ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

長崎の爆心地に立って

2009-10-04 07:47:59 | ときのまにまに
昨日、掲載しましたカンタベリー大主教の演説の翻訳ができあがりましたので、掲載いたします。この翻訳は一部不明な部分や理解困難な箇所を、宮崎聖三一教会のベイカー夫妻に御教示・添削していただきました。心から感謝いたします。とはいえ、文責はすべてわたしにあります。これは決して日本聖公会の公式な文章ではありません。従って、転載自由といたします。ただし、永井隆博士の文章は原文には当たっていませんので、その点をご配慮ください。

カンタベリー大主教演説
長崎の爆心地に立って(Act of Remenbarance at the epicentre of the atomic bomb blast in Nagasaki)
2009.9.24

人間の歴史において悲劇というものを含まない勝利というものはありません。勝った者がいるところに必ず負けた人がいるということを意味しています。しかも、その勝利は通常、誰かの生命を奪い、幸福な生活を破壊し、希望と安全を脅かして得られるものです。
時には、悲劇的な暴力によって獲得された勝利というものでは、全ての人が敗者となります。そこでは勝利者自身の生命や平穏で幸せな生活をも犠牲にした結果です。
ここ長崎に参りまして、原子爆弾が使用された結果を拝見いたしました。原子爆弾の破壊力の大きさや、被害がいかにひどいもので全ての人を敗北者にしてしまったかがよく分かります。多くの罪のない人々の生命を奪い、自然や文化環境を破壊する。しかもその影響は生き延びた者の上に、物理的に心理的に半永久的に残ります。原子爆弾の使用は被害者だけではなく、投下した人たちにも影響を与え深い傷をもたらしました。
カトリック教会の著作者ロナルド・ノックス氏は、原子爆弾が落とされた1945年に、この爆弾は信仰、希望、そして愛、言い換えるとキリスト教の中心的なメッセージに対する挑戦であると述べました。この挑戦は核兵器のような大量破壊兵器が国際紛争を解決する手段として用いられる限り続いています。これらの兵器は通常兵器とは区別されるべきでしょう。なぜなら、大量破壊兵器は常に罪のない多くの人々を犠牲にするからです。大量破壊兵器はわたしたちが生きている自然的文化的環境を破壊し、しかも、その物質的、生命的影響力は全世界で長期間にわたって甚大な影響力を残します。そのような兵器の使用について計画すること自体が自ずと自分達を破壊に導いていることなのです。人類を脅かし、人間社会を踏みにじることは人間が人間である尊厳性を失わせる第1歩です。核兵器のない世界を作り出すことは人間の道徳および尊厳のための重要な働きであります。
核兵器のない世界を求め、考え、実現への向かうことは非常に難しい道です。しかし、人間自身がこの破壊的な技術を手に入れてしまったのです。そうである以上、そしてわたしたちが人間の尊厳ということに真剣であり続けたいと思うならば、同時にわたしたちはあたかもそれが存在しないかのように、また選択の余地がないかのように振る舞うことは許されません。もし、このことが実現されなければ、わたしたちはわたしたち自身が作りだしたものの奴隷になってしまうでしょう。それは一種の偶像礼拝で、神に対する重大な罪です。神はわたしたちを生命と死とを選ぶ自由をもつものとして創造されました。はっきりと言いますが、わたしたちは核兵器のない世界という希望を現実化することを求めています。わたしたちは核兵器について、現実的で同時に道徳的な方策を求めて、そこへ向かう道筋を見失ってはなりません。たとえ小さな一歩であったとしても、その道に向かって歩み始めたいと思います。
長崎のキリスト者で偉大なる聖人・賢人と呼ばれている永井隆博士は「長崎の鐘」という有名な本の中で次のように言っています。「核エネルギーの時代において、神によって宇宙の構造の中に隠されてきた 両刃の剣を遂に人類は手にしました。神は現在でも、この両刃の剣を左に向けるか右に向けるかということについて人間の自由意志に任せておられます」(116頁)。彼の著書の最後にある次の言葉を忘れてはなりません。「カトリック教会の(そして聖公会の)、また大聖堂のアンジェラスの鐘が日に3度鳴るとき、わたしたちは一つの祈りへと呼びかけられています。その鐘の音は、乙女マリアが救い主の母に選ばれた瞬間を思い起こさせ、マリアが神の呼びかけを受け入れたことを祝福する響きをもっています」。
人間の自由は全世界を変容させるプロセスの出発点となります。マリアが神の呼びかけを受け入れたことが、イエスによる被造物の更新に向けての神の働きの始まりとなりました。みなさん方のほとんどは、人類による「連鎖的反応」を立ち上げることが可能だと思いますか。今の瞬間でさえ、神へ立ち返り、神の意志を実現しようという自由な行動はわたしたちが考え、理解しているよりもはるかに大きなことを結果をもたらします。わたしたちが実際に見ているキリスト者の行動はいかにも小さいものです。しかし、彼らはもっとも困難で、厳しい状況の中で神の呼びかけに向かって「ハイ」と答えたのです。ちょうど、永井博士が「ハイ」と答え、それが多くの人々に希望と生きる意味とをもたらしたのと同じように。
自由ということが重要な点です。自由な選択により、この都市の上で原子爆弾が投下され、それにより連鎖作用がスタートいたしました。文字通り、それは爆発による大量破壊であり、直接的ではないにせよ放射能による長期的な荒廃をもたらし、現在も続いています。そのことは非常に象徴的です。ここ爆心地から諸国家間の核兵器競争が始まったのです。それは神へと向かう自由の創造的な衝動と正反対のイメージです。
わたしたちの祈りは、わたしたち自身に固くまとわりついている鎖から解き放たれること、神へと向かう創造的な衝動を求めるものでなければなりません。そのためにはわたしたちはこの都市を襲った恐ろしい運命を繰り返してはならないという固い決意を持って生きねばなりません。わたしたちは、また神の恵みにより、神の導きにより、いかにして大量破壊という恐怖のない世界を実現できるか見出そうではありませんか。
神は聖書の中で神の民に向かって「生きることを選べ」と語っておられます。神ご自身の自由な愛がわたしたちを導き、よい選択をさせてくださいますように。
文責:文屋善明


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