ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

松山高吉について〜〜聖公会との関係について〜〜

2017-10-01 12:49:38 | 雑文
松山高吉について〜〜聖公会との関係について〜〜

著名な国文学者に生まれ、自らもかなり戦闘的な国文学者でもあった高吉が、グリーン宣教師の感化を受けて、洗礼を受けキリスト者になったのは明治7年(1874)4月19日、高吉28歳の時である。一緒に洗礼を受けた者は11名で、この日に「摂津第一基督公会」(現今の神戸教会)が設立された。その1ヶ月後の5月4日、同信の友、塚本経子と結婚している。
それ以後、一貫してキリスト者として、またキリスト教の伝道者として、また同時に聖書翻訳者としてその生涯を全うし、昭和4年6月15日に妻、経子は逝去、昭和10年(1935)1月4日午前10時20分京都下鴨の自宅で逝去した。
松山高吉先生の業績について、ここで語ろうとは思わない。ただ、私の一つの疑問は、日本における組合教会の創設者の一人であり、同教会の初代牧師、京都平安教会牧師等も歴任しておられる。また組合教会と密接な関係にある同志社の功労者でもある先生が、明治30年(1897)1月29日の夜、突然、日本聖公会のマキム監督より堅信礼(信徒按手式)をお受けになって、教籍を組合教会から聖公会に転籍されたことである。それは先生が54歳の時である。その後、聖公会では「新古今聖歌」の編集に深く関わりつつ、同時に、同志社の社員、社員会の議長、明治32年からは教職員として務め、昭和39年には同志社の社長代理等も努めて居られる。
以前にも触れたように、松山先生の長男をはじめご家族は、京都の聖アグネス教会のメンバーであり、長女の初子さんは聖公会の婦人伝道者として生涯を全うされた。どうも、その間のことがはっきりしないのが私の謎であった。
この度、溝口靖夫先生の『松山高吉』を再び手に入れ、それを読み始めて、最初の部分でその謎の大部分は解消された。
この書の初めの部分に「序文」として3人の方々が文章を寄せておられる。最初の序文は同志社の総長を2回もされた湯浅八郎先生、第2番目は日本聖公会京都教区の主教をされた佐々木二郎先生、第3番目、同じく大阪教区主教の柳原貞次郎先生で、中でも佐々木主教の文章は松山先生ともっとも近い関係にあったようです。佐々木主教のお父様は、松山先生が組合教会から聖公会に移られた頃、同じように組合教会の牧師から聖公会に移られたとのことであり、また、聖公会の移られてからは同じ京都にお住みになり、いろいろの深い交流があったようである。とくにその葬儀に際しては佐々木主教が司式をなさったとのこと、松山先生は聖公会に移られてからは忠実な信徒としてその生涯を全うされたようである。その間のいろいろなエピソードが注目される。ここに記されている「京都聖三一教会」とは、現在の聖アグネス教会のことである。
聖公会に移られた後は、組合教会とはほとんど関係せず、専ら一人の信徒、一人のキリスト者教師として同志社と深く関係されたようである。

以下、佐々木主教の「思い出の松山高吉翁」を全文、書き出しておく。


思出の松山高吉翁  佐々木二郎(日本聖公会京都教区主教)

雁がねや親しき友の死にし数

古い写真帖を開いて見ると、友の大方は皆故人、私も84歳、せめて松山翁にあやかって90歳位まで長生したい。翁は余が京都聖三一教会で若き司祭たりし頃、教会委員会の筆頭で最高最老の長者であった。
余が金沢より京都ヘ来たのも教会委員会を代表して、翁の懇切なる招待のお手紙をいただいたからであった。
着任後も牧会上の顧間という資格で種々指導をうけたものであった。私の岳父も曽て同志社に学び松山翁に教えをうけたので曽て翁を評価して「基督教会におけろ生ける国宝」だといった。
翁は茶人であり、岳父も京都で茶人であったので、私もお二人に連れられてよく京都近郊の茶室めぐりをしたこともあった。
新島先生を「新島君」と呼んで親しく昔噺をした人は蓋松山翁だけであろう。

