ようこそ緑の牧場へ
太田国男さん 68歳
天神の高速バス乗り場で彼の代わりに熊本行きの切符を買う。彼は紐のついた布袋を首から肩にかけている。その袋の中から私が財布を取り出していると、何人かの視線を感じる。彼の唇からは涎が流れそれを拭くために終始ハンカチは離せない。彼の手の指はとても短い。握手を交わす時、私はその手がとても愛おしくなる。
彼、太田国男さんが戻る所は熊本県菊池郡にあるハンセン病の療養所「恵楓園」。彼はこの園にある「日本聖公会菊池黎明教会」の牧師補(執事)だ。
久留米聖公教会の信徒の私は、ある日曜日、野外礼拝で菊池黎明教会に行き、恵楓園を知り、ハンセン病の人たちと会った。礼拝の中で説教をしたのが太田執事。黒縁眼鏡をかけた彼を、恐そうな人だなと思ったが、なぜハンセン病患者の彼が牧師になったのかということに興味を抱いた。けれど、太田執事のこれまでの生き方はほとんど知らなかった。ハンセン病の人に過去のことを尋ねるのは失礼になるのではないかという思いで、聞く機会がなかった。
2月14日のバレンタインデーに黎明教会で会合があったので、太田執事に桜草の鉢植えを持っていった。教会に飾って貰おうと思っていたのに、会合の後、「これは僕の部屋に飾るよ」と言う。それではと教会から歩いて3分の彼の部屋についていった。本棚の上に写真立てが置いてある。彼はその前に桜草を置いた。写真立てには微笑む女性の写真がある。
「この人は」
「僕の嫁さんだった人だ。清子さんだ」
「先生、独身だとばかり思っていました」
「今、菊池で執事をしているのは清子のお陰なんだ。あんまり話したことないけどな」
照れながら太田執事はぼつぼつとこれまでのことを話してくれた。
少年の頃
――――昭和16年かな、僕が小学校4年生の時に軍事教練があった。敬礼すると「太田、手先を伸ばせ」と教官に叱られた。自分では伸ばしているつもりだけれど、何回やり直しても手の指は曲がったままだった。あの時がハンセンの発病だったのだろう。日赤病院で診察を受け、ハンセン病と判明した。小学校の上級生から「眉が薄い」といじめられたりしたが、6年生までは通った。小学校6年生までは体格もよくて、相撲の選手をしていたよ。
家は農業だった。姉が筵を織るそばで、僕は縄ないを手伝っていた。週に一度医者に通った。病院で友だちが出来て一緒に遊んだり、映画館に行ったりした。街に住む友人の弁当はとうもろこしご飯でまっ黄色だ。私は農家だから白米の弁当を持っていく。いつも二人分の白米を詰めて友人に食べさせた。
ハンセンの病状は思わしくなかった。指の曲がり方がひどくなって縄をなうこも困難になった。僕の一番上の兄もハンセン病で、群馬県吾妻郡草津町の「楽泉園」に入居していた。家の者は僕をいつ草津に連れて行こうかと考えていた矢先、長兄の病気がひどくなって、すぐ来てくれと連絡があった。家族は兄を見舞いに行くついでに僕を入所させた。昭和21年1月20日のことだった。
長兄は夫婦部屋にいた。兄は僕に「俺と一緒に寝てくれ」と頼んだ。子守をして可愛がった弟だから抱いて寝たいという。だが僕はこの兄が恐かったから、「旅の疲れが出た。明日寝てやるから」と一日延ばしにしているうちに兄は亡くなってしまった。僕が草津に行って一週間後のことだ。子供心にも一日ぐらい側に寝てやればよかったと思ったなぁ。その晩は坊さんが来て兄の枕元で経をあげた。
昭和21年から25年の間、療養所では毎日のように患者が亡くなっていった。一番忙しいのはお寺さんだ。坊さんは僕が愛知県出身で、彼と同県人と知って可愛がってくれ僕を小僧として連れて回った。通夜と葬式には必ず握り飯が出るから僕は喜んで手伝いをした。小僧のまねごとをしてうろ覚えの経をあげることもあった。
入所者に、クリスチャンのおばあさんがいて、僕のことを「くに、くに」と呼んで孫のように思ってくれた。そのおばあさんは盲人だったが大変明るい人柄だった。クリスチャンにはイギリスやアメリカの教会からよく救援物資が届けられた。そのたびに、「くに、おいで」とキャンディをそっとくれた。僕は坊さんから離れておばあさんにイエスの話を聞くことが多くなっていく。
青年時代
