ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 02/21 70人訳とヘブライ語聖書の正典化

2017-02-23 08:32:53 | ツイッター
お早うございます。主の平和。家内は整骨院へ。私は読書。カガミ『キリスト教史』。昼食後2時間ほど昼寝(OTB)。雨のため釣川散策は中止。良久が様子を見に来た。夕食後、「しくじり先生」を見て10時に就寝。6時に起床。体温:36.1、血圧(132:75、77)、体調・快調、チュン、チュン。

28 播 稔さん、Izumi Naraさん、他26人
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村田 多鶴子 おはようございます~♪近くにいつも気にかけて下さるご子息が居られて心強いですね。
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

文屋 善明 良久は孫息子3号です。4月から高校2年、剣道少年です。

東山 富昭 おはよう😃ございます。今日は、みぞれが降っていました。家の売却が完了したので、疲れがでています。耳鳴りが、おさまりません。今日も、よろしく、お願いします。

久保和男 今日はこんばんは、主の平和。

文屋 善明
2月21日 6:29 ·

お目覚めの花。「梅は過ぎたし、桜はまだだ。花枯れのこの時期、寂しいですね」(この写真は、どこかのお宅のお庭の椿(?)。2010年3月撮影)。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然、屋外

28 Nozomi Moriwakeさん、福澤浩子さん、他26人
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清水 行雄 この椿の写真も見事です。シャンと咲いていますね。

文屋 善明
2月21日 6:57 ·

2017 日々の聖句 2月21日(火)
目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方を(の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。)(イザヤ40:26)
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、(王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、)万物は御子によって、御子のために造られました。(コロサイ1:16)
私の黙想:
旧約の聖句も、新約の聖句も、何という仰々しさ。注目点、「それらを数えて、引き出された方」、天地万物を創造された方が、それら全てを整列させて、それらの名前を見て歩き、満足している様子である。これこそが正に、軍隊における「閲兵」である。だから、口語訳ではここで「万軍」、フランシスコ会訳では「軍勢」という言葉を用いている。ローズンゲンは省略しているが、その後ろの言葉が生きてくる。「その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」。まさに全軍の強さ、規律の良さを眺めて満足する。時には、外国の首相を招いて見せつける。我が国に逆らったら酷い目に遭うぞ。これが「閲兵」である。たぶん訳語としては「(天の)万象」(新共同訳、新改訳、岩波訳)の方が正確なのであろうが、それでは神の「御稜威」は表現されない。ここやはり「天の万軍」であろう。ところで、余談になるがこの「万軍」という言葉、昔は「ばんぐん」と読んでいたはずなのに、「banngun」と入力しても転換されない。仕方なしに「manngun」と入力しているが、困ったものだ。軍隊用語まで変えさせられたのか。

23 播 稔さん、久保和男さん、他21人
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水草 修治 bangun  と入力すればOKかもしれません。nを重ねないのです。

文屋 善明 やってみます。

文屋 善明
2月21日 7:04 ·

今日の名言:@KarlMarxbot
人間への需要が人間の生産を厳しく制限するのは、あらゆる商品の場合と変わらない。供給が需要を大きく上回れば、労働者の一部は乞食や餓死へと追い込まれる。労働者が生存できるかどうかは、ある商品が存在できるかどうかと同じ条件下にある。(マルクス)
<一言>出典は明らかではないが、いかにもマルクス的視点である。それは間違っているだろうとマルクスはいいたいのだ。しかし、資本主義の現実下ではそうなっている。「余剰労働力」つまり、失業とはこの問題である。

20 播 稔さん、東山 富昭さん、他18人

文屋 善明
2月21日 7:08 ·

イミタチオ・クリスチ(403)
真の意味での謙遜な人とは、大きな事をしたときでも、大きな事とは思わないで、「私は無力な人間に過ぎません。なすべき事をしただけです」と告白できる人のことである。2:11:26

28 芳賀 道子さん、播 稔さん、他26人
コメント

Miyuki Kawahara ニュース観ました。残念なことが起きました。

文屋 善明 コメントの場所が違うのではありませんか。

Miyuki Kawahara 太い指先のせいにしてお許しを

文屋 善明 関学のことですね。

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
2月21日 7:13 ·

へ~、5年前のローズンゲンもイザヤ書40章だったのか。こっちの方は忙しく働く神だったのだ。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年2月21日 ·
losungenj 2012.02.21(tue)
あなたは知らず、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れず、その英知は究めがたい。(Isa40:28)
神は恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。(Act14:17)
私の黙想
「疲れ知らずの神」、「働き続ける神」、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(イエス)。すぐに疲れ、飽き、身体を壊す人間(いや、私自身)、人間は神には成れない。

