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C.S.ルイス『悪魔の手紙』解説 2/4(第11信〜第18信)

2016-09-29 17:06:04 | 雑文
C.S.ルイス『悪魔の手紙』解説2(第11信〜第18信)

第11信

ここでは、これまでと少し視点が変わって、「人間の笑い」について論じられる。 いつものように老獪な悪魔は新米の悪魔にベテランらしく説教を始める。


俺は人間の笑い(laughters)の原因を、「喜び(Joy)」、「愉快(Fun)」、「本当の冗談(the Joke Proper)」、「いたずら(Flippancy)」の4つに分けて考えている。
第1の「喜び(Joy)」は、暫くぶりに会った友人たちが見せる喜びで、これには軽いジョークが伴うこともある。その様子を見ていると、ジョークが喜びの原因ではないことは明らかである。本当の原因が何であるのか、われわれには分からない。それと似たものが、人間どもが音楽と呼んでいる、あのいまわしい芸術においてもしばしば見られる。またそれと似たものが天国でも起こるらしい。われわれには理解不能の「あの天上的経験のリズムの無意味な加速」である。
<註:悪魔たちが何を意味しているのか分からない。ヒョッとすると、天使たちが歌う「聖なる、聖なる、聖なるかな」かもしれない。参照:イザヤ6:3>

こういう「喜び」はいっこうわれわれの役には立たないから、常にひとこと水をさしてやる必要がある。おまけに、こういう現象そのものが嫌らしくて、地獄の現実主義、威厳、謹厳への直接的侮辱だ。
<註:悪魔たちは音楽が嫌いらしい。>

第2の「愉快(Fun)」は第1の「喜び」と密接に関係している。
<註:これを「おかしみ」と訳してしまうと文脈が通じない。悪魔たちはこれを「遊戯本能から起こる一種の感情のあぶく」だと定義づけている。>

この「愉快」の利用方法としては敵が望むことから、人間どもの気をそらせるのに有効かな、という程度だ。しかし、この「愉快であること」は、本質的に不愉快な性質を持っている。それは、慈愛、勇気、満足その他の諸悪を促進するということだ。
以上の2つに比べると第3の「本来の冗談(the Joke Proper)」はなかなか有効である。これは「ユーモア」とも呼ぶ。俺は下品で、猥褻なユーモアのことを言っているんじゃないぞ。それは二流の悪魔たちがよく使う手だが、結果はしばしば期待外れとなる。冗談、あるいはユーモアの本当の用法は全く違った方面にある。英国人はユーモア感覚を生真面目に受け取り、それが欠けていることは恥とされる。従ってとくに彼らの間では有望である。ユーモアは彼らには限りない慰めとなり、そしてすべてを赦す「人生のわさび」である。ユーモアは恥ずかしさを消す手段としても非常に貴重である。もしある男が友人におごって貰ったままだと、単なる卑劣な人間と見做されるが、そこでおどけた態度でそのことを自慢し、相手をやじれば、卑劣ではなくて面白い男ということになる。臆病はそれだけでは恥であるが、滑稽な誇張と、グロテスクな身ぶりで吹聴されれば、ユーモアとして通る。残酷な行為は恥ずべきであるが、自分がしたいと思うことは何でも、もし冗談だとみなして貰えさえできれば、仲間の非難を受けないどころか、称賛を受けることさえできる。利用の仕方によっては、これほど人間を堕落させる有効な手段はない。千の卑猥な冗談も、あるいは千の涜神的な冗談でさえも、それには及ばない。ただし、誰かがユーモアだって度が過ぎるといけないのではないかと批判的なサゼッションをした場合、お節介な奴に対しては、「ピューリタン的」とか「ユーモアの欠如」であるとして批判さえできる。
さて、第4の「いたずら(Flippancy)」、これは人間を堕落させる最も有効な手段だ。
<註:これを「軽はずみ」と訳したら元も子もない。ここでは一応「いたずら」と解したが「悪ふざけ」と訳した方が適当かも知れない。>

