丸谷才一『定本 日本語のために』(新潮文庫)
未来の日本語のために(発出;1974年)
第1章
昭和の知識人は明治の知識人にくらべて文章がずつと下手になつてゐる。いや、上手下手の問題ではなくて、文章を書く力が無残に低下してゐる。ぼくにはさう思はれてならない。そして、もしさうならば、これはじつに重大なことだらう。なぜなら、それは日本の文化の低下を意味するのだから。あるいは、日本の知識人の精神と感覚がわづか百年たらずのうちに急激に貧しくなつたことを示すのだから。
このことは国語問題と深い関係がある。あるいは、むしろ、このことは国語問題に新しい照朋を投げる。しかし、おほむねの場合、このやうな事情とその原因が無視されて単なる便、不便、単なる能率の問題として国語問題が論じられて来たことは、ぼくにははなはだ異様なことのやうに感じられる。
だが、こんなふうに話をはじめても判りにくいかもしれない。具体的に例をあげて、しかもできるだけ具体的に論ずることにしよう。
(1)文語訳聖書
空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや。 汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服裝この花の一つにも及かざりき。 今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。さらば何を食ひ、何を飮み、何を着んとて思ひ煩ふな。
(2)口語訳聖書
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
マ夕イ伝福音書第六章、二十六節から三十一節まての新旧二つの翻訳を並べてみた。この部分を選んだのは、人々に最も親しまれてゐる箇所といふ気持からであつて、他意はない。(1)は大正六年の聖書協会文語訳で、これは明治十三年の訳に手を入れたものである。(2)は昭和二十九年の聖書協会口語訳である。
一読して気がつくのは(2)の口語訳が極めて劣悪だといふことである。第一にそれは、読む者の心にイメージを思ひ浮ばせる力がない。「空の鳥」の話のときは、とつぜん「まくことも」と言はれても、何を「まく」のか読者には見当もつかない。布をまく? 舌をまく? それとも? 読者は途方に暮れるだらう。なぜならば、当然、「巻く」とクを高く発音するアクセントで読んでしまふからである。その読み方が間違つてゐたのではないかといふ疑惑は「刈ることも」のヘんでやうやく「倉に取りいれることも」に至つて誤りは明らかになる。そこでもういちど「空の鳥」に引返して読み直すわけなのだが、いつたん濁つてしまつたイメージはなかなか鮮やかなものになりにくい。読者の読解力に対するこのやうな過重な負担を避けるためには(1)のやうに「播かず」と漢字で書くか、「種を」と目的語を補ふか、あるいはさらに思ひ切つて「種まき」といふ言葉を使ふか、たぶんこの3つの解決策のうちの一つを選ぶべきであつたらう。そしてかういふイメージを喚起する力の不足は、単に「まくことも」の箇所だけに見られるものではない。それはいま引用した(2)の全文について、さらに口語訳聖書全体について言ひ得ることなのである。
もちろんこのことと深く関連しながらだが、第二に、(2)の訳文は論理的な明確さを欠いてゐる。たとえば、「彼ら」が「空の鳥」を受ける代名詞としてふさはしいかどうかは、かなり論議の余地があるだらう。普通の読者ならば、「彼ら」とはいった誰なのかと、しばらくの間きよろきよろ探さねばなるまいし、それが「空の鳥」を指すに相違ないとすばやく推測することができるのは、翻訳ものの探偵小説やノン・フィクションの悪訳に日頃ずいぶん親しんでゐる人々だけであらう。解決策としては「空の鳥」を「空の鳥たち」と複数形に改めるか、もしこの「鳥たち」といふ言葉が翻訳調に過ぎ、日本語として熟してゐない嫌ひがあるならば(1)と同様「これ」で受けるか、あるい代名詞を用ゐることをあきらめて「空の鳥」ないし「鳥」をもういちど繰返えすか、の三つのうちの一つを採るしかあるまい。