9 久保和男さん、中尾香鶴子さん、他7人

文屋 善明
2月21日 8:28 ·

久しぶりに、本当に久しぶりに朝日新聞の署名記事でスカッとした。残念ながら、これは朝日デジタルの記事だ。それで、あえて、ここにシェアする。政治部次長・高橋純子さんの署名入りの記事である。是非、じっくり読んでほしい。
「仕方ない帝国」に生きてて楽しい? (政治断簡)2017年2月19日
日米首脳会談から1週間余、この言葉を嚙みしめている。脳内BGMは「世界は二人のために」。どこに行くのかあなたと2人、厚遇、おべっか、ナイスショット。
2人は、「嗤う」が板についているという点で「類」だと私は思っている。人をバカにしたり見下したりは誰しもついつい普通にあるが、それと「嗤う」ではステージが違う。あざけって、わらう。さげすんで、わらう。なかなかできることではない。ある意味才能。褒めてないけど。
     ◇
1月26日、衆院予算委員会。民進党の大西健介氏が質問している最中、ツツーと安倍晋三首相が退席した。
え? なに? トイレ? 騒然とする委員室。やがて戻ってきた首相は、ズボンをずり上げるしぐさに続き、両手を上げて伸びをして、閣僚らからドッと笑いが起きた。
国会審議を軽んじている。カリカリと質問する野党議員を見下し、嗤っている――。
「真意」はこの際関係ない。権力者の言動はそれ自体がメッセージだからだ。ああ。心がザラザラする。お前は無力だ、お前のやることには何の価値もないというメッセージを、まんまと感受してしまった。嗤われる側はそうやって少しずつ気力をそがれ、政治のダイナミズムは失われる。
もちろん逆に、嗤う権力者を痛快で頼もしいと感じる人もいるだろう。だが、嗤いは嗤いを、軽蔑は軽蔑を招き、社会はすさむ。そう。俳優のメリル・ストリープさんが先月、ゴールデングローブ賞の授賞式で、かの大統領を念頭にスピーチしたように。
「衝動的に人を侮辱するパフォーマンスを権力のある人間が演じれば、あらゆる人たちの生活に影響が及び、他の人たちも同じことをしてもいいという、ある種の許可証を与えることになるのです」
     ◇
嗤われるのは、数の力という「現実」に抗し、理念や理想を語る者。所与の現実から最大限の利益を得ることに腐心する「現実主義者」にとって、理想なんて1円にもならないキレイゴトだから。しかし――。現実ってなんだ?
「現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません」(丸山真男「『現実』主義の陥穽」)
そのように捉えられた現実は、容易に「仕方がない」に転化する。こうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に食い入り、日本の「現実」を泥沼に追い込んだか。丸山はこう、言葉を継ぐ。
「ファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのもまさにこうした『現実』観ではなかったでしょうか」
既成事実への屈服が、さらなる屈服を生む。対米追従は仕方ない。沖縄に米軍基地が集中するのは仕方ない……。現状追認の無限ループ、そんな「仕方ない帝国」に生きてて楽しい?
嗤われたら笑い返せ。現実は「可能性の束」だ。私もあなたも一筋の可能性を手に、この世に生まれてきたのだ。(政治部次長・高橋純子)

34 Nozomi Moriwakeさん、久保和男さん、他32人
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コメント

富山 信 とてもすばらしい文章です。シェアさせてください。

文屋 善明 どうぞ。という資格もないか。私の勝手にシェアしました。

中野 芳夫 シェアさせていただきました。

小貫 ツマ シェアさせてください。

糸原 由美子 人をリスペクトするという概念が全くないのでしょうね。

Noriko Shiozawa · 共通の友達: 三浦 三千春さん、他23人
シェアさせて頂きました、

文屋 善明
2月21日 8:30 ·

三寒四温春の嵐のその次は 善明

19 小貫 ツマさん、播 稔さん、他17人

文屋 善明
2月21日 11:09 ·

ジェットコースター遊びじゃないよ天気だよ 仙明

16 楠 真理子さん、播 稔さん、他14人

文屋 善明
2月21日 11:40 ·

「昨日のFB 02/19 幸福の科学という宗教について」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

17 Su Suさん、中野 芳夫さん、他15人

文屋 善明
2月21日 11:42 ·

朝日記者辞表片手に記事を書く 善明

23 播 稔さん、藤井 衞さん、他21人
コメント

Miyuki Kawahara メディア規制に対して私たちは鈍感ではいけません。

文屋 善明
2月21日 12:55 ·

関西学院大学で、英語講師による福島差別行動。そのため被害学生は登校できなくなったとのこと。しかも、大学当局はこれを数ヶ月間隠蔽していたというニュースが流れ、卒業生として恥ずかしい。そのとき、そこにいわせていた学生たちはどういう態度を取ったのか。徹底的な事件の解明と解決に誠意を見せてほしい。

64 樋口 重夫さん、芳賀 道子さん、他62人
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コメント

徳善 義和 小中学校で多いと報道されているのに、「おまえもか」という感じです!

櫻井啓子 百歩譲って仮に人体が放射能を含んだりまみれていて発光するレベルなら、その人は生きていないはずです。(臨界かよ?!ですから。)
そんなこともわからんやつが大学で教鞭をとるとは……。

糸原 由美子 しりませんでした。そんなことが!

