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エドガー・スノーが見た「満州国」(3)

2016-07-26 06:27:25 | 雑文
エドガー・スノーが見た「満州国」(3)

今日の満州国(221~224頁)
世界は満州国を国家として承認することを拒否しても、それが強い生命力をもったひとつの現実であることを無視できない。ジュネーブの承認なしに生まれ、アメリカが正式に非認の態度をとっている満州国は、外交上からいえばだれも知らない国家である。だが実際面からいえば、この日本の「私生児」はどの外交官も無視できないという大ヘん困った存在である。
満州国は大した獲物である。数多くの資源の中でとくに目のつくのは、1,500億立方フィートの立木をもつ広大な処女林、8,000万エーカーの可耕地、7億トン以上の石炭埋蔵量、20億ドル以上と推定される金埋蔵量であり、また年間約10億ドルに近い貿易量をもっていた。戦争商売は割が合わないと思っている人間もいるんだねと、日本人は不思議そうにいうのである。
このもっとも新しい国の現状はどうか。搾取、阿片、文盲、不換紙幣、官吏の強奪行為などはなくなったのか。悪党ともいうべき青年元帥(張学良)のせいだとされていた悪風は矯正されたのか。新国家を支配するものは誰か。どんな風に支配しているか。そのめざす目的は何か。
わたしが山海関で万里の長城を抜け、北京からまっすぐに奉天へ行って、満州国を再訪したのは、この本のためにこうした疑問に対する答を得るためだった。塘沽(たんく)休戦協定(1933年5月31日)と、それにつづいて南京政府からもぎとった秘密協定によって、満州国の税関(入国管理事務所)が山海関に店開きしていた。
一歩国境を越えるといちじるしい変化が目に入った。大都市に行くまでもなく、異常な建築ブームが満州国の顔を急速に変えていることが解る。鉄道沿線の小さな町々で、新しい建物が日本兵に警備されて建築中だった。日本兵の姿をたいていの駅でみかけた。どこでも日本人商人の数が
にわかに増えていた。
汚ならしい中国の列車からちゃんと掃除され、サービスも行きとどいている列車に乗りかえるのは気持ちがよかった。食堂車のテーブルクロスは真白に洗ってあった。暖房もよくきいていた。車掌は礼儀正しくおじぎをして、床につばを吐いたりはしなかった。これまでは列車が停まらない前からワッと走りよって荷物を奪おうとする狂ったような苦力(クーリー)の群れがいて、だれの手にも負えない感じだった。それが今では駅のブラットホームにいなくなっている。「満州国」ではちゃんと統制がとれていた。彼らは乗客を踏んづけたりはしない。そういうささやかな違いだけでも、旅行者を強く印象づけた。そこには組織があり、消潔さがあり、規律がある。これが同じ中国人だろうか。
「違いますよ」と車中でわたしと会話していた小柄な日本人医師が言った。「ここは満州国で、ここに住んでいるのは満州国人です。彼らが2年前にどうだったかは問題ではありません」。この新しい国、または植民地では「中国人」という言葉は禁句である。ちょうど日本が台湾を領有して
以来、台湾に住んでいる中国人が「台湾人」となったように、ここでも彼らは満州国人とよばれていた。しかし匪賊や悪党は今でも公けには中国人ということになっている」。
このほかいろいろ改革された中で目立ったことの一つは、列車車掌の礼儀正しい質問だった。 「満州国のお茶はいかがですか」と彼は言った。わたしはあまり気が進まなかったが一応もらうことにした。このあたりでお茶ができるとは全く知らなかった。彼は大きなコップに熱いこはく色の液体を入れてもってきた。味わってみると、そのかすかな香気はなじみのものだった。「こいつは日本茶だ」とわたしはつぶやいた。車掌は歯のすき間から音を立てるような言い方で「アハハ、そうです。日本の茶、満州の茶、同じです。ハハハ」と言った。