これは単なる軽はずみではない。手の込んだ「いたずら」あるいは「ふざけ」である。何と言っても、これは安あがりだ。とくに人間の美徳を笑いものにするのに有効である。美徳を笑い飛ばせるのは、まさに「いたずら」である。「いたずら」によって不真面目な連中が真面目な連中を笑い飛ばし、美徳に潜んでいる醜悪な部分を暴露する。これが暫く続けば、その人間の回りに神に対する堅牢な鎧を作り上げることが出来る。この「いたずら」あるいは「ふざけ」には笑いの源泉に内在する危険性が全くない。「いたずら」は知性を鈍らせ、相手に対する愛情の欠片もない。
<註:「神に対する堅牢な鎧」とは、「神に対する不感症」、あるいは「神に対する無関心」を意味すると思われる。>


第12信

老獪な悪魔は新米悪魔がうまく立ち回り、クライエントが順調に「太陽から離れる軌道に乗っている」と言って喜んでいる。つまり、本人は気が付いていないが、すでにキリスト者としての生命線は断たれている。奴がいくら真面目に教会に通い、聖餐にあずかっていようと、そんなことは問題ではない。


奴がどういう立場に立っているのかという真相を知っているお前と俺たちが見ているものと奴が見ているものとは全く違うのだ。奴が走っているコースは、日々、敵から遠ざかっているのだ。しかし、奴は、その方向転換がすべて、些細な選択の結果であるので、それに気が付いていない。今や奴は、どんなにゆっくりであれ、確実に太陽から真直ぐに遠ざかって、冷たく暗い宇宙の果に運ばれる軌道上にあることに感づかせてはならないのだ。
だから、奴がなお教会に行き、聖餐に与っていると聞いてうれしく思うくらいだ。そこに危険があることは承知している。しかし、何であろうと、奴がキリスト者としての生活を始めた頃とはもう縁が切れていることに気づくよりはましである。外面的にキリスト者の習慣が残っている限り、なお自分のことを、二、三の新しい友人と新しい楽しみを採り入れはしたが、精神状態は6週間前と大方同じ人間であると思わせることができる。奴がそう考えている間は、はっきり確認された罪のあからさまな懺悔について議論する必要なはない。そうではなく、近頃自分はあまりうまくやっていないなという、不安はあるが、ぼんやりした感じで十分である。
(中略)
奴には好きなことをさせておけ。徹夜で飲んで騒いだとか、チョットした誤魔化しをして得をしたとか、友人の持ち物を借りて、そのまま自分のものにしてしまったとか、そういう極めて些細な罪でいいのだ。要するに、罪の大小は問題ではない。最も重要なことは、奴を敵から遠ざけるということなんだ。そういう罪の集積的効果によって人間どもを光から漸次遠ざけ、虚無の中にじりじり連れ込むなら、罪はどんなに小さくても構わない。もしトランプで事がすむなら、殺人もトランブと何も違わない。本当の地獄への最も確実な道はなだらかな道なのである。ゆるやかな勾配、やわらかな足ざわり、急な曲り角もなく、道路標識も道しるべもない道である。


第13信

ここで老獪な悪魔は新米の悪魔に対して、怒りを爆発させている。要点を言えば、「あんたは奴を指の間から逃がしてしまった」ということらしい。


あんたの説明によると、奴は大がかりな悔い改めと、敵側のいわゆる「恩寵」の刷新がなされたらということだな。もしそうだとすると、われわれは大敗北したということだ。奴のその経験こそ、よく知られている、いわゆる二度目の回心だ。
<註:ここで「二度目の回心」という言葉が出てくるのは、非常に意味がある。これはいわゆる正統な聖公会では見られない言葉で、ウエスレーに発する言葉である。このことに触れているということは、著者ルイスが穏健な聖公会の信徒でありつつ、ウエスレーの運動にも一定の理解を示していることである。以下、新米の悪魔が何を失敗したのかと言うことについて、老獪な悪魔は縷々説明する。 >

あの古い粉挽き場からの帰途、奴に対するお前の攻撃を邪魔したのは、神の霊による失神現象なのだ。
<註:「神の霊による失神現象」とは原文では asphyziating cloud であるが、これを「窒息性の雲」と訳してしまったら、それこそ何のことか判らないであろう。これは聖書でも時々見られる、ある特定の人に聖霊が降臨し、その人が失神あるいはエクスタシー状態になることを意味しているものと思われる。>