奥野 卓司 関学が大学として明確な態度をとらなければ、この講師個人の問題ではなく、大学全体の問題になってしまいいます。入試が終わってから発表するということ自体に疑惑を感じます。

文屋 善明 教育学部ということは、旧聖和との関係はありませんか。

奥野 卓司 関係ありますが、外国語ですので、実際の人事権は外国語センターにあります。

文屋 善明 そうですか。そこらに問題がありそうですね。

文屋 善明さんが飯田 哲也さんの投稿をシェアしました。
2月21日 13:10 ·

これは同じ問題の別の視点からの疑惑解明です。

飯田 哲也
2月21日 9:41 ·
‪アベ友学園問題、渡辺輝人弁護士の後編。有益費の計算根拠が不明、本物件代金の約8億2200万円の減額根拠の不可解さ、鉄骨なのに木質化の補助金の不可解など問題だらけ。‬

‪森友学園への不明瞭な国給付(渡辺輝人)‬
‪http://bylines.news.yahoo.co.jp/watanab…/20170221-00067891/‬

森友学園への不明瞭な国給付(渡辺輝人) - Yahoo!ニュース
前回「森友学園の国有地取得の収支」に引き続き、国から森友学園の給付の不明瞭性を指摘します。
BYLINES.NEWS.YAHOO.CO.JP

http://bylines.news.yahoo.co.jp/watanabeteruhito/20170221-00067891/

18 川染 三郎さん、望月 克仁さん、他16人

文屋 善明
2月21日 13:45 ·

これも同じ事件の別な側面。いろいろやってくれますね。地検特捜は動くか。

「安倍晋三記念小学校」国有地払い下げ 地検特捜は動くか | 日刊ゲンダイDIGITAL
 国会で関係者を証人喚問するべきではないのか。安倍首相の妻である昭恵氏が名誉校長を務め、4月に開校を控えた大阪・豊...
NIKKAN-GENDAI.COM

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/199921

23 小貫 ツマさん、松下 光雄さん、他21人

文屋 善明
2月21日 14:12 ·

恥ずかしながら、母校における事件をシェアします。学院側の対応にかなり問題があったようです。関学の事務局には以前からかなり問題があるようです。この写真、関学の象徴である正面の図書館ではないですね。

関学大:福島出身学生に「放射能光る」…非常勤講師が暴言 - 毎日新聞
関西学院大(兵庫県西宮市)は21日、教育学部の40代男性の外国人非常勤講師が東京電力福島第1原発の事故を念頭に、福島県出身の女子学生に「放射能を浴びて…
MAINICHI.JP

61 播 稔さん、安部 勉さん、他59人
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コメント

糸原 由美子 文化の違いもあるとは思いますが、時折アメリカ人のjokeにひどいものを感じます。日本に来る前に日本の文化をちゃんと、余んでほしいです。

文屋 善明 それよりも、このことを知った事務所の対応が悪い。大学組織を一つの共同体として捉えていない。教育現場あるいは研究現場での問題と学校の事務所とが一体化していない。だから、学生に対して権力組織化している。また、教師たちに対してな文科省の事務窓口になっている。大学の癌は教務にある。

糸原 由美子 KGも生き残りをかけているのでしょうか。いろいろ吸収して小学校も造り、巨大化していますが、私学の基本的な大切な基盤を見失ってほしくないですね。私の母校も。

児島 良一 悲しいですね〜。
この女子学生がどんな思いを抱いていたのかと思うと胸が痛ます。
こんなことは二度と起きて欲しくはありません。ところで、昨夏機会があり上ヶ原を訪れましたが、このフォートの建物は中央講堂と書いてありました。
記事では教育学部とあるようですので、旧聖和大のキャンパスですよね。

嶋津 雅彦 大学に勤める者として、こういった事案は悲しくなります。
このようなことは、決して大学の方針で起こしていることではないので、ご本人の資質の問題のように思われがちです。
ただ、こういった言動を許さない組織風土を築くことが、大学には求められているというのが私の理解です。とりわけ、専任の教職員については、使用者責任が問われるというのが、この間の流れだと思います。
ここで難しさを感じるのが、今回の事案は「非常勤講師」が起こしたというところです。
私の大学では、教授会でハラスメント研修を実施する等の取り組みをしていますが、非常勤講師の先生方にそういった研修の機会を提供できているか、というと徹底できているわけではありません。
そういった課題にどう向き合っていくのか、また、傷ついた学生のサポートをどうしていくべきなのか、我がことのように考えさせられる事案でした。
まずは、学生の心の傷を第一に考えていただきたいと思います。

文屋 善明 私はこの問題を学生から訴えられながら7ヶ月も放置していた教務(事務)の体質と無能さにあると思っています。

嶋津 雅彦 時間がかかっていることへの批判は、その通りだと思います。被害を訴えている方への対応は速やかに、というのは、ハラスメント対応の原則だと思います。
このケースでどのような対応をとられていたのか、詳しくは存じませんが、例えばクラスを変えるなど、まずは緊急避難的な対応はとられたのか、など気になります。
また、母校に寄せる同窓生の皆さんの気持ちにこたえられるような説明も必要なところかと。

文屋 善明 70年代の学生なら、こういう教師への弾劾は直ちに学校全体への批判へとつながったはずだ。今の学生の骨のなさに呆れる。

たかはし こう · 共通の友達: 草薙 恵美子さん
「放射能を浴びたのに光らない」はビックリしました。

文屋 善明さんがHumankindさんの動画をシェアしました。
2月21日 15:38 ·

人間の条件

https://www.facebook.com/yoshiaki.bunya

再生
-0:46ミュートを解除
その他視覚設定フルスクリーン表示
再生60,896,979回
Humankindさんが動画「91-year-old man knits hats for the homeless」を追加しました。いいね!
2016年12月25日 ·
Morrie says that knitting hats for the homeless gives him purpose.

