ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

1977年大斎講話 「今日に生きる聖公会」

1977-03-23 19:43:32 | 講演
日本聖公会京都教区京都伝道区大斎集会 1977年3月23日(水) 京都聖三一教会にて

大斎講話「今日に生きる聖公会」

1. 教会の交わりの中で生きること(自己紹介を兼ねて)
私にとって教会の交わりは空気のようなもので、それなしには生きることができない切実なものである。普段は誰も空気を意識しないで生きているが、空気の薄いところや、悪い空気の場所にいると空気の重要性に気がつく。私も教会の交わりについて特に意識をしないうちは、それほど切実なものとは自覚していたわけではないが、成人するに従って自分が属する教会の交わりというものを客観的に見るようになり、生きていく中での教会の交わりということを自覚的に考えるようになると、それが切実な問題であることに気がつくようになった。
私の両親は熱心なホーリネス教会の信徒である。熱心さで有名なホーリネス教会という名の上に、両親にはさらに「熱心な」という形容詞がつくほどで、そのような熱烈な信仰の環境の中で育ち、私が中学生の頃には両親は家庭を解放して伝道を始め、高校生の頃には教会になり、とうとう両親ともに正式な伝道者になってしまいました。誤解されると困るので断っておくが、この熱心さは決して「熱狂」ではない。むしろ両親とも常識的過ぎるくらい常識的で経済的にも文化的にも家庭生活の健全さを非常に重視していた。両親たちにとって重要なことは家庭を破壊したり犠牲にしたりすることではなく、自分たちが受けた恵みを家庭内にとどめないで、文字通り、「家庭を解放して」隣人たちと福音の恵みを分かち合うことであった。
私も高校を卒業すると神学校で学び、3年間の勉学を経て日本ホーリネス教団の牧師になり、大阪の両親の教会の副牧師として派遣された。牧会のかたわら、さらに神学の勉強を続けるために神戸の改革派神学校(カルヴァン系) でl年間聴講し、さらに関西学院大学神学部で大学院まで7年間、聖書と神学を学んだ。これらの牧会と神学の学びを通して教会の交わりの切実さを深く自覚するようになった。教会の交わりとは何か、いかなる教会が真の教会という名に値するのか、私自身と私が責任を負う家庭がいかなる教会に所属して生き、主イエス・キリストを証ししていくのかということは、私の神学的実存をかけた切実な間題となり、この間題の前では私自身が職業として牧師であるか否かということさえも2次的な間題となった。いろいろな家族関係の間題や経済的な問題等、克服すべき困難はあったが、結論として一昨年末(1975年)日本ホーリネス教団の牧師を辞職して、日本聖公会の信徒として生きることを決断するに至った。そして翌、1976年1月1日付で京都聖三一教会の信徒になった。

2. 聖公会の魅力
今晩の主題である「今日に生きる聖公会」とも関係があるので、私が日本聖公会のどこに魅力を感じたのか、なぜ日本聖公会なのかということを少し明らかにしておきたいと思う。
まず、基本的には私は歴史上のいわゆる「目に見える教会」で完全な教会はあり得ないと考えている。本質的には教会ではないにもかかわらず、「教会」と称してしいる諸集団を別にしても、全ての教会は不完全であり、過ちを犯し、欠点をもっている。従って教会は常に新しくされ、改革される必要がある(1コンリント4:16)。それにもかかわらず、それが真にキリストの教会であり得るのは、ただそれがキリストが建てられた「あの教会」、つまり私たちが主日毎に唱えているニケヤ信経の中で告白されている「使徒たちよりの唯一の聖公会」との関わりにおいてである。その意味からも私たちが所属している教会とキリストによって建てられた「使徒たちよりの唯一の聖なる公同の教会」とを混同してはならない。
本日は時間の制約もあり、この複雑な論議はこれ以上深入りせずに、私が日本聖公会に魅力を感じる2つの点だけを取り上げ、ごく簡単にまとめたいと思う。
私は昨年9月に比叡山で開催された京都教区信徒伝道協議会での発題で、日本聖公会を色にたとえると「限りなく透明に近いブルー」であるという、今流行りの詩的表現を用いさせていただいた。(参照:1976年度芥川賞受賞作品、村上龍『限りなく透明に近いブルー』)
ここでは、2つのことが重要である。第1に、「限りなく透明に近い」ということである。つまり、歴史的に具体的な教会、欠点が多く、また多くの間題を抱え、常に過ちを犯す教会であっても、その教会を通してしか、あの「聖なる公同の教会」を現実に透視させることはできないということである。つまり教会の本質的評価基準は、その「透明度」にある。その意味で聖公会は「限りなく透明に近い」と思っている。もっとも透明度ということだけを観念的に考えるならば、新約聖書時代の原始教会が最も透明なはずであると考えられるが、いくら現在、新約聖書を厳密に研究し、そのままを現実化しようとしても不可能なことである。さらに重要なことは、そのような考え方自体が教会の本質をわきまえない一面的なものである。
そこで、もう一つの重要なことは「ブルー」という言葉で表現される。この「ブルー」は決して一つの色としてのブルーではない。深い海を高い空から見たときに感じる「あのブルー」である。つまり本当には無色透明でありながら、それが厚みを持つことによってブルーに見えるという「ブルー」である。現代の教会は 2000年という長い人類の歴史の一齣一齣一を通して、あの「聖なる公同の教会」を透視するといことの重み、これが「ブルー」である。永遠の神は教会の全ての歴史におい働いておられるのであって、教会の創立のときだけ働き、あとは神が働かない人間の歴史だけであるというのではない。信仰によって現代と2000年前の時代とが瞬間に飛び越えて私はイエスの弟子になるのではなく、新約聖書の世界でも、また現在も、まったく同様に働いておられる神に、つまり主イエス・キリストに出会い、彼の弟子となるのである。聖公会はこのことを非常に重視しているのである。