あれが敵の最も野蛮で強烈な奥の手なのだ。悪魔の世界でもまだ十分に解明されていないが、敵が直接人間に顕われる時に起こるらしい。ある人間たちはあの霊によって永久に守られているので、われわれからは手を付けられないのだ。
その意味では、お前は大変なへまをやったと思う。お前は奴が読みたいと思っている本を読むことを認めただろう。その上、お前は奴が古い粉挽き場まで散歩して、そこでお茶を飲むのことを許したよね。いいかい、奴が大好きな田舎道を独りで散歩をしたらどうなると思う。それが分からないほどお前は頓馬だったのだ。それは奴にとって、とっておきの楽しみだったのだ。悩みと楽しみ、その組み合わせは危険だなのだ。
悩んでいるときの楽しみ、その時人間は自分自身の存在に気付くのだ。お前は、昔から文学でも語られているように、ありもしない悩みによって、奴を悩める主人公を演じさせて、それによって奴を地獄に陥れようとしたのだと思うが、それなら先ず奴を本当の悩みから遠ざけなければならないのに、お前はそれを放置したままにしていた。だから本当に悩んでいた奴はすぐにお前の策略に気が付いたのだ。だから、本当の楽しみを奴に経験させてはいけないのだ。どうして、そんなことがお前には分からなかったのだ。お前の狙いは奴を神から引き離そうとしたのだと思うが、これでお前の今までの苦労も全て水の泡だ。書物と楽しい散歩は奴にとって益になってしまったのだ。
面白いことに、われわれの敵も人間を自分自身から引き離したいと思っているのだ。ただしそれはわれわれの目的とは全然違う。敵は本当に、この小さな虫けらどもが大好きで、その一人ひとりの個性を異常に大切にしている。敵は、人間どもが自我を捨てることを云々する時でも、それは子供が我が侭を通そうとしてだだをこねているときと同じで、その時には、我が侭を捨てよと諭す。だから、その人間が反省して我が侭を捨てさえすれば、その人間の個性の全てを回復し、人間が完全に敵のものとなるのだ。ただし俺はそれは敵のホンネではないと疑っている。それで敵は人間たちの無邪気な意志までも彼の意志へ犠牲として捧げるのを見て喜ぶが、一方では何か別の理由のために人間が人間性を失うことを嫌うのだ。どうだ、面白いだろう。
そこにわれわれが付け入隙がある。つまり、常に人間が人間性を失うように策を練らねばならない。人間なら誰でもホンネのところで敵自身が与えたものによって動かされる。だから具体策としては、そこから人を遠ざけることである。どんな些細なことでもいい。人間がホンネの部分で持っている価値基準を世間体や困習や流行というようなくだらないものに差し替えることだ。俺ならここを徹底的に攻撃するね。これが上手く行けばわれわれは優位な立場に立つのだ。
<註:この後、老獪な悪魔は人間の趣味や食べ物等について、細かく取り上げて、その攻め方を指示するが、ここではあまりにも冗長になるので、省略する。>


第14信

前の手紙で触れられた危機的状況に対して、老獪な悪魔は新米の悪魔に次の策を与える。


奴は今、神の霊の経験を経て、それに満足しているだろう。そこで今、お前がやるべきことはただ一つ、奴に「俺は謙虚になった」ということを確信させることだ。一つでも美徳を持っていると自覚した人間は、われわれにとってもう恐ろしい相手じゃない。その中でもとくに謙虚というやつがそうだ。本当に心の貧しい時に奴に近づき、奴の心に「おや! 俺は謙虚になっている」という満ち足りた反省心をこっそり忍びこませなさい。するとたちまち慢心、そうだ、とくに自分の謙虚に対する慢心が芽生える。もし奴がその危険に気がつき、この新型の慢心をもみ消そうとつとめるなら、今度はその努力を誇るようにさせなさい。こうして次々と何段階でも、好きなだけ続けるがよい。しかし奴に奴自身のユーモアとバランスの感覚を目覚ませるといけないから、あまり深追いはしないこと。そんなことになると、奴はお前の策略に気が付き、ただ悪魔の奴めとお前を潮笑し、寝てしまうだけであろう。
しかし奴の注意を謙虚という美徳に集中させるには、ほかにも有益な方法がある。われわれの敵はこの美徳によって、ほかのすべての美徳と同じ様に、その美徳を隣人に向けさせたいと望んでいるのだ。謙虚さと自己否定はすべて結局ただこの目的のために目論まれたものであり、その目的が達せられなければ、われわれにはほとんど手を出す必要はない。もし、このことによって人間が自分自身に関心を持つようになるならば、謙遜と自己否定とは他者ヘの軽蔑の出発点となる。その結果、奴にとっては虚しさと冷笑主義という結末へ導かれるであろう。
<註:こういうことをいろいろ論じる中で、老獪な悪魔は、神について面白いことを語る。ここは重要な部分なので少し詳細に取り上げる。>