翻訳を見る

27 小貫 ツマさん、松下 光雄さん、他25人

文屋 善明
2月21日 15:51 · 福岡県 宗像市 ·

ヤッター、今日午後、釣川堤防にて、レベル9!

21 Izumi Naraさん、小貫 ツマさん、他19人
コメント

中尾香鶴子 もしかして、あれですか?

永島 大資 おめでとうございます。

文屋 善明 「ヤッター」はポケモンGOのテクニカルターム(専門用語)です。一般語では「ご成功おめでとう」を意味します。あるいは仲間内の隠語です。

播 稔 レベル9はすごい。

文屋 善明 これは凄くはないのです。通常はレベル7が最初心者で、最終的にはレベル45(現在のところ)、でこれもどんどんソフトそのものがバージョンアップされ、どこまで行くか今のところ予想できないらしい。

播 稔 そこまであるとは。

文屋 善明
2月21日 21:08 · 福岡県 宗像市 ·

新共同訳聖書の続編についてとか、聖書の正典化の問題を考える際に知っておかなければならない問題に、ヘブライ語聖書のギリシャ語と旧約聖書の正典化のプロセスをきちんと押さえておく必要があります。現在のところその問題に正確な知識を与えてくれるのがカトリックの聖書学者宮川さんだとおもう。その必要な部分を書き出した。
70人訳ギリシャ語聖書とユダヤ教のヘブライ語正典
(『聖書正典成立史の諸問題』(宮川俊行、第2章 神の民における聖典の発生)より抜粋
第1節 70人訳ギリシャ語聖書(LXX)
(A) だが当時イスラエル教の「聖典」事情は複雑だった。
イスラエル教の公式理解では 「神からの聖なる書」とはヘブライ語「律法・預言者・諸書」ということになっていた。このヘブライ語の聖典はイエスと弟子たちにとっても「聖なる書」だった。但し、上に触れたように初代教会が成立したころは、まだそこに含まれる文書に関しては「律法」を別とすればそれほど明確ではなかった。イスラエル教には厳密な意味での正典はなかった。
ところで当時ユダヤ人たちはパレスチナで生活する者と、異教世界でのディアスポラ状況下に信仰生活を送る者に大別できた。特にエジプトのアレクサンドリアにはユダヤ人が多かった。 公的にはパレスチナのイスラエル教こそがイスラエル教であるが、歴史や環境など文化の違いがあり、イスラエル教の在り方は、パレスチナとアレクサンドリアで同じとは言えなかった。それを特徴的に現しているのが「聖なる書」事情である。ヘブライ語「律法・預言者・諸書 」原典と公称これのギリシャ語訳とされるLXXの違いである。「律法」の権滅が絶対的で他の書もこれとの関連で 「権威」を認められるということなど実体的には同一と言えるが、細部だけでなく、収録されている文書や、各書の順序、全体の構成などにおいて両者の相違はかなり大きい。しかしディアスポラのイスラル人たちにとっ てLXXは実生活上ヘブライ語原典と全く「同じ権威」をもつものとして通用していた。かれらはこれが翻訳に過ぎず、真に「神のことば」と言えるのはヘブライ語原典だけであると観念上は理解していたが、事実上このギリシャ語版は「神のことば」と受け止められていた。「聖なる書」とはこれだった。パレスチナに比べ数の上で遥かに多かったのがディアスポラのイスラエル教徒だったが、同じイスラエル教とはいえ、「聖なる書」事情はこのようにパレスチナとは違っていたのである。
(B) 誕生したばかりの教会が成長していった文化環境はこちらの方だった。
多くのイスラエル教徒たちにとってLXXがイスラエル教の信仰と生活の規範となる権威ある 「神からの書」だった、という事情は、初期教会において、「聖なる書」とは、中心的には70人訳ギリシャ語聖書 (LXX) であるという事情を生んだ。 誕生期キリスト教はアレクサンドリア・イスラエル教の「聖なる書」 目録を取りあえず大体そのまま受け入れ、LXXから決定的な影響を受けることになった。誕生期のキリスト教にとって、イエス・キリスト以前の段階の「神の民」イスラエルに神から与えられた権威ある「聖なる書」とは中心的にはLXXを指すということになった。初代教会は一応これを権威をもった 「神からの書」と受け止め、自分たちのイエス・キリスト信仰をこれを基に理解し基礎付けようとしたし、ユダヤ人たちへの宣教活動も専らこの「聖なる書」の権威に訴えながら行われたのである。勿論、使徒的教会はLXXが翻訳であることを知っていたので 「究極的には」 規制するものとしてのヘブライ語「聖なる書」「律法・預言者・諸書 」が「神からの書」として受け入れられてはいたが、「直接的・具体的には」「聖なる書」とは取りあえずLXXだったわけである。
イスラエル教自体の正典概念がまだ明確でなく、ヘブライ語原典もLXXも「聖なる書」としても文書は完全に確定しておらず、従ってアレクサンドリア・イスラエル教もLXX以外にも権威ある「神からの書」を若干認めたりしていた、という「聖典」に関するあいまいな事情は、キリスト教にも反映せざるをえなかった。新約聖書には「エノク書」、「ソロモンの詩編」、「モーセの昇天」、「マ カバイ記3」など旧約聖書外典書の影響も見られる。
第2節 ユダヤ教のヘブライ語正典
(A) キリスト教の発生と共にイスラエル教の使命は終わり消滅するが、イスラエル教内部にこれを認めない者は圧倒的に多かった。イスラエル教の遺産を引き継こうとするユダヤ教団が生まれた。かれらはユダヤ教の歴史は少なくとも含蓄的にイスラエル教の歴史の全過程を包むものと見做した。キリスト教は当時のユダヤ教の異端的一派であるナザレ派として片付けられた。