また、「あなたがたのうち、だれが思いわずらつたからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」の箇所は、どうも文意が明らかでない。これは句読点の打ち方を改めて、「あなたがたのうち、だれが、思いわずらつたからとて自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」とすれば、それだけでもかなり意味の通じやすい文章になるはずである。
第三に、(2)は(1)に比べて格段に冗長である。口語体が文語体ほどに簡潔であり得ないのは、いわば宿命的欠陥だろうが、しかしそれにしても度が過ぎる。(2)の翻訳者たちはおそらく、 口語体のそのやうな弱点を一度も意識したことのない呑気な人々なのであろう。なぜならここには、文章の凝縮度を高めうようという努力の影さヘも見られないからである。たとえば「あなたがたの天の父」の「あなたがたの」は除いてもいつこう差支ヘない。「養つていて下さる」は「養って下さる」ないし「養つてくれる」にするほうがすつきりする。このような配慮の方法を知らず、また配慮の必要を感じなかつた人々が聖書翻訳の仕事にいそしむとき、イエスの言葉は、「きょうは生えて明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」といふやうな、イエスの口から断じて出るはずがない、平板で力点がなくて、たるみにたるんでゐる駄文と化してしまふのである。
第四に、これまで述べたことと密接に関連しながらだが、(2)の訳文は気品の高さをまったく欠いてゐて、文学的な力と香気が決定的に乏しい。たとヘば「それだのに」といふ一句ははなはだ耳ざはりで、不快である。「それなのに」といふ耳にこころよい言いまわしを訳者たちは知らないのであらうか? また、「しかしあなたがたに言うが」といふ語句は、二つの鼻濁音の「が」 があまりに近い位置にあつて口調が悪いし、そのことはなんとか我慢するとしても、この鋭い語句が効果的な力強さを失つてしまつてゐることはとうてい耐ヘられない。この箇所はむしろ「あなたがたに」を除き(一体に口語訳聖書は、「あなたがた」といふ二人称複数の人称代名詞をむやみに使ひ過ぎる傾向がある)、たとえば次のやうにでも改めるべきであろう。「しかしわたしは言おう。栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾つてはいなかつたのだ、と」
あげるべき欠点はまだ数多いし、朱を入れるべき個所は引用した全文がさうなのだが、煩にわたることを恐れてこれぐらゐにとどめる。とにかく大変な悪訳であり悪文である。先程ぼくは、探偵小説やノン・フィクションの悪訳のものになぞらヘたけれども、これはいささか当を失してゐるかもしれない。これほどの悪文で書かれた原稿を受取つたとき、編集者たちは必ずそれを突き返すに相違ないからである。世界の文明国のなかで、プロテスタントが、これほど馬鹿ばかしい文体で書かれた聖書を読ませられてゐる国が、さういくつもあるとはぼくには思へない。
だが、ぼくはこの文章を、口語訳聖書の悪口を言ふために書いてゐるのではない。それはただ、ぼくたちの時代における文体の衰弱の、極端な(しかしそれにしても極端すぎる!)一例としてあげられてゐるに過ぎないのである。ましてぼくは、聖書の口語訳など不必要であつたなどと言はうとしてゐるのでは決してない。おのおのの時代は、おのおのの時代の文体による翻訳聖書を欲する。当然のことだ。それが翻訳を待ちかまへてゐる宿命なのである。かつて『ハムレット』が坪内逍遙を必要としたやうに、今その戯曲は福田恒存を必要とする。明治において『復活』が内田魯庵を必要としたやうに、大正においてその長編小説は中村白葉を、そして昭和において原卓也を必要とする。あるいは、むしろ、それぞれの文体を必要とする。当然のことだ。まして明治以後の日本のキリスト教の最大の苦悩が、単に知識階級の宗教であるにとどまつて庶民ヘとまで至り得ないといふ事情であつてみれば、聖書の口語訳はいはば必至の事業だつたと言ひ得るだらう。問題は、その光栄ある事業が、なぜこのやうにみすぼらしく、貧しく、力弱い文体によつて酬いられねばならなかつたかといふことにあるだらう。