25歳の時に共産党に入党し、それから5、6年は党員として活動することになる。もっとも療養所の外部に出るのではなく、楽泉園の改善を訴えたりする内部での活動だ。活動をするにも何か不満を持っていなければ意欲が出て来ない。僕は一生不安や不満を持って生きるのは味気ないと思い始めた。それよりはハンセン病であったにしても生きていてよかった、今日一日を生き得たという喜びを持ちたい。この病気から逃げるわけにはいかないからね。心の安定が欲しいと考えていた時、「長島愛生園(岡山県邑久郡)」の長島曙教会から聖書学舎で牧界(ママ)の勉強をしないかという案内が届いた。キリスト教を学ぶ塾のような所だ。修業期間は3年だった。僕が31歳の時だ。その当時個人的には失恋したばかりで、党の活動にも疲れていたので、草津から逃げようと聖書学舎に入学したよ。
僕は聖書学舎で、日本キリスト教団の信者だった清子と出会った。清子は僕より25歳年上だった。熱心なクリスチャンだった清子は、これからキリスト教を勉強していこうという僕を弟のように慈しみ、何かと世話をやいてくれた。僕は聖書を読んでいて、「マタイ伝4章4節・イエスは言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」その個所に、感動し、物質的な生活の豊かさではなく聖書の御言葉に生きようと決心した。
僕は聖書学舎で牧会指導を受けながら、悩める者の相談にのり、神のことを伝えるのは、病に悩む者、僕のようにハンセン病を病んだ者にしかできないのではないかと気付き、執事になるための勉強を真剣にやっていく。清子はそんな僕を励ましならが夜になると自分の身の上話をする。
清子は広島県出身。ハンセン病に似た症状で誤診され証しのハンセン病院に入院させられた。清子は二度結婚に失敗している。二度とも夫が社会復帰して清子だけが療養所に残されたのだ。昭和30年から40年頃までは国の政策で復帰も盛んに行われたが、逆に夫婦のどちらかがハンセン病になると、夫や妻や子供も予防のために一緒に入所させられたりしたものだ。清子は50歳の時、自分はハンセン病ではなかったことを知るのだが、ハンセン病の夫の不自由な夫のために一生療養所で過ごそうと決心する。ところが夫の方は社会復帰して、清子は捨てられたのだな。
清子が長島愛泉園に入所したのもそれからすぐだ。その時のカルテには赤い泉が引いてある。この赤線は病気が治ったという印なんだ。明石にいた頃から清子は看護婦の代わりをして、愛泉園でも続けていたよ。
清子と共に
聖書学舎で学ぶ3年間が過ぎて、僕が草津へ帰るとき「帰らないでここで私と結婚してください」と清子から懇願された。僕は「あなたが草津に来るなら結婚してもいい」と返事をした。
その1年後、清子は草津へ来た。僕が38歳、清子は62歳だった。
清子は言った。
「私は年を取っているけどれど、20年間は太田さんの面倒を見てあげられるでしょう。あなたはキリストに一生を捧げようとしています。そんなあなたを助けるのは私にとって神さまに仕えることなんです」。
僕は色男でもなく金持ちでもなく教養もない。それなのにただキリスト教に献身しようとしているだけで清子は十分だと言った。暖かい長島から寒い草津の山奥に来てくれた。神に奉仕するために僕を助けた。
40歳で僕は執事になった。
清子は草津でコスモスを植え始めた。1メートルおきにコスモスを植えた。初めは目の不自由な患者から「杖の妨げになる」と文句も出たが、何年か後に、コスモス街道のようになり患者たちを楽しませてくれた。14年の結婚生活の後に清子は亡くなった。
僕が38歳から52歳まで共に生きてくれた清子の愛は信仰的な愛だった。――――
菊池へ
清子さんが亡くなってから太田執事は心身ともに落ち込んで半年間寝たっきり状態になる。そんな時に草津教会で聖公会の社会人ワークキャンプがあり、そこに参加していた司祭から菊池に来てくれないかという誘いがかかる。太田執事は清子さんとの思い出の地、住み慣れた草津を離れたくなかったが、菊池黎明教会では専任の執事がぜひ必要なのだからとくどかれる。草津にいても生きる喜びが感じられない今、熊本でもうひと働きせよという神の計らいか、清子の望みなのではないかと熊本行きを決心する。
太田執事の趣味はインターネット。ホームページは「ようこそ緑の牧場へ」と題されて、開くと教会の屋根の十字架がくるくると回る。彼の右手は第1関節から曲がっているのでマウスを操作するときは左手の掌で押さえる。
彼は天国の清子さんと通信しているのかもしれない。
太田執事は菊池でもうすぐ15回目の春を迎える。(山本友美)
『女たち』第34号、1999より
「この人」シリーズ8、~さまざまな生き方を聞く~