新生のユダヤ教団は先ず、聖典問題を解決せねばならなかった。エルサレムを失ったユダヤ教団は不動の「権威の書」によって自己同一性を保持せねばならなかった。終末的政治的メシア待望を語る黙示文書がユダヤ教内部に溢れており、真の「神からの書」をこれらから区別せねばならなかった。新興キリスト教運動による撹乱から自分たちの遺産を守らなければならなかった。自分たちこそ伝統的な「神の民」の本体を継承するものと自負していたかれらは、イスラエル教で「聖なる書」扱いされてきたLXXをキリスト教が自分たちの「聖なる書」として用い始めたのに対抗し、これまでのLXX尊重の態度を放棄してヘブライ語原典主義を強く打ち出すようになる。LXXは誤訳や不正確訳などの欠点に満ち、収録されている文書にも、近年ギリシャ語で書かれたものなど「聖なる書」として相応しくないようなものさえ見られる、その結果イスラエルの民が受けてきた神の啓示を誤解させキリスト教のようなものを生み出してしまった、と非難を始めた。
紀元90~100年頃のヤムニア (Jamnia)でのファリサイ派の学者たちの主導するユダヤ教最高会議 (サンヘドリン)でこれらの問題の解決を図ろうとした。そこで、何をユダヤ教団の「正典」すなわ ち「信仰や生活や考え方の絶対的基準の権威的書」とするかの公式の立場が決定された。これまで イスラエル教・ユダヤ教の世界で、権威ある「聖なる書」と見倣されてきたものを洗い直して、真の「神的起源の聖なる書」を確定しようとした。ユダヤ教正典書の条件は次のものだった。
(a) 聖なる言葉ヘブライ語 (またはアラマイ)語で書かれたものであること。
(b) エズラがユダヤ人捕囚の地バビロンからエルサレムに帰還した年(前397)までに書かれたものであること。モーセから第二のモーセ と言われるエズラ迄が救済史であり霊感もあり「聖なる書」もありうるのである。ファリサイ派によれば、霊感はモーセからペルシャ王アルタクセルクセス王の時代までに限るという。
こうして以後書かれた書や、パレスチナ以外で書かれたものやギリシャ語で書かれた文書はこれまでイスラエル・ユダヤ教の伝統で「聖なる書 」扱いを受けていたとしても、今後はユダヤ教では聖典と見倣さないということになった。結局、正典リストに残されたのは39文書で、これが公式ユダヤ教団すなわちパレスチナ・ユダヤ教の正典とされることになった。伝統に従い「律法」、「預言者」、「諸書」の部に分けられているが、この順序は権威の順序であり、「聖なる書」として成立した順序でもある、とされた。これがユダヤ教の公式「聖なる書の総体」である。イスラエル教の中で最も早くから 「律法」が確定し、その後さらに「預言書」も権威ある「神からの諸文書」として内容も大体は確定していた。「諸書」部分はまだ形成途上でどの書が入れられるかは長い間確定されないまま来ていたが、これもここで確定された。
こうしてユダヤ教はキリスト教に刺激されて「正典」概念を明確にした。厳密には、このとき初めてイスラエル教・ユダヤ教の「正典」が生まれた。先に、われわれはパレスチナ・イスラエル教のヘブライ語「聖なる書」やアレクサンドリア・イスラエル教の「聖なる書」LXXについて見たが、これらはたしかに 「神からの書」として権威を認められている諸文書の集積ではあったが、その範囲はまだ明確ではなかった。原典が神の霊の働きを受けて生まれた「聖なる書」であるとはしていたが、文書の確定も十分でなく、排他性も明確でなかった。LXXとヘブライ語原典の間の違いに教団として対応を取るなどのこともなかった。今回、初めてユダヤ教団は「完全に閉じられた正典(a definitively closed canon )」を意識的に形成しようとしたのである。これは基本的には大体すでにパレスチナ・イスラエル教でヘブライ語「聖なる書」「律法・預言者・諸書」として輪郭的に固まりつつあったものの確定化的意味をもっていた。 これらの文書は形相的にはこのとき初めてユダヤ教 「正典」となったのである。目録の内容は次の通りである。
<正典文書リスト省略>
だが、折角のこの決定も教団内部にはさほど浸透はしなかったようで、その後もしばらく不安定な状態が続く。一応教団として「排他的固定的」に正典諸文書が「確定し」、ユダヤ教聖書正典目録が真に成立するのは2世紀末と言われている。
(B) これはユダヤ教の最高聖典すなわち「聖なる書」の目録形成の問題であるから、あくまでユダヤ教団内部の事柄でありキリスト教に直接関係はない。キリスト教の正典目録はキリスト教信仰に固有の価値基準によって教会が自律的に決定するのである。しかしキリスト教信仰を基礎付ける権威として全面依存しているイスラエル教の伝統的な神的権 威の書の問題である。さらに、教会はユダヤ教との論争においてはユダヤ教徒たちも権威を認めている文書に訴えざるをえなかった。またキリスト教会の方でもLXX は翻訳書であることはよく分かっていた。こうして、新たに決定されたユダヤ教のこの「聖なる書」の目録はキリスト教側にもそれなりの顧慮を必要とすることは言うまでもなかった。なおLXXを追放したユダヤ教の方では、ヘブライ語を解しないユダヤ教徒のために2世紀に新たにヘブライ語原典に忠実なギリシャ語訳聖書を作った。テオドティオン訳、アクィラ訳、シムマクス訳である。こうしてLXXはキリスト教徒の独占的聖書となった。
(C) このような事情は教会の「イスラエル教の遺産としての聖なる書」の取り扱いを複雑なものに し、旧約聖書正典形成史にもその影響が及んだ。中心問題は (ユダヤ教公式ヘブライ語正典が継承していると考えられる)パレスチナ・イスラエル教のヘブライ語「聖なる書」「律法・預言者・諸書」とアレクサンドリア・イスラエル 教のギリシャ語「聖なる書」LXXの間の関係如何である。
(a)一般には後者を前者の訳と考え、この観点から訳文の批評なども行われてきた。言語学的には酷い誤訳箇所さえ多いとされる。