じかし、翻訳はひつきよう翻訳に過ぎない、自分じしんの文章ではない、それを二つ比較して日本の知識人の文章力が落ちたと断ずるのは軽率である、と考へる人もゐるかもしれない。<この章後略>
第2章
文語訳聖書が優れたものになった理由は、一応のところじつに簡単である。文語体で書かれているからだ。翻訳者たちは既成の型に寄りかかり、それを応用したり、発展させたりして、書<ことができた。っ謁り文語体は文体として確立してゐたのである。ところが、口語体は文体として確立してゐない。それはよりかかるベき既成の型を作り出してゐない。それ搬に、牧師たちが集つて聖書を改訳すれば、あのやうな悲惨なことになつてしまふのである。
では、口語体は文体としてなぜ確立されなかつたのか? 奇妙なことを言ふやうだが、第一に、「口語体」といふ名称に罪があつた。もし「現代文体」とでも命名されてゐたならば、事情はいささか違つてゐたかもしれぬとぼくは空想する。本来、「口語体」とは、「文語体」が文章語による文体といふ意味であるのに対して、口頭語による文体といふ気持で名づけられたものであつたらう。つまり、それはあくまでも丈体の一種であつたのだ。(「口語文」といふ名称の場合にも、事情はまつたく変らない。)だが、口語体の宣伝家たちは、それが文語体と異ることを力説するあまり、話し言葉をそのまま書き写せば文章になるといふふうに語つて、それが文体でなけれぱならぬといふ面を強調しなかつたらしい。あるいは、すくなくとも宣伝される側ではさう受取つたらしい。もちろん、新製品が誇大広告じみた商品名で売出されるのはありがちなことだらう。たとヘば、かつては「万年筆」がさうだつたし、今は「アンチ・ロマン」がさうだと言はねばならぬ。そして、あらゆるスローガンが勇ましく粗雑なのはある程度やむを得ぬことだとぼくも認めるけれども、 それにしても「口語体」といふ商品名は誇大広告に過ぎたし、「言文一致」といふスローガンはあまりにも勇ましくあまりにも粗雑であった。それらはやはり、現代文体が文体として成熟し完成することを大きく妨げたに相違ないのである。
かうして人々は、おしやベりをするときと同じ調子でだらだらと書くやうになつた。(ぼくは今、佐藤春夫の有名な「しゃべるゃうに書け」といふ説を非難してゐるのではない。佐藤はもつとずつと高級な文章技術について語つたのである。)しかし、人々がどんなにだらしない文章を書かうと、彼らが漠然と理解した口語体のたてまへから言ヘば、会話は文章の規範であり基準であるのだから、それでいつこう差支ヘないわけであつた。むしろそれは、極めて正しいことであつたとさへ言ひ得るかもしれない。
だが、このことはまた逆に会話の言葉に重大な影響を及ぼしたやうである。つまり、文章の言葉は会話の言葉を、規正も純化もしなかつた。本来ならば、会話は文章に荒ら荒らしい生命力を与ヘ、文章は会話に秩序と優雅とを贈るベきはずのものであらう。ちようど、地方と首都との関係のやうに。あるいはまた、生活と藝術との関係のやうに。
だが、そのやうな相互的な、あるいは可逆的な関係は、現代日本文明には存在しなかつた。現代の日本語は話言葉による専制的な支配の政体である。そこでは文章が会話に服従し屈伏してゐる。
ここまで来れば、口語訳聖書がなぜあのやうに情ない文体で書かれねばならなかつたかという第二の、しかしもっと根底的な、敢えて言えば真の理由うぃ述べることも可能であらう。それは、現代日本文明が、型ないし形を軽蔑し無視する文明であつたといふことである。さう、そのやうなものが文明の名に価するものならば。