京都に同志社を設立するに就いて二人は幾度か、或時は夜を徹して論じあった。東京は政治の都、大阪は商業の市、京都こそ教育の都と二人の意見は一致したと翁は私に語った。翁はまたこんなはなしもきかせてくれた。或夜新島夫人の留守の時、話がはずんで語りあかし二人が空腹を感じ、夫人が戸棚にしまいこんだ菓子を夫人にわからぬように錠をそのままに取出す工夫を考えて二人で茶を飲んだ話を面白おかしく私にきかしてくれたことを思い出す。
翁は最愛の経子夫人が脳出血で急逝された後、しばしば私にはなされた。古歌に
——あるときはあるのすさびに思はねど
       なきてぞ人の恋しかりける——
「古歌は私に真実を語ってくれる」と翁はよくいった。

翁はよく依頼されて説教した。説教の題目は老使徒のヨハネの如く愛であった。よく「言うに易くして行うに難いのは愛だ」といわれた。平安女学院の寮に盗難があった。犯人は寮生の一人であった。院長は厳しい人で、その寮生を警察に突出して更生のチャンスをも与えようとしなかった。この時、翁は嘆じていった。
「人は厳しすぎて過つこともあり、また寛大すぎて過つこともある。しかし寛大すぎて過つ方は神の前に立つ時に申訳がたつ。師たる者はこうした事をよく考えて行動せねばならぬ」と。

翁は明治29年聖公会に転じた。同志社を中心とした日本組合教会の熾烈なる自給独立運動に対して翁は意見を異にしたのであった。ひとり松山翁ばかりでなく私の岳父も長い組合教会の牧師を辞して仙台で聖公会に転会してしまった。

翁は88歳の時大病した。急性肺炎であった。それは肉体的には言語に絶する苦痛であったらしい。病癒えて後、翁は私に語った。「私には神の御前に召さるる前に何か足らぬものがあったらしい。神様はその足らぬところを補わんために言語に絶するあの病苦を与え給うた、あの病苦を経ていくらか神の前に行ける、何ものかが与えられたと私は信じている」と翁は謙虚に語られた。

晩年神戸附近で関西の有名人達が翁を招いて一席の宴を催した。彼らは翁の聖書翻訳の功をたたえて種々の質問をしたらしい。その時翁は「問われても返す言なき老の身はただはづかしの森にかくれん」と即吟して宴を閉じたということであった。

翁は愛の人であったが同時に自信の人であった。 学問の上に立つとあくまでも所信をまげなかった。讃美歌や聖書の言葉は翁の独壇場であった。ある時才人の文学司祭(今はこの人も故人)と聖歌の問題で公席で議論となった。翁のいうところも辛練であった。
「君は国学の素養がないから暴論する。国学をよく研究して出直してやってきたまえ、そしたら私の説を納得するだろう」といった。若い司祭は一層激した。翁は相手が激するほど益々冷静となり、慈父が淳々と説きさとす如く語つたのを私は記憶する。

松山翁たちに依ってできた文語体の聖書に、神やイエス・キリストに「なんじ」という言葉が用いられているので翁に尋ねたことがあった。翁は笑いながら「なんじ」とは元来「名もち」からきている。昔は庶民は名らしい名がなかった。名のあるのは偉い方々であった。だから「なんじ」即ち「名もち」は尊い意味がふくまれているのだと教えていただいたことを思い出す。

松山翁は昭和10年1月4日、京都下鴨北園町の仮寓にて早川司祭より最後の聖餐式を受け、翁の素志をついで伝道者たりし初子女史にかしずかれつつ静かにこの世を去って、聖三一大会堂に於いて私の司式にて葬儀が行われた。昭和10年1月6日のことであった。

松山家では他に墓地を用意してあったが、晩年同志社理事会の要請で新島先生の墓地のある所に葬ることとなった。最近松山翁の墓の隣にまだ存命中の松山初子女史の墓ができている。松山翁は多くの子女があったが、松山翁の素志を継いで一生を伝道にささげたのは初子女史一人である。王の墓の隣に女史の墓碑を建てることも、翁の晩年に当時の同志社理事会の了解済みときいている。

——しみじみと亡き人おもい菊に立つ——

最新の画像もっと見る