうとう慎梧君自身が詩人になってしまいました。神戸新聞の文芸欄に紹介された彼の詩を紹介しておきましょう。
………………………………………………
「わが妻」
朝、起きて
しあわせ!
青空を見て
しあわせ!
雨に打たれて
しあわせ!
道端の小さな花に微笑まれて
しあわせ!
お風呂に入って
しあわせ!
ガンになって
しあわせ!
と妻は言う
このバレンタインデーの朝
ありがとう!
と言って
天の父母のところへ帰った
………………………………………………
主よ、世を去った姉妹鈴木絹代の魂が、主の憐れみによって安らかに憩うことができますように。アーメン。
主よ、世を去った主の下僕を御心に留めてください。彼女とすべてキリストにあって憩う人々に、主の約束された光明と平安をお与えくださいますように。アーメン
慎梧君は彼女の最期について「2月12日は、自分でトイレに行けたのですが、もうからだが悲鳴をあげていたようで、急にストーンと落ちていったようです」と知らせてくれました。娘さんも「お母さんは最初の7ヶ月の入院生活はすごく、輝いていたけれど、この度の最期はもう一つすごかったね。誰にも下の世話をさせなかったねぇ」と言ったとのこと。まるで彼女の生と共に死も、詩そのもののようです。
最初に彼女の詩を読んだときの「これが詩か」という驚きを忘れることができません。別に韻を含んでいるわけでもありませんし、字数が整っているわけでもありません。まるで小学生の「作文」のように文章が並べられているだけです。ところが、ところがです。その言葉の羅列がすごい。前に紹介した詩ですがもう一度紹介しておきましょう。
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ドキドキ
知らない言葉が
ある言葉とつながった
知らない人が
ある人とつながった
知らない事が
ある事とつながった
もうドキドキ
この一年 数えきれない
ドキドキを感じてきた
新しい年も
この小さなドキドキを
感じていたい
それが私が私であること
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彼女の詩には言葉そのものの魅力がある。誰でも知っている平凡な言葉が彼女の口から発せられると、あるいは字によって並べられると、それが詩になる。これこそが詩の原形です。こんな詩は書こうと思って書けるものではありません。すべての技巧を排除して、言葉そのものの魅力、いや言葉でもなく、彼女の生活そのものが描かれるとき、それが詩になる。
非常に悔やむことが一つだけあります。彼女とは若い頃、慎梧君と彼女とが結婚した頃、神学部の同級生たちが集まって飲んだり騒いだりしていたとき、言葉を交わしただけであったし、その後はほとんど会うチャンスがありませんでした。慎吾君もそうですが、彼女も無口な方で、口から生まれたような連中(そのほとんどが牧師)の中で、ただ楽しそうに微笑んでいただけの彼女でした。こんな詩を書く彼女の普段の話し方や、言葉にもっと接したかったと思います。それが唯一の悔いです。
牧師と結婚した女性は何らかの形で「牧師夫人」という役割を担うことになります。慎梧君の宣教のスタイルや牧会の状況では、ほとんど彼女の出番はなかったかも知れないなぁ、と思うのは実に浅はかなことで、彼女は言葉そのもので彼の宣教を支えていたのだと思います。もうそれは「内助の功」などというレベルをはるかに超えて、御言葉に仕える牧師の言葉そのものを共に担う者であったと思います。その結果、とうとう慎梧君自身が詩人になってしまいました。神戸新聞の文芸欄に紹介された彼の詩を紹介しておきましょう。
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「わが妻」
朝、起きて
しあわせ!
青空を見て
しあわせ!
雨に打たれて
しあわせ!
道端の小さな花に微笑まれて
しあわせ!
お風呂に入って
しあわせ!
ガンになって
しあわせ!
と妻は言う
このバレンタインデーの朝
ありがとう!
と言って
天の父母のところへ帰った
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主よ、世を去った姉妹鈴木絹代の魂が、主の憐れみによって安らかに憩うことができますように。アーメン。
主よ、世を去った主の下僕を御心に留めてください。彼女とすべてキリストにあって憩う人々に、主の約束された光明と平安をお与えくださいますように。アーメン