ハルビンであるアメリカ人にこの話をすると彼は言った。「やつらは何にでも新しい言葉をつけたがるのさ『日満州』というのはどうかね」。「アジアで最も美しい首都」を建設する準備段階で、すでに2千万円が使われた新京でこのことを思い出したわたしは満州政府にとってはこれが
びったりした名前だと思った。ちょと調べただけでも、この広大な新帝国に日本人はその支配力を確立している。
中国の愛国者たちが「傀儡」と呼ぶことで、わずかに自分たちを慰めている満州国の外観について、もう少し観察してみよう。真先にあげられるのは、もちろん薄儀であるが、 彼の即位については後に述べることにする。首相には鄭孝胥(ていこうしょ)がった。彼は儒教を信ずる老紳士で学者でもあったが、前には満州王朝の高官となり、薄儀の個人的教師をつとめていた。
鄭は満州国の国家的信仰となった「王道」の神秘的かつ魔力的な指導者としてよく知られている。王道とは人の上に立つ者は専制君主として、だがしかし正義、慈愛、寛大さをもって統治すべきであると教える中国の保守的な社会・政治哲学である。現在75歳の彼は、難解な古典的比喩を伴った詩作と、優美な書道で日々をすごしている。彼の静穏な精神は、別の世界から来るほのかな床しい薫りのように、その周囲の廷臣たちの心を洗い清める。
形式上は、首相が政府の8省大臣から成る国務院つまり内閣を取りしきっている。5、6人の有力者からなる枢密院があって、種々の重要な事柄に関して薄儀に助言することになっている。また監察院と立法院があるが、そのメンバーは大臣の場合と同様に日本側によって任命される。
このように中国で表面をとりつくろうのは実に金のかかることだと、日本人はあけすけに言っている。たとえば書家の鄭は年俸約3,000ポンド(約38,500円)を受けているが、それは日本の首相が、参謀本部によって分捕られた年間予算の残りからやっと手にする9,600円の4倍以上の額である。満州国の各大臣の年俸2,500ポンド(約32,000円)に対し、日本の大臣は6,800円にすぎない。満州国の親善使節としてワシントンにいるアメリカ人雑誌編集者ジョージ・プロンソン・リーが、これらの中国人よりもっと高い給料をもらっているので、日本人官吏は頭を抱えてしまうのだ。彼は年俸7万円を受取っているが、それは薄儀の控え目な年俸10万ボンドは別として、誰よりも多い給料である。
各省とほぼ同等の権限をもつ他の重要な政府諸機関では、日本人が公然と長になっている。その中には新京首都建設委員会、国道委具会、黒竜江省の西部をえぐり取ったモンゴルの省である興安省行政委員会がある。最後にもっとも重要なものとして総務委員会がある。

南満州鉄道(226頁)
しかし軍の前にはもうひとつ困難な障害がある。それは日本政府がその株の過半数をもっている南満州鉄道(以下「満鉄」)である。満鉄は鉄道の運行と「沿線区域」の都市行政を任かされているほかに、大きな鉄鋼工場、炭鉱、森林業、航空、新聞、船会社、精油工場、化学工場、煙草会社、ホテル、学校、ガス会社、水道会社、銀行、病院を所有し経営している。すべてを合わせると満鉄のもつ子会社は64にもなる。それはアジア最大の企業で、その資産は15億円に近い。
特殊協定によって満鉄は満州国内のすべての鉄道の融資、運営を独占し、子会社のひとつである満州電信電話会社は、この国の電信電話事業を独占している。このように広範な利権をもつ満鉄は、関東軍の支配下に入らざるをえない。実際に今日では軍が支配の実体をなしているが、これまでは日本の国内政治で、勝ったほうの政党の褒賞のようなものになっていた。政権の交代ごとに何千という満鉄の職員、従業貝の入れかえが行われたのだった。
軍は将来そうしたことを根絶しようと決心しているようだ。軍は現在もっている統制力と横のつながりを法律で裏づけようと努力している。ある将官は言った。「満鉄を政治家のフットボールの球にしてはいかん」。簡単にいえば、軍を代表とする日本政府が株の過半数をもち、そこヘ民間
