ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

教会生活を楽しく(神戸教区山陽伝道区信徒研修会)

1999-10-09 16:16:09 | 講演
神戸教区山陽伝道区信徒研修会(1999.10.9)  ホテル・タテイシ

○テーマについて「教会生活を楽しく」
電話で聞いたテーマは「楽しい信仰生活」
「信仰生活」と「教会生活」 切り離すことはできないが、一応別のもの
「教会生活を楽しく」というテーマは、「するためにどうすればよいか」あるいは「するための工夫」とか「するための秘訣」とかいう言葉に続くように思う。その前提に「楽しくない」という現実があるのではないか。本当に教会生活が楽しければ、こういうテーマは出てこない。
そこで、わたしたちは大問題にぶっつかる。「教会生活は楽しくなければならないのか。」この問題は本日の修養会の雰囲気にふさわしくないので、これ以上突っ込まないが、教会の本質を考える場合に避けられない問題である。もう少し、具体的な問題としてこのことを考える場合に、「教会生活を楽しくさせていない諸問題を取り上げ、その一つ一つを解決するということが考えられるが、これもまた大問題で、一つ一つの教会において問題が異なり、またそこでの人間関係と深く関係するので、この場所で取り上げるのにはふさわしくない。
ただ一つ、ここで共に考えることができるであろう問題は「どういう時に教会生活を楽しいと感じるのか」ということであろう。つまり、「教会生活の楽しさとは何か」という問題である。さらに言いかえると「毎週日曜日に教会に行きたくなる気持ち」の問題である。(義務や義理ではなく)

○「楽しさ」とは理屈ではない。事実楽しくなくては「楽しい」とは言えない。ところが、楽しさには個人差がある。「教会生活は楽しいですよ」といくらわたしが強調しても、またいくら理路整然とその楽しさを語っても、一つも楽しくならない。
今日は、何かひとつ教会生活を楽しくするヒントを得てもらえばそれで満足です。そのためには、まず今日の話そのものが楽しくなければならないと思う。
教会生活で、ほぼ大多数の人が共通して楽しさを得るもの、それが歌である。今日の最低の一つのお土産として、楽しい歌を紹介する。「楽しい」という字は「音楽」の「楽」から生まれた字であると言われている。

「主イエスの名によって、祈りは聞かれる」(私自身でオルガンを弾いて、みんなで歌う。)


○「楽しむ」ということを語る場合,わたし自身のことを語らざるを得ない。わたし自身が教会生活を楽しんでいなければ、聞いている人、あるいはわたし自身が牧師として教会生活を分かち合っている人々が楽しいはずがないからである。もっとも、わたし自身が楽しんでいるとしても、少しも楽しくない人はいるかもしれないが。
○話はすこしずれるかもしれないが、わたしは一度も教会を離れたいとか、離れるかもしれないということを考えたことがない。今年で牧会に出てちょうど40年になるが、その間11年間は牧会を離れ、信徒として生活したことがある(日本クリスチャンアカデミーの主事として働いた期間)。もともと、わたしは日本ホーリネス教団の牧師の家庭で育ち、その教団の牧師になったのであるが、考えることがあって牧会を離れた。その間、とても淋しく、いろいろな教会を訪ね歩いた。そして、聖公会と出会い、聖公会の信徒となった。聖公会の信徒として教会生活を送ったのは正式には3年ほどであったが、2年目には教会委員に選ばれ、3年目には教区会の代議員になってしまった。その時、わたしはとてもうれしく思い、その秋に開かれる教区会がとても楽しみであった。ところが、当時の京都教区の主教や司祭たちが寄ってたかってわたしを何とか聖職にしようと画策をした。わたしは信徒で十分楽しいし、本音を言うと「とても気楽で」、聖職になることが「とても煩わしく」思っていた。しかし、とうとう半分は騙されて、そしてもう半分は、やっぱり牧師になりたくて、聖職候補生志願を提出してしまいました。その時、何よりも残念であったのは「教区会に出られない」ということだったことを今でも鮮明に覚えている。

○信徒として過ごした11年間の思いでは、日曜日の朝、礼拝をサボることが何となく新鮮で、楽しみでした。その時でも、わたしは3回以上連続して礼拝を休むということはありませんでした。

○聖公会の信徒となって非常にショックなことがありました。それは教会委員、しかも聖公会で代表的な信徒であると多くの人から尊敬され、教区の常置委員を歴任された方が、礼拝を休んでも、平気で教会委員会にはかならず、出席されることでした。その時、すでに日曜日の朝、礼拝を休むことの楽しさを味わっていた、わたしは理解できると同時に、聖公会って凄いと感激いたしました。

○それと、もう一つ驚いたことは信徒たちの月約献金の額が非常に少ないということでした。大の大人が、しかも社会的地位も結構高い人たちが、学生程度の月約献金しかしていないということです。わたしが驚いたの、それでも教会がやっていけるということでした。現在のわたしは教区の総務局長という立場から見ると、決してやっいけてないということを承知していますが、その当時のわたしにはそれも感心する一つのことでした。