敵、つまり人間どもが天の父なる神と称している敵が、人間に与えたいと思う精神状態は、世界で一番立派な大伽藍を見て、その素晴らしさに感動しても、もし他人の作品である場合と、自分の作品である場合との感動の度合いが、全く変わりがないという境地である。自分自身ヘの贔屓目がすっかりなくなって、自分の才能を隣人の才能を悦ぶように率直に感謝をもって悦ベるようになる境地である。敵は人間各自が長い間には全生物を(自分自身さえ)栄誉ある、卓越したものとして認識できるようになることを望んでいる。敵はできるだけ早く、人間たちの動物的自己愛を亡ぼしたいと思っている。しかし俺は、人間たちに新種の自己愛、つまり人間自身の自我を含めての全自我に対する慈愛と感謝の念を戻してやるのが敵の長期政策ではあるまいかと恐れている。人間たちが本当に隣人を自分のように愛することを学んだ時、隣人のように自分自身を愛することが許されるであろう。というのは、われわれは、敵の最も虫の好かぬ、最も説明のつかぬ特性を決して忘れてはならないからである。すなわち、敵は自分の造った羽根なしの二足獣を本当に愛し、左手で奪ったものを、常に右手で返してやるのである。
<註:神のことを最もよく知っているのは悪魔であると思う。続いて、こうも言う。>

それゆえ神のすベての努力は、人間の心を人間自身の価値の問題から完全に引き離すために払われるであろう。神の希望は、人間が自分はヘぼ建築家だとか、へぼ詩人であると考えようとして多くの時間を費やしたり、骨を折ったりしないで、むしろ私は偉大な建築家であるとか、私は偉大な詩人であるとか考え、次にそのことをすっかり忘れてしまうことである。

第15信

ここでは「時間」の問題が取り上げられている。非常に面白い議論であるが、しかし非常に難しいので、注意すべき言葉だけを取り上げて掲載しておく。いずれも老獪な悪魔が述べた言葉である。


◎ 人間どもは時間の中に生きているが、敵は彼らを永遠へと運命付けている(destine)。
<註:これを「予定している」と訳してしまうその重さが伝わらない。>

それで敵は、人間が主として二つのもの、すなわち「永遠そのもの」と、彼らが現在と呼ぶ「時間」とが接する「この一点」とに注目させたいのである。その一点において、人間は敵が実在全体を把握しているのと同種の経験をする。
◎ われわれの仕事は人間どもを「永遠」から、そして「現在」から遠ざけることである。
◎ 人間どもは「過去」について幾分真の知識を持つが、「過去」は決定的な性質を持ち、その限りでは「永遠」に似ている。人間どもを「未来」に生きさせる方がはるかによい。生物学的必然はすでに彼らの感情をみなその方向に向けている。その結果、「未来」についての思想が希望と恐怖をかきたてる。また「未来」は彼らにとって未知である。従って、「未来」を考えさせれば現実ならざるものについて考えさせることになる。
◎ 一言で言えば、「未来」はすベてのものの中で「永遠」に最も似ていない。未来は最も完全に時間性を持った時である。なぜなら、過去は凍りついてもはや流れず、現在は永遠の光に照らされている。
<註:これが、ここでの議論の中心ポイント。>

◎ 過去は凍りついてもはや流れず、現在は永遠の光に照らされている。だから、われわれは創造的進化、科学的ヒューマニズム、あるいは共産主義のように人々の感情を未来ヘと、まさにその時間性の核心へと集中させる思想体系なら何でも奨励して来たのである。またそのために、ほとんど全部の悪徳は未来に根を下ろしているのである。感謝は過去を見、愛情は現在を見る。恐怖、貪欲、情欲、野心は未来を見る。
◎ われわれが望むことは、人間全体が絶えず「未来」のまだ見えていないものに憧れ、現在、正直でもなく、親切でもなく、幸福でもなく、常に、現在において彼らに与えられるまことの賜物をただ「未来の祭壇」に積み重ねる燃料としてだけ用いることである。
<註:この手紙で著者が言いたかったことは、多くのキリスト者は「未来」と「神の国」とを混同している。それは悪魔の罠だ!ということらしい。>