3. 今日に生きる聖公会
さて本日のテーマは「今日に生きる聖公会」である。私はこのことについて 3つの点で考えたいと思う。
第1は、「今日に生きる聖公会」ということの「生きる」という意味であり。つまり「イエスと弟子たちとの交わり」に端を発した教会という生命体が「生きている」というとき、そのすベての歴史のプロセスでも生きていたということを前提とする。生命体は死んだり生きたりしない。先ほど述べたように、この歴史のプロセスを抜きにして「原始教会に帰れ」という掛け声は教会を観念化する。観念化された教会は生きてはいない。
さて、第2の点は「今日に生きる」ということの「今日」ということの自覚の問題である。このことについては英国における聖公会、つまりアングリカニズムは時代の要請と民族意識の自覚から生まれたという事実をもっと誇りにしてもよいと思う。アングリカニズムと日本聖公会との関係は、私はまだ十分に理解していないが、少なくとも聖公会に転入して不思議に思うことの一つは、聖職者も信徒も含めて、このアングリカニズムの自覚が思ったより少ないことである。アングリカニズムが持っている間題意識、つまり教会の最終的権威の所在の間題、政治と教会の間題、教会と民族性の間題など、そしてそれらの間題に対する答えとしての「コンセンサスの原理(同意の原理) 、それを支えるコモンセンス(共通意識)、またアングリカニズムが生み出したコモンプレィヤー(祈構書)」 等は、当時においてもまた現代においても、まさに「今日的課題」である。たとえば政教分離という近代の政治原理にしても、私たちはそう単純に肯定できるのだろうか、再検討の必要がある。民主主義の原理に従って現実の政治を支える国民の一人一人は、人間の本質から考えて、宗教的な支えなしにはあり得ない人間であり、従ってその国民意識を形成し統一する精神的基盤は宗教を除いてはあり得ない。むしろ宗教というものを「プライベート・マター(私の私的関心) ヘと矮小化し、押し込めてしまって、政治を宗教から自由にしてしまったところに現代社会の間題が潜んでいるのではないだろうか。近代民主主義が成立したときに、考えられていた「政教分離」の原則はそれとは逆のことであって宗教に対して政治が干渉してはならないという原理であったと言われている(A.D.リンゼイ・永岡訳「民主主義の本質」、未来社、182頁)。このように政教分離の原則における理解の逆転が起こったのは、英国における民主主義の発達より国民の民主化がかなり遅れていたドイツにおけるマルチン・ルターの「二王国説」の影響によるものであると思われる。英国国教会が成立した16世紀の英国においてはまさに教会が英国を支え、政治に干渉はするが、政治は教会に干渉しないといことが可能であった非常に珍しい状況であった。英国国王を支持し、また同時に国王を「教会の首長」とするというようなことができたのは、国王と教会とを同時に支える国民的コンセンサス(同意) に基いていたのであった。この国民的コンセンサス(Nationa1Consensus)を教会の権威の最終的根拠とすることによって英国国教会はローマ教皇の権威から自由になることができたのである。
さて、この国民的コンセンサスということをもう少し掘り下げて考えてみたいと思う。これは決して統治者によって操作され形成されるような、いわゆる「世論」 というようなものではなく、国王を含めて一人一人の国民が、人間として、ただ人間である限り持っている、否、神より付与されている良識、理性の総体(全体)が、民主的手続きを通して、国民的意志決定の場で表現されたものである。そして、そこまで定型化しない状態にとどまっているものがコモンセンスと呼ばれているように思われる。つまり、このような考え方の背景には一つの明確な人間理解が潜んでいる。全ての人間は教養や経済力や、男女差によって区別されることなく、ただ人間であることによって、神から「センス」、つまり「思慮・分別」を与えられているという理解である。この「センス」 という意味を今日のように「センスがあるとか、ないとか」というような意味で理解したり、「感覚」というように理解してはならない。また、ドイツ流の「理性」といいうように考えても誤解してしまう。むしろ、私たち日本人にとって理解しやすい言葉は「あいつは人間ができている」というときの「人間ということ」に基づく「判断」ということに近いと思う。このような「センス」が全ての人間に差別なく与えられており、その「共通の判断」がコンセンサスである。
さて、以上のことを踏まえて英国人が「コモン」という言葉を用いるときに感じている意味は、「人間が人間である限り持っている共通のもの」という意味が込められているように思う。それは哲学的な普遍性という観念ではなく、もっと現実的な事柄を指し示している。そこに英国人が祈祷書のことを「コモンフ°レイヤー(Common Prayer)」 と呼ぶ意味があるように思う。まさに祈祷書は私たちができる「理想的な祈り」とか、祈りのモデルというようなものではなく、「人間がただ人間であるという事実において共通に持っている祈り」を意味している。当時の英国の状況を考えても、また祈祷書作成のプロセスを考えても、それはローマ・カトリツク教会とかプロテスタント教会という「教会の枠」を超えて人類に共通の祈りというものを目指していたことは明白である。これらのことについて、つまりアングリカニズムについての現代における再評価ということは決して好古趣味ではない今日的課題である。