<以下省略>
未来の日本語のために(発出;1974年)
第1章
昭和の知識人は明治の知識人にくらべて文章がずつと下手になつてゐる。いや、上手下手の問題ではなくて、文章を書く力が無残に低下してゐる。ぼくにはさう思はれてならない。そして、もしさうならば、これはじつに重大なことだらう。なぜなら、それは日本の文化の低下を意味するのだから。あるいは、日本の知識人の精神と感覚がわづか百年たらずのうちに急激に貧しくなつたことを示すのだから。
このことは国語問題と深い関係がある。あるいは、むしろ、このことは国語問題に新しい照朋を投げる。しかし、おほむねの場合、このやうな事情とその原因が無視されて単なる便、不便、単なる能率の問題として国語問題が論じられて来たことは、ぼくにははなはだ異様なことのやうに感じられる。
だが、こんなふうに話をはじめても判りにくいかもしれない。具体的に例をあげて、しかもできるだけ具体的に論ずることにしよう。
(1)文語訳聖書
空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや。 汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服裝この花の一つにも及かざりき。 今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。さらば何を食ひ、何を飮み、何を着んとて思ひ煩ふな。
(2)口語訳聖書
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
マ夕イ伝福音書第六章、二十六節から三十一節まての新旧二つの翻訳を並べてみた。この部分を選んだのは、人々に最も親しまれてゐる箇所といふ気持からであつて、他意はない。(1)は大正六年の聖書協会文語訳で、これは明治十三年の訳に手を入れたものである。(2)は昭和二十九年の聖書協会口語訳である。
一読して気がつくのは(2)の口語訳が極めて劣悪だといふことである。第一にそれは、読む者の心にイメージを思ひ浮ばせる力がない。「空の鳥」の話のときは、とつぜん「まくことも」と言はれても、何を「まく」のか読者には見当もつかない。布をまく? 舌をまく? それとも? 読者は途方に暮れるだらう。なぜならば、当然、「巻く」とクを高く発音するアクセントで読んでしまふからである。その読み方が間違つてゐたのではないかといふ疑惑は「刈ることも」のヘんでやうやく「倉に取りいれることも」に至つて誤りは明らかになる。そこでもういちど「空の鳥」に引返して読み直すわけなのだが、いつたん濁つてしまつたイメージはなかなか鮮やかなものになりにくい。読者の読解力に対するこのやうな過重な負担を避けるためには(1)のやうに「播かず」と漢字で書くか、「種を」と目的語を補ふか、あるいはさらに思ひ切つて「種まき」といふ言葉を使ふか、たぶんこの3つの解決策のうちの一つを選ぶべきであつたらう。そしてかういふイメージを喚起する力の不足は、単に「まくことも」の箇所だけに見られるものではない。それはいま引用した(2)の全文について、さらに口語訳聖書全体について言ひ得ることなのである。
もちろんこのことと深く関連しながらだが、第二に、(2)の訳文は論理的な明確さを欠いてゐる。たとえば、「彼ら」が「空の鳥」を受ける代名詞としてふさはしいかどうかは、かなり論議の余地があるだらう。普通の読者ならば、「彼ら」とはいった誰なのかと、しばらくの間きよろきよろ探さねばなるまいし、それが「空の鳥」を指すに相違ないとすばやく推測することができるのは、翻訳ものの探偵小説やノン・フィクションの悪訳に日頃ずいぶん親しんでゐる人々だけであらう。解決策としては「空の鳥」を「空の鳥たち」と複数形に改めるか、もしこの「鳥たち」といふ言葉が翻訳調に過ぎ、日本語として熟してゐない嫌ひがあるならば(1)と同様「これ」で受けるか、あるい代名詞を用ゐることをあきらめて「空の鳥」ないし「鳥」をもういちど繰返えすか、の三つのうちの一つを採るしかあるまい。