資本(日本では天皇の下に一大トラストを形成している)が資金供給に参加するという形で、巨大な持ち株会社をつくろうという計画である。
満鉄管理の種々の事業は、満州とモンゴル経済開発の全分野にわたる16の主要な会社に統合され、そこに経済統合本部、すなわち関東軍司令部が最高責任者として全事業を統合調整することになる。この計画の提唱者は小磯中将と、疲れを知らぬ土肥原少将だといわれていた。
この大胆な計画が発表されると、日本では大騒ぎになった。政友会、民政党、拓務大臣および満鉄自身からいろいろ代案が出された。だがそれらが全て主要な点では軍の要求の正当性を認めていることをみると、日本で政治に反対する力がいかに無力化されていたかが解かる。この巨大組織を永久に軍事支配下におくことは、日本の政治面で軍に絶対的な力を与えるに等しかった。そうなれば日本で完全な軍部独裁が実現することになる。実はすでに表面は別として、ほとんどすべての点で軍事独裁下にあるといってよい。

中国人は満州をどう見ていたか(227~229頁)
ところで3千万の中国人、すなわち「満州国人」は満州国をどう見ていたのだろう。数世紀にわたって中国の一部と信じこんでいた士地の財宝を図々しく盗む者のことを、彼らはどう思っているのか。新しい政府に賛成なのか。日本人が言うように「双手をあげて」歓迎しているのか。それとも怒りに燃えて両手をあげているのか。
どちらかといえば控え目な民族なので、ほとんどの者ははっきりした態度を示さない。まったく無関心というわけではないが、いずれにしても彼らは組織されておらず、積極的にものを言うこともない。自分たちを取り巻く事件に取り組むよりは、傍観者の立場をとることを余儀なくされて
いるのである。住民の大部分を占める農民の90%以上が無知文盲で、華南(上海地方)にわき起った民族主義からほとんど影響を受けない。大多数の者にとって「国政にあずかっていない者に政治は無縁である」という儒教的処世訓がすぐれた常識だとされる。
そうはいうものの、匪賊討伐にだけでも5個師団の日本軍と100磯以上の軍用機が使われている。鉄道沿線にパトロール・カーが走ったり、トーチカがあることが、列車や開拓地がしばしば襲撃されることを無気味に暗示している。だが日本人は匪賊が横行した過去数年に較べて、現在は「ほぼ平常」に戻っているという。彼らは「政治的匪賊」である反乱分子がほとんど掃討されたことは、大きな成果だと考えている。
塘沽停戦協定の結果、義勇軍に対する中国政府の支援が停止されてしまったため、大規模な組織的反乱は実際上なくなったと日本人たちは言うのである。いま活動している匪賊の大部分は「赤髭」こと「紅髭子」で、アジアの広漠たる辺境では昔からおなじみの職業的馬賊である。その推定数は人によって異なっている。日本軍司令部の推定数6万は少なすぎるが、逃げ足の早い馬占山がいなくなる前に、地域内を動き回っていた30万の「抗日ゲリラ隊」のころに較ベると、かなり滅少していることは事実だった。
奇妙なことに、日本の支配に対してもっとも激しい反感をもっているのは、それによって金を儲けている連中である。彼らのうち少数の知識分子出の者は、中等を出たり、大学を卒業したりしていて、中国人としての民族意識をもっている。 彼らは「屈辱的な立場」を自覚しており、出版、言論、集会の自由がまったくないと嘆いている。もっとも中国ではその自由に恵まれた中国人は少ない。長城の南にいる友人から紹介状をもらって会った中国の役人たちは、満州で起こっていることに心中ひそかに憎悪と反感をもっていることをこっそりともらした。 あるイギリスで教育を受けた役人(その名前を明かすと大変なことになろう)は非常に腹を立て、新京のホテルでわたしの部屋へやってきて、口外しないことを約束させてから次のようにぶちまけた。
