聖書の詩編をテキストにして主日礼拝の説教を初めて3週間たつ。ここで一先ず、詩編から説教をするということについての基本的な問題点の一つ「詩の翻訳」について、現時点での考えをまとめておく。
ご承知の通り、聖書の中に「詩編」という文書があり、そこには150編の詩が保存されている。これらはすべて当然のことながら翻訳文書である。当然、日本語でも色々な翻訳文が準備されていて、それらを少し詳細に読めば、ヘブル語の知識がほとんどなくても、ヘブル語原文がある程度推測される。そのことについては他日に論じるとして、ここでは詩を翻訳するという行為そのものについて考えてみたい。
詩を翻訳するということは非常に難しい。翻訳とは一つの言語によって書かれた文章あるいは詩文を他の言語に移し替えることであるが、詩の翻訳においては何を移すのだろうか。詩とは言葉による芸術であると言われる。詩において重要なことは言葉と言葉が組み合わされて成立する「意味」に留まらない。意味を通し、意味を越えて、伝達される意味以上のもの、それが感情であったり、美しさであったり、心地よさであったりする。言葉そのものがもつ膨らみ、リズム、音韻が総動員されて詩人の感性を刺戟して創造される世界である。意味の伝達だけならば、翻訳という仕事はかなりの部分コンピューターによっても可能であろうが、詩とは言葉以前のもの、言葉の枠を破るもの、言葉そのものを越えたものを内に秘めている。それをコンピューターは捕捉できない。詩を翻訳するということによって「意味」を移しただけでは、翻訳したことにならないであろう。では、詩において何を移すのだろうか。
日本における近代詩は翻訳から始まったと言う。そのことについては天才的翻訳詩人と称せられる上田敏の仕事をみれば否定できないであろう。もちろん、だからといって日本の近代詩は海外からの移入であるなどと簡単に言えるものではない。むしろ海外文学を受容する内発的な感性が育っていたという事情もあるだろうし、上田敏の仕事もそれによるものであることは否定できないであろう。上田敏の翻訳詩と呼ばれるものを原詩と比較すれば、それはもはや翻訳というよりも原詩に刺戟されて新たに創造(想像)された作品であることがよく分かる。
ところが、それが聖書における詩編の詩ということになると事情はそう簡単ではない。なぜなら、その翻訳は「聖書の翻訳」という大きな枠内の作業であり、そこでは「言葉と意味」による制約(縛り)がかなり強固であり、そこからはみ出すことがほとんど許されないからである。
詩の翻訳における難しさは、同時に詩を味わうということにおいても同じ問題が含まれている。詩を味わうためにはもちろんそこで用いられている言葉(単語)の意味を正確に理解する必要があるし、文章そのものも理解しなければならないのは当然であるが、それらを十分に理解したからといって詩そのものを味わったことにはならない。
詩を味わういうことには詩人ないしは詩そのものと向かい合い、自分自身との共鳴、共感、響き合いがなければならない。とくに聖書における詩編の場合には「信仰」という内面的な「場」での響き合いが前提となっている。それは詩編をキリストの預言として解釈するというようなレベルの事柄ではなく、信仰者である詩人と自分自身の信仰とがふれあう場ということである。詩人から発せられる「言葉」(外からの言葉)に対して、私自身の内からの言葉が生まれ、共鳴する。言い換えると、詩の言葉が自分自身の言葉として自覚される。賛美の詩においてはその詩が「私の賛美」となり、祈りの詩の場合には「私の祈り」となる。
このことについて、カトリックの御受難修道会の来住英俊神父は次のように述べている。「詩編の祈りの秘訣は、『詩編の言葉に自分の思いを乗せる』ということです。詩編の言葉の内容について思いめぐらしたり、自分に言い聞かせたりするのではありません。自分の中にある思いを、詩編の言葉に乗せてやります。あいまいな思い、弱々しい思いも、怒りも、痛悔も、嘆きも、信頼も、感謝も、喜びも…………。詩編は二千年以上も前に書かれたものですが、その言葉にはあらゆる時代の人々の思いを乗せるだけの普遍性があるのです」(『詩編で祈る』、23頁)。
