ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

旧満州での思い出(7) 満州の冬

2008-05-15 14:53:09 | 旧満州の思い出
「親と子が語り継ぐ満州の『8月15日」の中で、数納勲郎さんが当時の在満邦人の生活を細かく書いておられる。数納さんは1910年生まれで、東大冶金学科を出て、昭和製鋼所に入社した技術者で、それだけに描写が鮮明である。ちなみに、わたしの父より2歳若い。1947年に帰国し、戦後の鉄鋼界で活躍し、日新製鋼を退職後、1983年から回顧録「犬の遠吠え」を執筆しておられる。
この本の中で、数納さんが書いておられる部分だけを拾い読みしても、読み応えがある。
今回は満州の冬の生活の部分だけを取り上げて、わたしの思い出を記録しておく。
数納さんは、「冬の暖房としてペチカが最も安い暖房で、満州の冬には欠かせないものだ」(同書21頁)と書いておられるが、実はわたし自身はペチカの経験はない。「鞍山は満州でも南に位置しているから、北満に比べれば暖かい」とも書いておられるが、わたしたちが住んでいたのは北満の新京市であったが、我が家にはペチカはなかった。一度、親たちと一緒にハルピンの親戚のところに遊びに行ったとき、その家にはペチカがあり、非常に珍しかったことを覚えている。ハルピンは新京よりもさらに北に位置する。それでは我が家の暖房はどうなっていたのかというと、現在でもほとんど見かけられない、地域暖房設備が整っていたのである。この本の中で原田タケさんの聞き書きにあるように、「住宅地の片隅に異様な姿の建造物があり、これが極寒から我々を守るための暖房を賄う巨大なボィラーで」(同42頁)、ここから各家庭にパイプが張り巡らされ、スチームが送ってくる。家庭内では、ただバルブを開閉するだけで、適温を保つことができたのである。
住宅の壁は煉瓦組で、部屋の窓はすべて二重窓になっており、外側の窓と内側の窓との間が15~20センチほどあり、冬には一種の冷蔵庫の役割をしていた。真冬の温度は零下30度とか40度になるが、部屋の中では半袖で過ごすことができるほどである。従って、親たちからやかましく言われていたことは、外とつながるドアのノブで、真冬に素手で触ると、皮膚がくっついてしまい離れなくなってしまう危険がある。
わたしたちが通っていた順天小学校では冬になると運動場はスケートリンクに変わる。小学一1年から全員スケートは必修で、始の頃は立つのも大変で、泣きながら練習をしたものである。当時、子どもたちはロングスケートだけで、刃の研ぎ方や手入れの仕方を学校で教えてもらった記憶がある。冬の運動会はスケート大会で、教師の中にオリンピック選手なども居られ、その模範演技は大評判であった。

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