また、「あなたがたのうち、だれが思いわずらつたからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」の箇所は、どうも文意が明らかでない。これは句読点の打ち方を改めて、「あなたがたのうち、だれが、思いわずらつたからとて自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」とすれば、それだけでもかなり意味の通じやすい文章になるはずである。
第三に、(2)は(1)に比べて格段に冗長である。口語体が文語体ほどに簡潔であり得ないのは、いわば宿命的欠陥だろうが、しかしそれにしても度が過ぎる。(2)の翻訳者たちはおそらく、 口語体のそのやうな弱点を一度も意識したことのない呑気な人々なのであろう。なぜならここには、文章の凝縮度を高めうようという努力の影さヘも見られないからである。たとえば「あなたがたの天の父」の「あなたがたの」は除いてもいつこう差支ヘない。「養つていて下さる」は「養って下さる」ないし「養つてくれる」にするほうがすつきりする。このような配慮の方法を知らず、また配慮の必要を感じなかつた人々が聖書翻訳の仕事にいそしむとき、イエスの言葉は、「きょうは生えて明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」といふやうな、イエスの口から断じて出るはずがない、平板で力点がなくて、たるみにたるんでゐる駄文と化してしまふのである。
第四に、これまで述べたことと密接に関連しながらだが、(2)の訳文は気品の高さをまったく欠いてゐて、文学的な力と香気が決定的に乏しい。たとヘば「それだのに」といふ一句ははなはだ耳ざはりで、不快である。「それなのに」といふ耳にこころよい言いまわしを訳者たちは知らないのであらうか? また、「しかしあなたがたに言うが」といふ語句は、二つの鼻濁音の「が」 があまりに近い位置にあつて口調が悪いし、そのことはなんとか我慢するとしても、この鋭い語句が効果的な力強さを失つてしまつてゐることはとうてい耐ヘられない。この箇所はむしろ「あなたがたに」を除き(一体に口語訳聖書は、「あなたがた」といふ二人称複数の人称代名詞をむやみに使ひ過ぎる傾向がある)、たとえば次のやうにでも改めるべきであろう。「しかしわたしは言おう。栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾つてはいなかつたのだ、と」
あげるべき欠点はまだ数多いし、朱を入れるべき個所は引用した全文がさうなのだが、煩にわたることを恐れてこれぐらゐにとどめる。とにかく大変な悪訳であり悪文である。先程ぼくは、探偵小説やノン・フィクションの悪訳のものになぞらヘたけれども、これはいささか当を失してゐるかもしれない。これほどの悪文で書かれた原稿を受取つたとき、編集者たちは必ずそれを突き返すに相違ないからである。世界の文明国のなかで、プロテスタントが、これほど馬鹿ばかしい文体で書かれた聖書を読ませられてゐる国が、さういくつもあるとはぼくには思へない。
だが、ぼくはこの文章を、口語訳聖書の悪口を言ふために書いてゐるのではない。それはただ、ぼくたちの時代における文体の衰弱の、極端な(しかしそれにしても極端すぎる!)一例としてあげられてゐるに過ぎないのである。ましてぼくは、聖書の口語訳など不必要であつたなどと言はうとしてゐるのでは決してない。おのおのの時代は、おのおのの時代の文体による翻訳聖書を欲する。当然のことだ。それが翻訳を待ちかまへてゐる宿命なのである。かつて『ハムレット』が坪内逍遙を必要としたやうに、今その戯曲は福田恒存を必要とする。明治において『復活』が内田魯庵を必要としたやうに、大正においてその長編小説は中村白葉を、そして昭和において原卓也を必要とする。あるいは、むしろ、それぞれの文体を必要とする。当然のことだ。まして明治以後の日本のキリスト教の最大の苦悩が、単に知識階級の宗教であるにとどまつて庶民ヘとまで至り得ないといふ事情であつてみれば、聖書の口語訳はいはば必至の事業だつたと言ひ得るだらう。問題は、その光栄ある事業が、なぜこのやうにみすぼらしく、貧しく、力弱い文体によつて酬いられねばならなかつたかといふことにあるだらう。