第3点として、私がみなさん方と一緒に考えたい課題は「生き生きと生きる」ということである。日本聖公会が今日生きていかるかどうかという議論は重要ではあるが、それは患者を前にして医者が議論をしているようなもので日本聖公会に属する信徒一人一人にとっては、あまり意味のある議論とは思われない。むしろ、私たちにとっては植物人間のように生きているのか、死んでいるのか分らない状況の中で、生きていると宣言されてもあまり意味がのであって、重要なことは「生き生きと生きている」ということである。その生命力、活動力、ヴァイタリテイーが間題である。その生命力の源泉を私たちはどこに求めるベきなのか。どこから得ているのかということが重要課題である。そのことについては、原始教会以来、常に教会での課題であった。新約聖書の中でも、そのことについて非常に興味深いヤリトリがヨハネ福音書第6章に見られる。この部分は5つのパンと2匹の魚とで5O0O人の人々が満腹したという出来事に始まり、続いて海上を歩かれたイエスの奇跡物語が述ベられている。この部分で浮かぴ上がってくるイメージは非常に活動的なイエスの姿と困難な状況に直面すると直ぐに駄目になってしまう弟子たちの姿とのコントラストである。その2つの奇跡物語に続いて「天よりのパン」についての議論が展開する。6章全体の文脈を通常の文章の論理で読もうとすると、何を言おうとしているのか分からなくなるが、イエスを信じる者たちが、どこからその活動のエネルギーを獲得するのかという視点から、言葉の順序を追うのではなく、読む者の間題意識の展開に即して、そのイメージを追うようにして読むと、言おうとしてることが明瞭になってくる。6章1節からl4節までは大斎節第4主日、つまり今週の主日の福音書で読まれたところである(このテキストは古い祈祷書による)。
さて、この部分で述ベられている「永遠の生命」という言葉の意味内容を「信徒がこの世において生き生きと生きる生命」と理解すると、ここでの複雑な議論の結論は、聖養式において受けるパンとワイン、つまり主イエス・キリストの肉と血とが、天よりのパンであり、私たちの生命の源であるということがハツキリと語られている。「イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食ベず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食ベ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食ベ、 わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。 』(∃ハネ6:53-55)」。
しかし、このイエスの言葉は多くの人々にとって「つまづき」となった。イエスの弟子たちの間にさえ、「つまづく者」が多くあったと記されている(同上66節)。しかしシモン・ペテロは「主よ、わたしたちは誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉を持っているのあなただけです」と答えている。これはぺテロを土台とする教会の告白である。私たちが今の時代において生き生きと生きる秘密は、正確には生き生きと生きている秘密は聖養式に与かり、主イエス・キリストの肉と血を食することにあるのである。この事実に「つまづかない者」は幸いである。なぜなら、そこにしか永遠の命の言葉はないからである。ここに日本聖公会が聖餐式を異常にまで重視している理由がある。
しかし、この部分から読み取らねばならないもう一つの重要なメツセージがある。それは聖餐式のパンを「ただ単なるパン」、せいぜい「聖なるパン」として食する者もいるということである。たとえそうだったとしても聖餐式に与かるということは私たちの主観的判断を超えて、私たちが神に属する者であるという事実には変わりはないが、問題は困難な状況に直面したときに、それを乗り越えていく信仰の生命力とすることができるのかどうかである。困難に直面している隣人を見たときに、その隣人のために「一肌脱ぐ」 力があるかどうか。社会的に差別され、虐げられている人々と共に、その重荷を担う勇気があるかどうか。言い換えると、イエスが生られたように、私たちも生き生きと生きることができるのかどうか、ということである。そして、その秘密は私たちが聖餐式に与かるときの、私たち自身の姿勢の問題なのである。63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また生命である」というイエスの言葉があが、実はここで霊と言葉とパンとが結び付けられていることに秘密があると思う。そこに聖餐式における説教の重要性がある。
今年の大斎節において霊と言葉とパンの3つが結び付けられている秘密を悟りたいと願っている。そして、そのこと以外にわたしたちにとって「永遠の命の言葉 はないのである。使徒ペテロと共に私たちも次のように告白したいと思う。
「主よ、わたしたちは誰のところに行きましよう。永遠の命の言葉をもっているのはあなただけです」。

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