(b)しかし、LXXをパレスチナ・イスラエル教聖典「律法・預言者・諸書」の単純な翻訳と見るこ とは困難である。前者は後者のギリシャ語版というには余りにも違いが大きい。「聖なる書」 として前者と後者では長さもかなり違っている。前者では収録されている文書数が増えている。後 者にない文書の翻訳があったり、翻訳的な箇所にも解説風の文章が付け加わっていることもある。オリジナルのギリシャ語新文書もある。特に注目に値するのは諸文書の配列が違い、区分法が違っていることである。第1の「律法」の部分は共通だが、残りの区分は前者では後者におけるような「預言者」・「諸書」ではない。
(1) これらの事実を説明する試みの一つとして周知のように「アレクサンドリア正典仮説」がある。パレスチナ正典とアレクサンドリア正典という異なる2つの「正典」が当時のイスラエル教に相互にかなり独立的なものとしてあったという。かつては多くの聖書学者に支持された見方だが、十分の説得力はもたない。アレクサンドリア・イスラエル教やその「聖なる書」LXXは個性的ではあったが、 あくまで唯一のイスラエル教の中の一つの信仰生活の在り方を示すものに過ぎなかった。公的イスラエル教団はエルサレムを本拠としており、すべてのイスラエル教徒にとって公的「聖なる書」はヘブライ語の「律法・預言者・諸書」だった。
(2) クムラン教団の諸洞窟から出土したいわゆる死海諸文書は、すでに消滅したが、少なくともマソラ本文の前段階的「原ヘブライ語底本」があり、LXXはそれを基盤とした翻訳文書を中心に形成されている、という仮説を許すかもしれない。例えば、次のように見ることができるのではないかというのである。LXXにおける諸文書の区分や配列は基本的にはこの「原ヘブライ語底本」のそれを忠実に反映している。これは民間宗教伝承的なものまでも含んだ「聖なる書」で、この「原ヘブライ語底本」からパレスチナではいわゆるマソラ本文の「原文」が形成されたが、そこには多くの学者たちの関与もあり、ラビたちは聖典諸文書の選別、区分、序列などを独自の厳しい基準で行った。現在の「マソラ本文」の「原文」はこのような形成作業の結果である。すでに「律法」の部分は閉じられておりその伝統的権威は不動であったためLXXと「原マソラ本文」にそれ がそのまま伝えられる。しかし「預言者」、さらに「諸書 」の部分に関してはそうでなく、「神のことば」文書集をどう組織するかの信仰的判断による人為的介入はある程度許されるという認識があり、その結果、「原ヘブライ語底本」の「諸書」の区分や序列はLXXには大体そのまま継承されたが、「原マソラ本文」の方は新しいものになっている。他方、LXXの方も「原ヘブライ語底本」の単なる逐語的翻訳でなく、解釈を加えたものになっているため、「原ヘブライ語底本」のヘブライ語 は「原マソラ本文」の方に大体保存されている。 現マソラ本文になく、LXXだけに見られるギリシャ語のシラ書、ユディト記、マカバイ記1も、もともとヘブライ語で、そしてトビト記はもともアラマイ語で書かれたことが現在明らかになっているが、結局これらは「原ヘブライ語 (アラマイ語)底本」のものだったと思われる。パレスチナ・イスラエル教はその正典形成にさいして「原ヘブライ語底本」を部分的には採用し、これに従ったが、ある部分に関してはこれを無視し、「聖なる書」として相応しくないと判断された多くの書が切り捨てられたのである。他方、アレクサンドリア・イスラエル教ではあまり切り捨てることなどなく「原ヘブライ語底本」は殆ど受け入れられ、ギリシャ語訳(LXX)は大体「聖なる書」とされた。LXXにはさらに「原ヘブライ語底本」の翻訳でなく初めからこの地でギリシャ語で書かれた書 (知恵の書、第2マカバイ記)も入っている。その意味でLXXは基本的には「原ヘブライ語底本」に従ったものでありながら、単なる翻訳でなくこれを越える面をも備えた「神のことば」として形成されている、というのである。
(3) われわれとしては、この仮説に魅力は感じながらも、次のように見たい 。パ レスチナ・イス ラエル教が本来的・公的イスラエル教である。アレクサンドリア・イスラエル教は実体的に同一性 を保持しつつもかなりの相違点をもつものとして、それより発し、それに究極的に規制されつつ も、 遂にはそれを揚棄する方向へと発展を続けるとい う側面を内包しており、その限り特殊救済史論理に沿った合理的な存在である。「聖なる書」LXXに関しても、どの書に特殊救済史の中で どのような役割を担わせるか、とか、基本的な素材としての諸文書をどう配列し、全体の 中でどう位置付け るか、全体をどのように構成するかなどの判断の中に、アレクサンドリア・イスラエ ル教のこの側面がはっきり読み取られるのである。パレスチナ・イスラエル教のヘブライ語原典「聖なる書」 が全体を構成する各部分の 「正典性」の獲得川頁同時に重要i生順を意味する三部構成を取っているのに対し、LXXは、各文書が「全体」の中に位置付けられ一定の役割を担い、「全体」として特殊救済史を反映するように組み立てられている。これはLXXのもつ積極的価値である。しかし、同時にアレクサンドリア・イスラエル教は現実の歴史内存在としては、論理を無視した非合理的な諸面をももっている。例えば、どの書が 「聖なる書」に属するかという判断の点でもあいまいで、その結果LXXには民衆の通俗的信仰生活の反映に過ぎないようなものも含まれ、「聖なる書」とされている。その限りにおいては「聖なる書」とか「正典」の概念が未熟で不正確であるとの印象が強い。実際、パレスチナの公的・イスラエル教だけでなく、アレクサンドリア・イスラエル教においてもまだ「正典」は厳密なものとしては成立していなかったのである。