第16信

ここでは教会生活についての、かなり厳しいことが指摘されている。悪魔の人間に対する攻撃の要点は人間を教会から離れさせることである。ここではその方策が述べられている。先ず冒頭で新米の悪魔をしかり飛ばす。


お前は前便で奴が回心以来ずっと同じ教会にだけ出席しているが、その教会に必ずしも満足しているわけではないと、何気なしに触れていたよね。それでそのことに対してお前はどんなことをしたのか聞きたいものだ。われわれの攻撃目標は奴を教会通いをやめさせることだろう。もし、それが難しいとしたら、次ぎに何をしたらいいと思うかね。教えてやろう。お前も知っているはずだが、奴に自分に「ピッタリの」教会を探させることだ。それをあれこれやっている内に、奴を教会の目利き、要するに教会の鑑定士(批評家)にすることだ。
どこの教会でもいろいろな問題を抱えている。教会の連中がいう一体性の正体は「好み」の一体性ではなく、場所の一体性なのだ。そこにはいろいろな階層の、いろいろな好みの連中が集まっている。そんな教会が「一体」である筈がないではないか。といって、組合教会制の原理は、各教会を各教会を一種のクラブに転じ、最後には、もし万事うまく行けば、同好の士、ないしは一つの党派の集まりに変えてしまうのだ。
<註:ここで老獪な悪魔は聖公会の教区制の問題点を批判し、同時に組合教会(congregational principle)の問題点も指摘している。>

要するに、自分に「ピッタリの」教会探しは、教会の中では生徒であるべきだと考えている信徒が、批評家になってしまう。敵が信徒たちに望むことは、教会にどれ程批判すべき点があり、改善されなければならないこと、捨て去らなければならないことがあったとして、そんなことに貴重な時間を費やさないで、現にあるどんな心の糧にも心を開いて、無批判に謙虚に受容する態度である。これで敵が、いかに浅ましく、霊的でないか、いやしがたく下品であるかが分かるだろう! これが奴らの「父なる神」なのだ。
<註:さて、次の部分、非常に重要な部分であるが、日本語訳では次のようになっている。「この態度は、特に説教の間に、単調陳腐な話が本当に人の魂に響いて来る状態(われわれの全政策に最も敵対する状態)を生み出す。こういう気分で受け入れられると、どのような説教でも書物でもわれわれにとって危険ならざるものはすっかりなくなりかねない」。いったいこの文章は何を言っているのだろうか。注意深く読めば、間違いであるとは言えないが、実にややこしい。原文はこうなっている。
This attitude, especially during sermons, creates the condition (most hostile to our whole policy) in which platitudes can become really audible to human soul. There is hardly any sermon, or any book, which may not be dangerous to us if it is received in this temper.
一応カッコの中の部分を省いて読むと、最初の文章は次のようになる。「この態度、特に説教の最中の態度は陳腐さが人間の魂に実際に響くという状況を作り出す」となる。これを受けて後の文章は、「(そうなれば)、こんな気分で受け入れられている限り、どんな説教も書物もわれわれにとってほとんど危険なものではあり得ないであろう」。その上でカッコの中の文章は、the conditionを受けて、「こういう状況とはわれわれの陣営では夫も憎むべき状況である」と述べているのである。この段落は要するに陳腐な説教を喜んでいる教会の状況を軽蔑しているのである。この部分を直訳的に訳すと、「説教を聞くときのこの態度が、陳腐さが人間の魂に実際に響くものとなるという状況を作り出す(われわれの陣営においては最も憎むべき態度)。こんな雰囲気で受け入れられている限り、どんな説教もどんな書物もわれわれにとってほとんど危険はない」。>



だから、どうか奮起して、この馬鹿者にできるだけ速やかに、近辺の教会巡りをさせてくれ。お前の今日までの成績はあまり満足のいくものではない。
<註:この後、老獪な悪魔は教会の牧師について二人の牧師を実例に、いかにつまらない連中かを語る。それは日本の教会とはほとんど関係がないと、私は信じる。最後に聖公会特有のつまらない問題点を紹介している。>