じかし、翻訳はひつきよう翻訳に過ぎない、自分じしんの文章ではない、それを二つ比較して日本の知識人の文章力が落ちたと断ずるのは軽率である、と考へる人もゐるかもしれない。<この章後略>
第2章
文語訳聖書が優れたものになった理由は、一応のところじつに簡単である。文語体で書かれているからだ。翻訳者たちは既成の型に寄りかかり、それを応用したり、発展させたりして、書<ことができた。っ謁り文語体は文体として確立してゐたのである。ところが、口語体は文体として確立してゐない。それはよりかかるベき既成の型を作り出してゐない。それ搬に、牧師たちが集つて聖書を改訳すれば、あのやうな悲惨なことになつてしまふのである。
では、口語体は文体としてなぜ確立されなかつたのか? 奇妙なことを言ふやうだが、第一に、「口語体」といふ名称に罪があつた。もし「現代文体」とでも命名されてゐたならば、事情はいささか違つてゐたかもしれぬとぼくは空想する。本来、「口語体」とは、「文語体」が文章語による文体といふ意味であるのに対して、口頭語による文体といふ気持で名づけられたものであつたらう。つまり、それはあくまでも丈体の一種であつたのだ。(「口語文」といふ名称の場合にも、事情はまつたく変らない。)だが、口語体の宣伝家たちは、それが文語体と異ることを力説するあまり、話し言葉をそのまま書き写せば文章になるといふふうに語つて、それが文体でなけれぱならぬといふ面を強調しなかつたらしい。あるいは、すくなくとも宣伝される側ではさう受取つたらしい。もちろん、新製品が誇大広告じみた商品名で売出されるのはありがちなことだらう。たとヘば、かつては「万年筆」がさうだつたし、今は「アンチ・ロマン」がさうだと言はねばならぬ。そして、あらゆるスローガンが勇ましく粗雑なのはある程度やむを得ぬことだとぼくも認めるけれども、 それにしても「口語体」といふ商品名は誇大広告に過ぎたし、「言文一致」といふスローガンはあまりにも勇ましくあまりにも粗雑であった。それらはやはり、現代文体が文体として成熟し完成することを大きく妨げたに相違ないのである。
かうして人々は、おしやベりをするときと同じ調子でだらだらと書くやうになつた。(ぼくは今、佐藤春夫の有名な「しゃべるゃうに書け」といふ説を非難してゐるのではない。佐藤はもつとずつと高級な文章技術について語つたのである。)しかし、人々がどんなにだらしない文章を書かうと、彼らが漠然と理解した口語体のたてまへから言ヘば、会話は文章の規範であり基準であるのだから、それでいつこう差支ヘないわけであつた。むしろそれは、極めて正しいことであつたとさへ言ひ得るかもしれない。
だが、このことはまた逆に会話の言葉に重大な影響を及ぼしたやうである。つまり、文章の言葉は会話の言葉を、規正も純化もしなかつた。本来ならば、会話は文章に荒ら荒らしい生命力を与ヘ、文章は会話に秩序と優雅とを贈るベきはずのものであらう。ちようど、地方と首都との関係のやうに。あるいはまた、生活と藝術との関係のやうに。
だが、そのやうな相互的な、あるいは可逆的な関係は、現代日本文明には存在しなかつた。現代の日本語は話言葉による専制的な支配の政体である。そこでは文章が会話に服従し屈伏してゐる。
ここまで来れば、口語訳聖書がなぜあのやうに情ない文体で書かれねばならなかつたかという第二の、しかしもっと根底的な、敢えて言えば真の理由うぃ述べることも可能であらう。それは、現代日本文明が、型ないし形を軽蔑し無視する文明であつたといふことである。さう、そのやうなものが文明の名に価するものならば。
<以下省略>