ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

講話「祈祷書と特祷について」

2016-12-08 16:59:38 | 講演
(1989年4月に聖アグネス教会から大和伝道区の西大和聖ペテロ教会に転勤になって、最初の信徒修養会にて)

大和伝道区修養会講話 「祈祷書と特祷について」

本日は、あまりにも当たり前すぎて改めて考えることもない「祈祷書と特祷」についてご一緒に学びたい。まず始めに今週の主日(復活節第6主日)の特祷を読む。

全能の神よ、罪人の制御できない心を治められる方はあなたのほかにありません。どうかわたしたちに、主の戒めを喜び、主の約束を慕う恵みを与え、移り変わりの多いこの世において、常に心を変わることのない喜びに置くことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。

1.聖公会と祈り
10年ほど前、私は聖公会の特徴を「限りなく透明に近いブルー」という言葉で表現したことがある。この言葉は昭和51年の芥川賞を授賞した村上龍の書名である。当時ロッキード事件でピーナッツを食べたと疑われた政府高官を「限りなく黒に近い灰色」などともじって流行したこともある。
聖公会が「限りなく透明に近いブルー」であるという意味は、遠くから聖公会を見るとはっきりとその特徴が見えるが、そばに近づけば近ずくほど、その特徴は見えなくなる。それは、ちょうど地球の3分の1を占める大海の海の色が空高い上空から見ると真っ青な色をしているが、その一滴一滴の水はあくまでも透明であるということを示している。聖公会の特徴は一言で言うと、まさにその様なもので、他の教派と比較してみるとそのその特徴は明白であるが、近づいて聖公会の信仰の内容を見ると、例えば4綱憲というものを細かく検討すると、それは聖公会の特徴というよりも、キリスト教そのものに他ならないのである。その意味では聖公会とは特別な主張とか神学とかがない。むしろ無特徴ということを特徴とすると言える。

註:日本聖公会の「綱憲」
日本聖公会は全世界の聖公会と共に次の聖公会綱憲を遵奉する。
第1 旧約及び新約の聖書を受け、之を神の啓示にして救を得る要道を悉く載せたるものと信ずる。
第2 ニケヤ信経及び使徒信経に示されたる信仰の道を公認する。
第3 主イエス・キリストの命じ給うた教理を説き、其の自ら立て給うた洗礼及び聖餐の2聖奠を行い、且つその訓誡を遵奉する。
第4 使徒時代より継紹したる主教(エピスコポ)、司祭(プレスプテロ)、執事(デアコノ)の3聖職位を確守する。


2.聖公会の祈祷書
そのことを、具体的に示しているのが祈祷書とその中の祈りである。聖公会の礼拝では「祈祷書」で祈る。それはレッキとした特徴である。この「祈祷書」というものが聖公会以外の人々にはなかなか理解出来ない。キリスト教書店などではいろいろな「祈祷集」が並べられている。しかし祈祷書における祈りの内容は個人的な祈りとか、特別なときに祈るというような特殊なものではなく、個性というものを極力押さえたものであることを目指す。祈祷書という言葉の英語の意味は「 The Book of Common Prayer 」と言う。意味は「皆の祈り」あるいは「共通の祈り」という意味である。つまり、これは何か特殊な人々の「祈り集」とか、例えそれが宗教的天才であったり、また優れた神学者や教会の指導者の祈りを集めて、編集した「祈祷集」ではない。人間が人間であるということにより、その心の中に自覚的にせよ、無自覚的にせよ持っている祈り、民族や階級、学識や職業、教養や育ち、真面目であるとかチャランポランであるとか、信仰者であるとか、無神論者であるとかというような、あらゆる条件とは全く関係なく、人間が人間であるというそのことによって、心の中に秘かに、あるいは明確に持っている「共通の祈り」であるということを意味している。それらの「共通の祈りを」教会の暦に合わせて配列したのが、聖公会の「祈祷書」なのである。

3.祈祷書の特祷の構造
ところで、その祈りの内容は基本的に二つの部分に分けられる。例えば、今週の特祷で言うと、「罪人の制御できない心を治められるかたはあなたのほかにはありません」という部分である。ここは狭い意味では祈りではない。ただ事実を事実として述べているだけである。「本日は晴天なり」とか、「学生は勉強する」とか、「親は子供を育てる」とか、「全ての良きものは神から与えられる」とか、「神は愛なり」とか、要するに、それは事実関係の確認ということである。時には、この部分で祈る者と祈りの相手との関係が確認される。この基本的関係に基づいて、「どうか」「願わくは」という祈りの言葉が導かれる。本日の言葉でいうと、「どうかわたしたちに、主の戒めを喜び、主の約束を慕う恵を与え、移り変わりの多いこの世において、常に心を変わることのない喜びに置くことができますように」という部分である。祈祷書の中の祈りのほとんどがこのような構造をもっている。ぜひ祈祷書の中の祈りを一つ一つ、丁寧に学び、味わい、私たちが意識しないで持っている祈りを、自覚の地平線に呼び起こしていただきたい。その時にこれらの祈りが本当に自分のものとなる。

4.本日の特祷(復活節第6主日)

さて本日の特祷は事実として「罪人の制御できない心を治められるかたはあなたのほかにありません」ということが確認されている。私たちはこのことを事実として確認することが出来るだろうか。ここでいう「罪人」とは私自身のことである。そして私が罪人であるということの実態は「私の心を制御できない」ということである。自分で自分の心を制御できない。英語の祈祷書では、「 The unruly wills 」となっている。ブレーキとハンドルの壊れた自動車で坂を降るようなものである。自分自身でどうにもならない状態である。しかもそれが特別な状態ではなく、常に私たち人間の置かれている状態であり、これを秩序付けることの出来るのは神だけだということがここで確認される。

5.そこから3つの願いが生まれる
① 秩序のある生活
② 目標のある人生
③ 喜びの日々
「秩序ある生活」とは必ずしも形にはまった堅苦しい生き方を意味しない。要するに生活のルールの問題である。ルールがあってこそ生活に意味が出て来る。人間は「人生には目標」がはっきりしてこそ、どんなに苦しくても、辛くても耐えれるのである。
しかし本当の問題はこれらの願いが聞かれ、それらが与えられた時にそれを本当に「喜ぶ」ことができるのかということである。ルールが与えられても、それを実行する気がなければ何にもならない。むしろ私たちの心の中にはルールを破り、でたらめに生きたいという気持ちもある。必ずしもそれを願っているわけではなくても、それを楽しんでいるところがある。罪は悪いことであるということは分かっていても、同時にそれはまた楽しいものでもある。罪には「遊び」の要素がある。

6.むすび
しかし、その楽しさは「本当の楽しさ」が分からない時の「はかない楽しさ」である。愛し合う楽しさ、喜びを経験したことのない人は、愛し合う代わりに憎しみ合います。私たちは愛の言葉をかけることができないとき、愛の言葉の代わりに悪口を言ったり、意地悪をいたします。しかし、愛がその場所を支配し、愛し合う喜びが体験されるとき、もう憎しみも、悪口も消えていく。本当の喜びが現われるとき、偽りの喜びは色あせる。
従って、この祈りは「移り変わりの多いこの世において、常に心を変わることのない喜びに置くことができますように」という祈りの言葉に結晶いたします。この部分は文語の祈祷書の言葉の方がピンときます。「このはかなき世におるも、常に心をまことの喜びのある所に置くことを得させたまえ」。真の喜びが支配するところ、それは喜びの共同体としての教会に他ならない。(1989.4.29)

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