太田国男さん 68歳
天神の高速バス乗り場で彼の代わりに熊本行きの切符を買う。彼は紐のついた布袋を首から肩にかけている。その袋の中から私が財布を取り出していると、何人かの視線を感じる。彼の唇からは涎が流れそれを拭くために終始ハンカチは離せない。彼の手の指はとても短い。握手を交わす時、私はその手がとても愛おしくなる。
彼、太田国男さんが戻る所は熊本県菊池郡にあるハンセン病の療養所「恵楓園」。彼はこの園にある「日本聖公会菊池黎明教会」の牧師補(執事)だ。
久留米聖公教会の信徒の私は、ある日曜日、野外礼拝で菊池黎明教会に行き、恵楓園を知り、ハンセン病の人たちと会った。礼拝の中で説教をしたのが太田執事。黒縁眼鏡をかけた彼を、恐そうな人だなと思ったが、なぜハンセン病患者の彼が牧師になったのかということに興味を抱いた。けれど、太田執事のこれまでの生き方はほとんど知らなかった。ハンセン病の人に過去のことを尋ねるのは失礼になるのではないかという思いで、聞く機会がなかった。
2月14日のバレンタインデーに黎明教会で会合があったので、太田執事に桜草の鉢植えを持っていった。教会に飾って貰おうと思っていたのに、会合の後、「これは僕の部屋に飾るよ」と言う。それではと教会から歩いて3分の彼の部屋についていった。本棚の上に写真立てが置いてある。彼はその前に桜草を置いた。写真立てには微笑む女性の写真がある。
「この人は」
「僕の嫁さんだった人だ。清子さんだ」
「先生、独身だとばかり思っていました」
「今、菊池で執事をしているのは清子のお陰なんだ。あんまり話したことないけどな」
照れながら太田執事はぼつぼつとこれまでのことを話してくれた。
少年の頃
――――昭和16年かな、僕が小学校4年生の時に軍事教練があった。敬礼すると「太田、手先を伸ばせ」と教官に叱られた。自分では伸ばしているつもりだけれど、何回やり直しても手の指は曲がったままだった。あの時がハンセンの発病だったのだろう。日赤病院で診察を受け、ハンセン病と判明した。小学校の上級生から「眉が薄い」といじめられたりしたが、6年生までは通った。小学校6年生までは体格もよくて、相撲の選手をしていたよ。
家は農業だった。姉が筵を織るそばで、僕は縄ないを手伝っていた。週に一度医者に通った。病院で友だちが出来て一緒に遊んだり、映画館に行ったりした。街に住む友人の弁当はとうもろこしご飯でまっ黄色だ。私は農家だから白米の弁当を持っていく。いつも二人分の白米を詰めて友人に食べさせた。
ハンセンの病状は思わしくなかった。指の曲がり方がひどくなって縄をなうこも困難になった。僕の一番上の兄もハンセン病で、群馬県吾妻郡草津町の「楽泉園」に入居していた。家の者は僕をいつ草津に連れて行こうかと考えていた矢先、長兄の病気がひどくなって、すぐ来てくれと連絡があった。家族は兄を見舞いに行くついでに僕を入所させた。昭和21年1月20日のことだった。
長兄は夫婦部屋にいた。兄は僕に「俺と一緒に寝てくれ」と頼んだ。子守をして可愛がった弟だから抱いて寝たいという。だが僕はこの兄が恐かったから、「旅の疲れが出た。明日寝てやるから」と一日延ばしにしているうちに兄は亡くなってしまった。僕が草津に行って一週間後のことだ。子供心にも一日ぐらい側に寝てやればよかったと思ったなぁ。その晩は坊さんが来て兄の枕元で経をあげた。
昭和21年から25年の間、療養所では毎日のように患者が亡くなっていった。一番忙しいのはお寺さんだ。坊さんは僕が愛知県出身で、彼と同県人と知って可愛がってくれ僕を小僧として連れて回った。通夜と葬式には必ず握り飯が出るから僕は喜んで手伝いをした。小僧のまねごとをしてうろ覚えの経をあげることもあった。
入所者に、クリスチャンのおばあさんがいて、僕のことを「くに、くに」と呼んで孫のように思ってくれた。そのおばあさんは盲人だったが大変明るい人柄だった。クリスチャンにはイギリスやアメリカの教会からよく救援物資が届けられた。そのたびに、「くに、おいで」とキャンディをそっとくれた。僕は坊さんから離れておばあさんにイエスの話を聞くことが多くなっていく。
青年時代