32 増野 真美さん、佐藤 清一さん、他30人
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Mizota Michael Satoshi なかなか読みごたえがありますね。

Mizota Michael Satoshi 「(旧約)正典論」はともかくも「霊感説」は「翻訳過程」で出てきたと思いますよね。どうもそういう話だし。

文屋 善明 あなたから推薦されただけのことはあります。私にとっては正典聖書についての決定的結論になりました。

Mizota Michael Satoshi いまは源流をさかのぼって「アリステアスの書簡」あたりを読んでます。どうも霊感説が時代に沿ってずれて受け取られてきたみたいですね。まあ現在が最大にずれたと。。。

大野 泰男 シェアさせてください

Mizota Michael Satoshi 本体はこちらに。

http://ci.nii.ac.jp/els/110004715465.pdf?id=ART0007459044...

CiNii 論文 - 聖書正典成立史の諸問題
聖書正典成立史の諸問題 宮川 俊行 純心人文研究 10, 101-146, 2004-03-01
CI.NII.AC.JP

三浦 三千春 とてもとても勉強になりました。どうもありがとうごさいます。

門叶 国泰 コピーを取りました。ゆっくり読みます。感謝!

村田 多鶴子 プリントアウトさせて頂きたいのですが~♪(^^♪

文屋 善明 どうぞ。

文屋 善明 私は聖書の正典成立について、渡辺善太先生の『正典論』を真剣に読み教えられましたが、最後の部分に来て、「聖霊のお導き論」に至って、こりゃ駄目だと思っていたところにこの論文を紹介されました。なかなかよく書けています。この論文で、最終的には「聖霊の働き」という点が出てきますが、そこに至るまでの肉薄は大したものです。聖霊の働きはともかく、正典とは最終的には教会会議における決定ということで、いいのではないか。最後に残る問題は、「これに付け加えることはできない」という決断で、これも承認するしかないと思っています。結局は「人間が決めたこと」であるが、それをお互いに尊重し合うことによって「教会」という共同体は存在している。その原点は、聖書正典にある。

門叶 国泰 BHSの脚注にはLXXが頻繁に出てきます。やはりLXXを自由に読めなければ駄目ですね。机の上にSEPTUA GINTAが鎮座しているのですが、どうにも手が延びません。じたばたしても間に合わないでしょうね。

文屋 善明 ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳もいろいろなあるようですね。上記の論文によると、70人訳はかなり問題があるようですね。それで70人訳はキリスト教に明け渡し、ユダヤ教本体では独自に翻訳をしたようですが、それはどうなっているのでしょうね。

門叶 国泰 BHSの脚注に用いられているギリシャ語訳だけでも、LXXの他にAquila's Greek translation/Symmachuus' translationがあり、LXXの写本だけでも30種類はありますから! 私には何が何だか?