「満州国の官庁に勤めている中国人が、みな喜んで働いていると思わないでいただきたい。彼らは4つの部類に分けることができる。第1は単に金儲けのために働いている連中で、だれか他の者が儲けるなら自分が儲けていけないはずはないという風に人生を白眼視している。第2は王道を信奉する鄭のように、儒教の復活を望み、日本人がそれを与えてくれるだろうと思っている連中である。第3は自分の財産と身の安全を守るために傀儡になって いる連中である。第4は逃亡すれば家族が皆殺しにされることを恐れて、仕方なしにとどまっている連中である。はじめの2つの部類に属する人間はあまり多くない。また傀儡になっていろ連中も、たいていは仕方なくここにいるのだ」。多くの中国人官吏は、彼と同じように非協力的感情をもっている。省や市の役人の中には不法分子をひそかに援助している者もいて、それが彼らの活動を活発にしている。中国人が協力しないことを理由に、日本は結局傀儡制度を完全に廃止してしまうことになるかも知れない。たとえばロシア人が建設したハルビン市の行政を、全部日本人にゆだねるべきだとの声がある。そのハルビンはかつては非常に楽しい町だったが1933年には悪名高い「生ける屍の町」になってしまっていた。世界の大都会の中でも、ここほど生命の危験が多い町はないのではなかろうか。 追いはぎ、泥棒、人殺し、誘拐などが珍しくない。とくに白系ロシア人の犯罪が多い。生きるあてがなく希望を失った彼らは、ポルシェヴイキ支配下のロシアヘは帰れず、日本人支配下の中国では生活に困ってやけになり犯行に走るのだ。また市中にやたらにふえた阿片を売る店から手に入れて麻薬のとりこにもなる。
満州国の阿片専売制度に対し国際連盟阿片委員会宛のフランクリン・D・ルーズベルト大統領が派遣したスチュワート・フラーの報告は、この害悪についてむしろ控え目に書いていた。ハルビンだけで阿片、へロイン、モルヒネの販売許可を与えられた店が2000軒以上あった。「販売許可を受けているのは、大部分朝鮮人と日本人の店だ。だが買う方は自由で、だれでも許可なしに買える」とある外国の領事館員がわたしに話してくれた。彼の話を確かめるために一軒の阿片窟へ行くと、鋼貨20枚でヘロインの注射はどうかと勧められた。
もちろん阿片や一連の麻薬による害毒は、中国や満州では今にはじまったことではない。張学良将車自身も阿片患者だったが、その時代には阿片からの儲けで中国の将軍たちは肥え太っていた。それは今でも南京政府の重要な財源になっている。だが中国で阿片売買は表面上は「非合法」
だ。多くの善良な市民たちは、阿片商売をやる連中が少なくとも大金持ちになるまでは、彼らを見下していた。だが「日満国」で阿片の管理専売制度が確立されたため、その連中の社会的地位があがったのである。
管理という言葉に注日されたい。建前としては阿片根絶をめざしながら、実際は専売制度によってその生産も消費も大いに増進する結果になった。ある外国の当局者は「満州国内で直接に、麻薬商売に関係している日本人の数は全体の20%を下らない」と断言している。半公式の推定によると、1933年に満州国だけで阿片の生産は28万ポンドに達した。それは各戸に1人づつ阿片患者がいても十分まかなえる量である。非公式推定では200万ポンドという数字さえ出ている。しかし日本人はケシの栽培を大幅に減らすつもりだといっていたのだ。日本人が遠回しに「不況時代」とよぶ戦時中に減産したのを取り戻すために、1933年には「美しい死の花」の栽培を農民たちに奨励した。将来はそういう特権はなくなるというのだ。
阿片栽培は特定の地城に限られ、違反者には重い罰金が課せられるという。この政策が実施されるにしても、日本人の良心がそうさせるのではあるまい。1933年に阿片が過剰生産となり、密売が盛んに行われて専売利益が滅ったからである。色っぽい女たちをはベらせた政府認可の阿片窟や麻興販売許可店は、それよりずっと安い値段で麻葉を売る「もぐり店」のために売上げが激減した。昔から阿片の害がいわれていたが、日本時代になってからその脅威が一そうひどくなったことは明らかである。

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