25歳の時に共産党に入党し、それから5、6年は党員として活動することになる。もっとも療養所の外部に出るのではなく、楽泉園の改善を訴えたりする内部での活動だ。活動をするにも何か不満を持っていなければ意欲が出て来ない。僕は一生不安や不満を持って生きるのは味気ないと思い始めた。それよりはハンセン病であったにしても生きていてよかった、今日一日を生き得たという喜びを持ちたい。この病気から逃げるわけにはいかないからね。心の安定が欲しいと考えていた時、「長島愛生園(岡山県邑久郡)」の長島曙教会から聖書学舎で牧界(ママ)の勉強をしないかという案内が届いた。キリスト教を学ぶ塾のような所だ。修業期間は3年だった。僕が31歳の時だ。その当時個人的には失恋したばかりで、党の活動にも疲れていたので、草津から逃げようと聖書学舎に入学したよ。
僕は聖書学舎で、日本キリスト教団の信者だった清子と出会った。清子は僕より25歳年上だった。熱心なクリスチャンだった清子は、これからキリスト教を勉強していこうという僕を弟のように慈しみ、何かと世話をやいてくれた。僕は聖書を読んでいて、「マタイ伝4章4節・イエスは言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」その個所に、感動し、物質的な生活の豊かさではなく聖書の御言葉に生きようと決心した。
僕は聖書学舎で牧会指導を受けながら、悩める者の相談にのり、神のことを伝えるのは、病に悩む者、僕のようにハンセン病を病んだ者にしかできないのではないかと気付き、執事になるための勉強を真剣にやっていく。清子はそんな僕を励ましならが夜になると自分の身の上話をする。
清子は広島県出身。ハンセン病に似た症状で誤診され証しのハンセン病院に入院させられた。清子は二度結婚に失敗している。二度とも夫が社会復帰して清子だけが療養所に残されたのだ。昭和30年から40年頃までは国の政策で復帰も盛んに行われたが、逆に夫婦のどちらかがハンセン病になると、夫や妻や子供も予防のために一緒に入所させられたりしたものだ。清子は50歳の時、自分はハンセン病ではなかったことを知るのだが、ハンセン病の夫の不自由な夫のために一生療養所で過ごそうと決心する。ところが夫の方は社会復帰して、清子は捨てられたのだな。
清子が長島愛泉園に入所したのもそれからすぐだ。その時のカルテには赤い泉が引いてある。この赤線は病気が治ったという印なんだ。明石にいた頃から清子は看護婦の代わりをして、愛泉園でも続けていたよ。
清子と共に
聖書学舎で学ぶ3年間が過ぎて、僕が草津へ帰るとき「帰らないでここで私と結婚してください」と清子から懇願された。僕は「あなたが草津に来るなら結婚してもいい」と返事をした。
その1年後、清子は草津へ来た。僕が38歳、清子は62歳だった。
清子は言った。
「私は年を取っているけどれど、20年間は太田さんの面倒を見てあげられるでしょう。あなたはキリストに一生を捧げようとしています。そんなあなたを助けるのは私にとって神さまに仕えることなんです」。
僕は色男でもなく金持ちでもなく教養もない。それなのにただキリスト教に献身しようとしているだけで清子は十分だと言った。暖かい長島から寒い草津の山奥に来てくれた。神に奉仕するために僕を助けた。
40歳で僕は執事になった。
清子は草津でコスモスを植え始めた。1メートルおきにコスモスを植えた。初めは目の不自由な患者から「杖の妨げになる」と文句も出たが、何年か後に、コスモス街道のようになり患者たちを楽しませてくれた。14年の結婚生活の後に清子は亡くなった。
僕が38歳から52歳まで共に生きてくれた清子の愛は信仰的な愛だった。――――
菊池へ
清子さんが亡くなってから太田執事は心身ともに落ち込んで半年間寝たっきり状態になる。そんな時に草津教会で聖公会の社会人ワークキャンプがあり、そこに参加していた司祭から菊池に来てくれないかという誘いがかかる。太田執事は清子さんとの思い出の地、住み慣れた草津を離れたくなかったが、菊池黎明教会では専任の執事がぜひ必要なのだからとくどかれる。草津にいても生きる喜びが感じられない今、熊本でもうひと働きせよという神の計らいか、清子の望みなのではないかと熊本行きを決心する。
太田執事の趣味はインターネット。ホームページは「ようこそ緑の牧場へ」と題されて、開くと教会の屋根の十字架がくるくると回る。彼の右手は第1関節から曲がっているのでマウスを操作するときは左手の掌で押さえる。
彼は天国の清子さんと通信しているのかもしれない。
太田執事は菊池でもうすぐ15回目の春を迎える。(山本友美)
『女たち』第34号、1999より
「この人」シリーズ8、~さまざまな生き方を聞く~