文屋 善明 なるほど。私はうかつにも70人訳だけかと思っていました。

門叶 国泰 もう一つ、Theodotion's Greek translationというのも脚注に使われていますね。お手上げです。

Mizota Michael Satoshi オリゲネスという今では決して出ない超天才がおりましたが、その人が旧約のギリシャ語訳の対観総覧を作りました。大変大部で全巻の写本が作られることなくイスラムの『いたずら』で破壊されました。今生き残っている写本と教父の引用で再現され、比較的荒いミーニュ版に、さらに改訂された良いものが別の版にあります。私が中でも着目するのはアキュラ訳で、これは完全語源直訳を目指したものです。ヘブライ語には語根不明の語彙が多く、アキュラ訳はその点にはかり尽くせない貢献をしています。

Mizota Michael Satoshi オリゲネスのヘクサプラのデータを見つけたらリンクを張っときます。

Mizota Michael Satoshi http://virtrilinguis.blogspot.jp/2016/10/dorival-origen.html

オリゲネス研究の最前線 Dorival, "Origen"
VIRTRILINGUIS.BLOGSPOT.COM

Mizota Michael Satoshi ルーテル方面で著名な鍋谷堯爾先生の翻訳になる『旧約聖書の本文研究』という決定版に近い本も出ておりますがこれはかなり高いです。語学がさっぱりなので、私は旧約には手を出せていません。

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A7%E7%B4%84.../dp/4818401927

旧約聖書の本文研究―『ビブリア・ヘブライカ』入門
AMAZON.CO.JP

門叶 国泰 本間敏雄先生との共訳ですね。僅か2年でしたが富士見町の牧師時代に毎水曜日教えて頂きました。懐かしく。

Mizota Michael Satoshi これには結構学ばされました。ヘブライ語はやってもできないのであきらめています。古代の霊感説では「聖霊を受けていない」のかもしれません(苦笑)。いまはそれぞれの先生がたの説をきちんと頭の中で整理していくことに専念したいと思っています。

Mizota Michael Satoshi 七十人訳(セプチュアギンタ/LXX)が成立した時代以降『翻訳』についての正当性が紀元後まで「真剣に議論」されました。
 翻訳によって元のヘブライ語テクストと「ズレ」が生じる、というものです。このなかでキリスト教徒は「翻訳可能性」を採用した結果LXXを正典にし、ユダヤ人たちは「翻訳不可能性」を重視した結果翻訳を排除する、という経緯は皆さんご存知の通りです(さらにラテン教会はラテン語訳を正典にして、現在に至ります。)
 この議論の過程の中で、翻訳文が「誤訳を含まない妥当な翻訳である」という意味で「この翻訳はヘブライ語聖書の『全ての部分』と『同等の』神の『霊』を受けている」という表現がされるようになりました。キリスト教会が受け継いできた聖書「霊感説」や「無誤説」の故郷は、こういう翻訳行為の妥当性をめぐる議論に故郷があるわけです。
 もちろん「霊感説」「無誤説」も「時代とともに変遷」し、ルターの時代までには「聖書はカトリック教会法の源として霊感を受けている」(そういって『改革』を主張した)というくらいまで、同じキリスト教でとしてもかなりの変化をしたわけです。だんだんと「正典とするためには妥当な正しい翻訳である」から「聖書に書かれていることがすべて正しい」に「徐々に変化」をしてきたわけです。

文屋 善明 上手くまとめましたね。その通りです。

Mizota Michael Satoshi LXXの翻訳の正当性がユダヤ教内で議論されている状況で成立したのだ、という観点で使徒言行録の「聖霊降臨」の記事を読むと、「まったく違った/よりマシで妥当な解釈」をすることができるはずです。

Mizota Michael Satoshi さらに言えば、このような時代背景を考えてみれば、霊感説・無誤説の根拠とされる第二テモテ書の以下の記事も、聖書がLXXであると理解しながら読めば「真意がわかる」はずなのです。

>>「3:15また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。 3:16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 」

Mizota Michael Satoshi 私は「無誤無謬説に完全に立脚」していますが、それは古代の翻訳者たち、あるいは古代教父と同じ地点に立って、「ラテン語聖書は無誤かつ無謬」と言っているんですよね。たとえテクストに「誤り」があっても、神が生まれながらに備えさせてくれた「文法的直観という霊感」が「正して」くれるからです。この文法的直観の起源は今の理論言語学でも完全に解明できずに不問にされるので、「神の霊感」と古代人が呼んだのも、あながち間違いではないんです。

文屋 善明 ふふふ。

Mizota Michael Satoshi オリゲネスのヘクサプラの校訂版はこちらにデータがあります。数巻あるので一巻目。
https://archive.org/details/origenhexapla01unknuoft

Origen Hexapla : Field, Frederick : Free Download & Streaming : Internet Archive
ARCHIVE.ORG

Mizota Michael Satoshi 二巻目。私の記憶だとこれで全部のはずです。

文屋 善明
2月21日 22:35 · 福岡県 宗像市 ·

グラグラと砂上の小学校春の嵐 善明

20 楠 真理子さん、井形裕子さん、他18人

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