英国教会においては、「高教会派」の信徒たちが躓いてはいけないと配慮して、「低教会派」の信徒たちがひざまずき、十字を切る。同様に、「低教会派」の信徒たちが戸惑って偶像崇拝にならないようにと配慮して、「高教会派」の信徒たちがひざまずかず、十字を切らないというような現象が見られる。マンガみたいな話だが、これがわれわれの不断の努力の結果なのだ。この英国教会(The Church of England )が、いわゆる英国人が誇りとする「博愛(charity)と謙譲(humility)」という気質の温床になったのである。
<註:この言葉は悪魔の発言と言うよりも著者自身の言葉であろう。 >



第17信

グルメと食い意地との問題。これについては冒頭のこの言葉だけで十分であろう。


前便でお前は、食い意地が魂を捕える手段になるなんて、と、さも馬鹿にしたような言い方をしていたが、それはお前の馬鹿さ加減を示しているだけのことだ。最近百年間のわれわれ悪魔の偉大な功績の一つは、食い意地の問題に関して人間の良心を鈍らせたことであった。その結果、今どきヨーロッパ中くまなく探しても、この問題を論じた説教や、この問題を良心的に悩んでいる人を見つけるのが難しくなっている。これはまさにわれわれが、「量の食い意地」にではなく、「質の食い意地」(=いわゆる「グルメ」志向)に集中した結果である。

もう1個所引用しておこう。


男性には虚栄心があるので食道楽(gluttons、暴食家)に変えるのは簡単だ。自分は食べ物については非常な通だと思わせればいい。町でステーキを「まともに」調理して、食わしてくれる店はここしかない、とか言って自慢させればいい。虚栄で始まったものを次第に習慣に変えることができる。ここで、お前がすべき重要な攻撃は、たった一つでいいから、その店で「気に入らないこと」を示すことである。肉はうまいがシャンペンが不味いとか、食後のお茶が何とかならないかとか、人間は何か一つの気ままが拒否されると、不機廉になる。奴が不機嫌になれば、後はお前の思うままに操ることが出来るのだ。

第18信

冒頭で、こう言う。「いくら校長がスラブコブでも、あんたが悪魔養成所で性的誘惑に関する定式を学んだであろう。この問題はわれわれ霊的存在者には関係ないし、退屈な議論ではあるが、訓練の一部としては必須である。それで細かいことは省略するが、基本的な問題は抑えておかねばならない」。


敵(=神)が人間に向かって何かを要求する場合、通常は「板挟みの形式」を取る。要するに、完全な禁欲か、あるいは単純な一夫一婦制のどちらを選ぶかという形である。禁欲の方は、われらの父が最初に大勝利をおさめて以来、人間には大変むずかしくなった。一夫一婦制はこの2、3紀来われわれによって、それ以外の道を封じてきたので人間どもにとっては、逃げ道ではなくなった。われわれがそうしたのは、詩人や小説家を通して、人間どもが「恋愛」と呼ぶ奇妙な、普通には少しの間しか持続しない経験を、結婚の唯一の立派な根拠であると信じさせたからである。また結婚は恋の興奮を永遠なるものにすることができるし、またそうすベきであると信じさせ、また、そうしない結婚はもはや拘束力を持たないと信じさせたからである。これはまさに敵が考えていたことをわれわれがパロディー化したものである。
<註:これを「もじった」という意味不明の言葉に訳したら何のことやら分からなくなる。原文では「our parody of an idea 」で現在ではパロディーという言葉で十分通じると思う。その上で、老獪な悪魔は、以下「地獄の哲学」を展開する。>

地獄の全哲学は、ある物は他の物ではない。とくに、ある個我は他の個我ではないという原理の認識の上に立っている。私の善は私のもので、君の善は君のものである。あるものが得をすれば他のものが損をする。無生物でさえ自分が占領している空間から、すべての他者を排除することによって現にあるところのものとなる。もしそれが大きくなるとすれば、他のものを押しのけるか、吸収するかして拡大する。個我も同様である。吸収は動物では食ベるという形をとる。われわれの場合では、意志と自由を、より弱い個我からより強い個我の中へ吸収することである。「存在すること」は「競争すること」を 「意味」するのだ。
<註:非常に明快である。続いて「敵の哲学」、つまり神の哲学を紹介する。>

