ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

戯曲について

2008-10-28 13:42:10 | ときのまにまに
最近2つの戯曲を読んだ。1つはサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』であり、もう1つはジョージ・オーウェルの『牧師の娘』の第3章で、後者は1つの小説の中に組み込まれたものである。おそらく、これは実際に上演されることを想定していない。いわば戯曲という形式で書かれた文学作品といったところであろう。従って、読む側としても、それほど違和感なく読めた。今までに戯曲と呼ばれる作品は、井上ひさしのいくつかの作品を読んだだけで、あまり読んでいない。井上さんの作品にしても、これはわたしの推測であるが、実際の劇場で公演される場合には、もっと具体的に脚本化されたものを用いるのであろう。あるいは、戯曲として一般に出版されているものは、それとして再構成されているものと思われる。従って、戯曲として読んだ意識はほとんどない。
さて、問題はベケットの『ゴドーを待ちながら』である。これは明らかに上演されることを前提にしている。もちろん、その場合には、脚本化という作業が伴うのかもしれないが。ともかく、この戯曲はわたしにとって非常に新鮮な、それだけに違和感のある作品であった。とにかく戯曲は読みにくい。読みながら、舞台の上でのやりとりをイメージしなければならないし、1つの舞台の上で、登場人物がそれぞれ勝手に喋ったり、演技をしたりしている。ベケットのこの作品の場合は、登場人物が極度に少ないので、まだましだが、オーウェルの場合は、トラファルガー・スクエアを囲んで12人の浮浪者が群がり、それぞれが勝手に喋ったり、飲んだり、踊ったり、議論をしたりしているのであるから、読者の意識は分散し、わけがわからなくなる。何回も後戻りして、1人の人物の台詞と行動とをトレースしなければならない場合もある。とにかく、読みにくく、なじみにくい。一口で言ってしまえば、1,2回読んだぐらいでは、読んだという感じがしない。
内容の問題は、別な機会に取り上げるとして、ここでは戯曲という形式の作品の持つ面白さとでもいうべきことを少しメモしておきたい。
先ず第1に、この作品の上演時間は約2時間ということである。この上演時間というもののもつ制約が戯曲の第1の特徴となる。あまり短すぎても駄目だし、長すぎても具合が悪い。しかも、その上演時間中、観衆の目と耳とを独占し続けなければならない。これは、作者にはかなりきつい制約であろう。そういう感じの言葉が、この作品のあちらこちらに散見できる。ところが、これを読む者にとっては時間的制約はない。それどころか、同じ箇所を行ったり来たりして、あるいはページをひっくり返したりして読める。この上演と読書という2つの鑑賞の仕方はまったく異なる。作者はそのことを前提として、この作品を世に出している。
さて、読むという行為においては著者と読者とは直結しており、作品を媒介として一対一という関係であるが、舞台を通して作品に接する場合には、演出家をはじめ、俳優やその他のスタッフが間にいる。とくに、作者と演出家の関係は重要である。それは、交響曲の場合の作曲家と指揮者との関係に比することが出来るであろうし、また、俳優の存在も無視できない。とくに、俳優の場合は登場人物と俳優との関係は切っても切れない。作者が登場人物のキャラクターをどれだけリアルに描けているのかという思想と技術、それに対応する俳優の演技力とがその作品の生死を決する。
この度、『ゴドーを待ちながら』を読みながら考えた。1人の俳優は、その登場人物に「成り切る」ためにどれだけこの作品を読み込んでいるのだろうか。演出家は、この作品の一つ一つの台詞を頭の中にたたみ込みながら、舞台を形作っているのだろうか。
例えば、(ヴ)「ゴドーを待つんだ」。(エ)「ああそうか」という短い台詞が何回も繰り返されるが、その一回一回の声調、仕草などをどう解釈するか。これだけでも、この作品は変わったものになってくるだろう。あるいは、舞台の真ん中に立つ「一本の木」にしても、どういう形にするのか、高さはどうか。1幕目の場合と2幕目の場合との関係にしても初演の時から作者と演出家との間でかなり議論がされたようである。
読者は戯曲の場合は、一回読み、筋がわかればいいというわけにはいかないようである。
次は、ヴラジーミルの立場になって、ヴラジーミルの台詞を中心に読み返し、次にエストラゴンになったつもりで、はじめから終わりまで読み返す。次にに、演出家の立場になって全体を見渡し、最後の観客の視点から舞台を見上げる。そこまで出来るかどうか、わからないが、おそらく緒形拳はそういうふうにしてこの作品を何回も読み直したのだろう、と想像する。ちなみに、緒形拳さんのエスタラゴン役はライフワークとなったとのことです。

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