○ついでに申し上げますが、聖公会に移ってから今日まで、我が家の月約献金の額は常にその教会のトップクラスに属しています。それはわたしもそうですが、家内ももともとホーリネスの信徒でしたから、献金といえば、それは什一献金を意味していますので、それ以下の献金ですと、何か悪いことをしているような気がいたします。もっとも、だんだんと社会の経済機構がわかってきてから、什一献金というものが聖書的に見ても必ずしも正しいとは思っていませんし、現在什一献金をしているわけではありませんが、子どものときから培われた献金への思いは今も消えていません。実は、この献金ということが教会生活を楽しむ一つのコツで、わたし自身は、「神を試みてもよい、ただ一つの例外」だと思っています。(マラキ書3:10)「わたしの記憶しているところでは」、献金をしすぎて食べられなくなったとか、損をしたということは一度もありません。この我が家の伝統は息子や娘にも受け継がれているようで、彼らはどこの教会に行ってもそこの教会の献金競争では常にトップグループに属しているようです。息子は現在ある教区のある小さな教会に属していますが、どうもそこの教会の牧師と折り合いが悪く、仕事も忙しいということで、せっかく教会委員に選ばれたのに辞退し、ここ半年ほど教会の礼拝をサボっているようですが、この夏一緒に旅行をしたとき、「月約献金だけは絶対に減らすな」と言いましたところ、それだけは絶対にしない、と言っておりました。彼も彼なりに教会生活を楽しんでいるようです。

○「喜怒哀楽」という言葉があります。広辞苑によりますと、「喜びと怒りと、悲しみと楽しみ。さまざまな人間の感情」と説明されています。しかし、これら4つの感情というものを考えてみますと、「楽しみ」という言葉は「喜び」という言葉とほとんど同意語のように見えます。それはそれでいいと思いますが、「教会生活を楽しむ」という場合の「楽しみ」という言葉の意味は他の3つの言葉と並列にすることができないような深みがあるように思います。つまり、深い意味の「楽しみ」という言葉は「喜びを楽しむ」、「怒りを楽しむ」、「悲しみを楽しむ」というように、人間の感情に基づきながら、その感情を貫き、下から支えるような「根源的な感情」というものであろうかと思います。聖書の言葉でいうと、主イエスが最後の晩餐の席で弟子たちに語られた、「今はあなた方は悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない」(John.16:22)
この場合の「喜び」とは通常の感情的な「喜び」とは次元の異なる「根源的な喜び」です。それと同様に「教会生活における楽しみ」は、「喜びを楽しみ、怒りを楽しみ、悲しさを楽しむ」ものであろうかと思います。直ぐに話が哲学的になって申し訳ありません。わたしが言いたいことは「教会生活での楽しみとは」「喜びを楽しみ、怒りを楽しみ、悲しさを楽しめる」ものでなくてはならないということです。そのための秘訣は、「心の余裕」ということで、心に余裕がないと、喜びや怒りや悲しみに心が奪われて、少なくとその時は「教会生活を楽しんでいない」と思うわけです。「楽しい」という言葉は「楽(らく)」という意味でもあります。「楽でないと」心に余裕は出てきません。逆に、心に余裕がないと「楽ではないし」「楽しむこと」ができません。掟や義理や見栄にとらわれているとき、無理があり、楽ではないし、「楽しむこと」などもっての他です。

○「心の余裕(ゆとり)」ということについて
「心の余裕」ということは、分りやすく言うと、ハンドルの「遊び」のようなもことで、運転する人は誰でもご存知のように、ハンドルには「遊び」というものがあり、これがあるから安全な運転ができるのだし、運転そのものがスムーズになされます。それは車輪とハンドルとの間にあるスキマであり、要するにスペース(空間)です。心の余裕とは、事柄、あるいは人間と人間との間にある空間で、これがないと、自分と他人とは完全に一体化してしまい、自分自身の自由というものが完全になくなってしまいます。信仰者にとって、特に教会生活において、わたしはそのスペースが非常に大切だと思います。大切というより、むしろそれこそが信仰の恵みそのものだと思っています。そこが神が働く「聖なる空間」、「神のスペース」である。

結び
○「楽しい」という気持ちは、一人一人異なり、それがその人自身の持ち味であり、他人から見るとあんなにつまらないことをなぜ彼は楽しいのか理解できない。ある意味でそれは趣味の問題である。例えば、「他人の不幸は蜜の味」ということわざがある。他人が苦しんでいるのを見ると楽しくなる、いやな性格であるが、大なり小なりこういう気持ちはわたしにもあることを否定できない。

○聖書の中に「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」(Rom.12:15〕という言葉があるが、これはわたし自身が目標とし、願いとしている言葉である。これこそ信仰者の理想であろうと思う。この言葉はわたしたち自身に対して語られている言葉であるが、本日のテーマに即して言うと、教会に行けばこういう「信仰の友」がいる、ということ、それこそが教会生活の楽しさであろう。そういう友と会いたい、語りたい、共に祈りたいということ、それに尽きると思う。

○たとえ、あなたの属している教会に誰一人あなたと共に泣き、喜ぶ人がいなくても、あなた自身が誰か他の人の「共に泣き、共に喜ぶ人」になれる。あなた自身が、その人にとって「教会生活を楽しむ」原因になれる。わたしたちはややともすると、わたし自身が「教会生活を楽しむこと」に思いをはせすぎている。むしろ、あなた自身が誰か他の信仰の友になり、教会生活を楽しむ友人になることを考えることが大切ではないだろうか。

○教会生活を楽しくするヒント
①教会生活に完全を求めない。「いいかげんさ」が大切。
②教会の問題を自分一人で抱えこまない。自分が手抜きしても何とかなるものだ。
③礼拝出席に無理をしない。たまには休んでもいいではないか。「楽しさ」とは「楽」である。

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