敵の哲学は、「ある物は他の物ではない」という単純な真理を回避しようとするので、スッキリしない。だから、長たらしい説明がみんな一つの試案にしか過ぎない。多数の物が同時に一つだ、なんていう矛盾をどう説明しようとしているんだ。ある個我の善は他の個我の善でもなければならない、なんていうことを説明するのに、敵は「愛」を持ち出すのだ。この「愛」とやらは、有効な万能薬らしく、敵の行為、敵の本質、敵が敵であることの全てを貫いているらしい。こうして敵は、敵自身が単純に算術的単一体であることに満足しない。愛についてのこのたわごとが、敵自身の本質に拠り所を見出すようにと、彼は一であると同時に三であると主張する。この天秤の対極には、穢らわしい発明品である有機体(organism)を置く。その有機体においてはいろいろな部分が競い合うという本来の運命が歪められて協力させられている。
敵が性を人間の生殖の手段に選んだ真の動機は、ここにある。われわれの見解からすれば、性は全く罪のない(innocent)なものであった筈だ。性はより強い自我が、より弱い自我を餌食にするもう一つのやり方にすぎなかったのだ。みんなも知っているように蜘蛛の世界では花嫁が花婿を食べることによって結婚を完了する。しかし人間においては、敵は当事者間の愛情をいわれもなく性欲と関連させた。彼はまた子を親に依存させ、親に子を養う本能を賦与した。このようにして有機体に似てはいるが、それよりももっと悪い「家族(the Family)」というものを造った。なぜなら、家族の構成員は、有機体における各部分よりももっとはっきりと分かれているにもかかわらず、意識的とか責任という方法で結合しているからである。要するにこれまた事実上、愛を引きずり込むためのもう一つの仕掛けであるに過ぎないことが分かるだろう。
さてこれからがお笑い草だ。敵は結婚した二人を「一体(one flesh、一つの肉体)」と称した。あんたは人間どもにそれを無視させればよい。敵は「幸福な結婚をした両人」とか、「愛するゆえに結婚した両人」が一体であるとは言わなかったのだ。人間どもがそのことに気が付いていないことは掘っておけ。あんたはまた、人間どもがパウロと呼んでいる奴が、そのことを結婚に限定しなかったことも忘れさせておけばいい。要するに、パウロにおいては単なる交尾(copulation)が「一体」を作るのである(参照:1コリント6:16)。このようなことを経て、お前は人間どもに「愛し合っている(being in love)」という美しい言葉で受け入れていることの事実とは何かということを分からせることが出来る。つまり、それが性交ということの本当の意義なんだ。
事実、どこでも男と女が寝れば、好き嫌いに関係なく超越的な関係が生まれ、二人はそれを永遠に享受するか、あるいは永遠に我慢しなければならないかである。
<註:下品な表現をお許しください。何しろ原文がそうなっているからです。>

この超越的関係は、愛情と家族を作ることを目的としており、それに素直に従えば、愛情と家族を作ることになる。ところが、愛情と不安と欲望が入り交じった恋愛が、結婚を幸福に、または神聖にする唯一のものだという信念に基づく結婚が、そうは上手く行く筈がない。ところが、この間違いは簡単に起こるのだ。なぜなら、恋愛は西ヨーロッパでは敵の意図に従ってなされる結婚、つまり貞節と子沢山と善意の意図をもってなされる結婚に先行する場合が非常に多いからである。つまり、われわれとしては、敵が本当は結婚の結果として約束しているものを、けばけばしく着色し、ゆがめて、それを結婚の基礎とみなすように人間に勧めてやらなければならないのである。それがわれわれの攻撃目標である。
ここから二っの利点が生ずる。まず第1に、節制力のない人間に、自分は「恋」をしていないから結婚を諦めさせることができる。しかも何か別の動機で結婚しようという考えは、賤しいことだと思わせられる。そういう連中にとっては、相互扶助のため、貞潔を守るため、生命を伝えるための協力関係としての結婚というものを低級なことだと考える。そこで、お前の奴に対する作戦は、結婚式を非常に不快なものに思わせることだ。第2に、どんなに性的にのぼせ上がっても、結婚を目指しているかぎりは、それを「愛」とみなされ、その「愛」は全ての罪のいい訳となり、相手が異教徒であれ、馬鹿者であれ、浮気女とであれ、その結末がどうなっても、許されると考えるのである。しかしこの先は次の手紙にしよう。

次は http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/9174b84c0514dc10aa616a319d4490dc

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