ご承知の通り、聖書の中に「詩編」という文書があり、そこには150編の詩が保存されている。これらはすべて当然のことながら翻訳文書である。当然、日本語でも色々な翻訳文が準備されていて、それらを少し詳細に読めば、ヘブル語の知識がほとんどなくても、ヘブル語原文がある程度推測される。そのことについては他日に論じるとして、ここでは詩を翻訳するという行為そのものについて考えてみたい。
詩を翻訳するということは非常に難しい。翻訳とは一つの言語によって書かれた文章あるいは詩文を他の言語に移し替えることであるが、詩の翻訳においては何を移すのだろうか。詩とは言葉による芸術であると言われる。詩において重要なことは言葉と言葉が組み合わされて成立する「意味」に留まらない。意味を通し、意味を越えて、伝達される意味以上のもの、それが感情であったり、美しさであったり、心地よさであったりする。言葉そのものがもつ膨らみ、リズム、音韻が総動員されて詩人の感性を刺戟して創造される世界である。意味の伝達だけならば、翻訳という仕事はかなりの部分コンピューターによっても可能であろうが、詩とは言葉以前のもの、言葉の枠を破るもの、言葉そのものを越えたものを内に秘めている。それをコンピューターは捕捉できない。詩を翻訳するということによって「意味」を移しただけでは、翻訳したことにならないであろう。では、詩において何を移すのだろうか。
日本における近代詩は翻訳から始まったと言う。そのことについては天才的翻訳詩人と称せられる上田敏の仕事をみれば否定できないであろう。もちろん、だからといって日本の近代詩は海外からの移入であるなどと簡単に言えるものではない。むしろ海外文学を受容する内発的な感性が育っていたという事情もあるだろうし、上田敏の仕事もそれによるものであることは否定できないであろう。上田敏の翻訳詩と呼ばれるものを原詩と比較すれば、それはもはや翻訳というよりも原詩に刺戟されて新たに創造(想像)された作品であることがよく分かる。
ところが、それが聖書における詩編の詩ということになると事情はそう簡単ではない。なぜなら、その翻訳は「聖書の翻訳」という大きな枠内の作業であり、そこでは「言葉と意味」による制約(縛り)がかなり強固であり、そこからはみ出すことがほとんど許されないからである。
詩の翻訳における難しさは、同時に詩を味わうということにおいても同じ問題が含まれている。詩を味わうためにはもちろんそこで用いられている言葉(単語)の意味を正確に理解する必要があるし、文章そのものも理解しなければならないのは当然であるが、それらを十分に理解したからといって詩そのものを味わったことにはならない。
詩を味わういうことには詩人ないしは詩そのものと向かい合い、自分自身との共鳴、共感、響き合いがなければならない。とくに聖書における詩編の場合には「信仰」という内面的な「場」での響き合いが前提となっている。それは詩編をキリストの預言として解釈するというようなレベルの事柄ではなく、信仰者である詩人と自分自身の信仰とがふれあう場ということである。詩人から発せられる「言葉」(外からの言葉)に対して、私自身の内からの言葉が生まれ、共鳴する。言い換えると、詩の言葉が自分自身の言葉として自覚される。賛美の詩においてはその詩が「私の賛美」となり、祈りの詩の場合には「私の祈り」となる。
このことについて、カトリックの御受難修道会の来住英俊神父は次のように述べている。「詩編の祈りの秘訣は、『詩編の言葉に自分の思いを乗せる』ということです。詩編の言葉の内容について思いめぐらしたり、自分に言い聞かせたりするのではありません。自分の中にある思いを、詩編の言葉に乗せてやります。あいまいな思い、弱々しい思いも、怒りも、痛悔も、嘆きも、信頼も、感謝も、喜びも…………。詩編は二千年以上も前に書かれたものですが、その言葉にはあらゆる時代の人々の思いを乗せるだけの普遍性があるのです」(『詩編で祈る』、23頁)。