エンデの「自由の牢獄」を大きな期待を持って読んだ。わたしがエンデの著作に最初に触れたの「モモ」であった。「モモ」は子供向けという要素がかなり強く、またそういう装丁をしていた。しかし、取り上げられているテーマは時間論という難しい問題で、大人にとっても十分読み応えのある、いい作品であった。映画化もされた「はてしない物語」では、表紙に描かれている「お互いの尾を噛み合って円になった二匹の蛇」など、一晩中、どうなることかと考えたこともあった。エンデの作品は読者に考えさせることがエンターテイメントになっている。
今度読んだ「自由の牢獄」には子供向けという要素は完全に払拭され、「考える大人」向けの作品である。特に、聖書の物語が縦横無尽に張り巡らされており、聖書の知識がないと十分に理解できないのではなかろうかと思うほどである。「モモ」や「はてしない物語」では、読者の脳みそに針を刺すような作品であるのに対して、「自由の牢獄」ではわたし自身はらわたにキリをねじり込まれたような経験をした。「自由の牢獄」は8つの短編小説で構成されているが、旅行記、冒険物語、書簡、日記、学術的レポート、ファンタジー等々、の形式を取り入れられ、小説というものの形を学ばせてくれる。
本が届いて、最初に読んだのは、タイトルに惹かれて、7番目の「自由の牢獄──千十一夜の物語──」を読んだ。ここで、先ずわたしはショックを受けた。まるで、旧約聖書のヨブ記を読んでいるような感じである。続いて、最初から読み始めたが、どれも優劣をつけがたいほど「考えさせる」作品である。その中でも最もショックを受けたの「ミスライムのカタコンベ」で、主人公イヴリィは新約聖書のイエスを思わせられた。
しかし、なんと言っても、この作品の最も強烈なメッセージは、最初の「遠い旅路の目的地」と最後の「道しるべの伝説」とで、この二つは明らかに、呼応関係にある。最後の「道しるべの伝説」では、わたし自身の個人的な問題として、聖職者であり続けていいのだろうかという問題が突きつけられて、はらわたが痛んだ。
しかし、最後に、主人公は神と思われる「光」によって2回頬を殴られる。そして、静かな声によって、二つの罪が示される。一つは、「これは、おまえが自分自身を裁けると思ったことへの仕置きだ」。もう一つは、「われら(神)が誰かを呼ぶのに(天国に迎え入れるのに)、そもそもおまえの助けが必要だと思っていたからだ」。
その「光」に対して「あなたは誰なのですか」という主人公の問いかけに対して、「光」は「私はおまえだ」と答える。
久しぶりに、凄い作品にであった。
今度読んだ「自由の牢獄」には子供向けという要素は完全に払拭され、「考える大人」向けの作品である。特に、聖書の物語が縦横無尽に張り巡らされており、聖書の知識がないと十分に理解できないのではなかろうかと思うほどである。「モモ」や「はてしない物語」では、読者の脳みそに針を刺すような作品であるのに対して、「自由の牢獄」ではわたし自身はらわたにキリをねじり込まれたような経験をした。「自由の牢獄」は8つの短編小説で構成されているが、旅行記、冒険物語、書簡、日記、学術的レポート、ファンタジー等々、の形式を取り入れられ、小説というものの形を学ばせてくれる。
本が届いて、最初に読んだのは、タイトルに惹かれて、7番目の「自由の牢獄──千十一夜の物語──」を読んだ。ここで、先ずわたしはショックを受けた。まるで、旧約聖書のヨブ記を読んでいるような感じである。続いて、最初から読み始めたが、どれも優劣をつけがたいほど「考えさせる」作品である。その中でも最もショックを受けたの「ミスライムのカタコンベ」で、主人公イヴリィは新約聖書のイエスを思わせられた。
しかし、なんと言っても、この作品の最も強烈なメッセージは、最初の「遠い旅路の目的地」と最後の「道しるべの伝説」とで、この二つは明らかに、呼応関係にある。最後の「道しるべの伝説」では、わたし自身の個人的な問題として、聖職者であり続けていいのだろうかという問題が突きつけられて、はらわたが痛んだ。
しかし、最後に、主人公は神と思われる「光」によって2回頬を殴られる。そして、静かな声によって、二つの罪が示される。一つは、「これは、おまえが自分自身を裁けると思ったことへの仕置きだ」。もう一つは、「われら(神)が誰かを呼ぶのに(天国に迎え入れるのに)、そもそもおまえの助けが必要だと思っていたからだ」。
その「光」に対して「あなたは誰なのですか」という主人公の問いかけに対して、「光」は「私はおまえだ」と答える。
久しぶりに、凄い作品にであった。