ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:降臨節第2主日 2017.12.10

2017-12-08 17:25:38 | ときのまにまに
断想:降臨節第2主日 2017.12.10

福音の初め マルコ1:1~8

<テキスト、私訳>
◆洗礼者ヨハネの登場 (1:1~8)
イエス・キリストの福音はここから始まったのだ。
先ず、イザヤ書に次のように書かれている。「見よ、私は私の使者をあなたの登場に先だって派遣し、あなたが登場するための準備をさせる。彼は荒れ野で『主の登場に備えて、道を整えなさい』と叫ぶであろう」。
その通りのことが起こったのだ。洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しに至る悔い改めの説教をした。
その時、ユダヤの全地方とエルサレムの住民たちはすべて、ヨハネのもとに来て、自分たちの罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたのだ。 ヨハネは駱駝の毛衣を着て、腰には革紐を締め、蝗と野蜜を食べていた。彼の説教の要点は次のようなものであった。「私よりも偉大なお方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物の紐をほどく資格もないのだ。私は水であなたたちに洗礼を授けているが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。

<以上>

1. マルコ福音書について
マルコ福音書が「福音書」という文学様式の最初の作品であるということは、もう常識になっている。しかし「福音書」とは何かということになると、それ程明確ではない。4つの福音書を比較しても必ずしも統一した福音書理解があるとは思えない。マタイにせよ、ルカにせよ、あるいはヨハネにせよ、「福音書」という意識があったのかどうか明白ではない。同様にマルコだって必ずしも「福音書」という文学類型を創設するという意識はなかったであろう。むしろ著者マルコ(仮の名前)はパウロの主張する「福音」を批判的に継承して書いたのがマルコ福音書であろう。
その意味で、福音書とは何かということを考える際に、マルコが書いた「福音」が福音書なのだと理解すべきであろうし、その後に著された類似する諸文書を福音書と呼ぶようになったのであろう。従って福音書とは何かということについては、マルコ福音書を読んで、これが福音書なのだと理解すべきである。何度かマルコ福音書を通読してわかった点をまとめると次のようになるであろう。
福音書とはイエス・キリストの言葉と行為とを収集し、取捨して、著者自身の信仰理解に基づいて配列した文書である。(現時点での定義)「イエス・キリストの言葉と行為」は彼が活動した村や町に様々な形で断片として伝承されていた。マルコはそれらを収集し、信憑性を考慮し、取捨し、整理し、編集した。その編集の過程において、ところどころそれらをつなぐ言葉や枠組みを挿入する。従って編集者の意図や神学はそれらの配列や枠組みの中に込められている。

2.「福音」という言葉
現在では「福音」という言葉はかなり知れ渡っているが、初期の教会でこの言葉が使われ始めるころは、かなり無理な用法であったらしい。とくにギリシャ語に堪能な人々にとっては違和感を感じる言葉であったという(参照:田川建三『新約聖書、訳と註』1巻、131頁)。「福音」という言葉をマルコは7回用いているのに対して、マタイは3回(4:23、24:14、26:13)、ルカは皆無である。この言葉はパウロの造語で、彼が独占的に用いていた言葉であると思われる。パウロの真正7書簡(ロマ書、コリント書1と2、ガラテヤ書、フィリピ書、テサロニケ1、フィレモン書)においては48回も用いている。パウロにとって「福音」とは教会が世界に向かって宣べ伝えるべきメッセージであり、またキリスト者の生き方を示している。つまり「キリスト教」とか「キリスト者の生き方」、「キリスト者をキリスト者とする原則」というように、かなり広い、総合的な意味で用いられている。端的に言うならば「ユダヤ教」に対応する言葉で、今日的に言うならば「キリスト教」を意味している。
ここで注目すべきことは、イエスにおいても、そしてその弟子たちにとっても、また最初期の原始集団(イエスの集団)にとって、パウロにとってさえも「宗教団体」という意識はほとんどなかった。彼らにとって宗教とはユダヤ教であり、「お参り」すべき場所はエルサレムの神殿であった。その意味では、「イエスの生き方に倣う者」であった。ただ、それは思想化する以前の原始状態であり、その意味ではイエスの言葉や生き方がモデルであった。
そのような集団に飛び込んだパウロは思想家であった。彼にとってキリスト教とはユダヤ教の律法主義から解放してくれた力(デュナミス)である。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ロマ1:16)。パウロは福音においてユダヤ教の束縛から解放され、自由に生きる者となった。
パウロにとって福音とは「復活したイエス」との出会いの経験によるものである。キリスト者、つまり「この道(イエス)に従う者」(使徒言行録9:2)を逮捕するためにユダヤ教の大祭司のライセンスを貰ってダマスコに行く途中での経験である。パウロにとってイエスとは迫害すべき対象であり、敵であった。おそらくパウロは生前のイエスとは面識していなかったし、イエスが育ったガリラヤ地方の風土も知らなかったであろう。パウロはキリスト者になる以前も、以後も生身のイエスには関心は無かった。パウロにとってイエスとは十字架上で死に復活する者として神から派遣された存在であり、重要なことは人間イエスではなく神の救済のドラマであった。
生前のイエスを知らないということは、初期のキリスト教会の指導者の中でのパウロの弱みであったと思われるが、パウロはそれは逆手にとって、キリスト教を本当に理解するためには生前のキリストを知らないことの方が利点なのだと開き直る。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(2コリント5:16)。
パウロは生身のイエスを知らない。パウロの知っているイエスとは肉体のない復活のイエスである。このことにはプラス面とマイナス面とがある。重要な一点を挙げるとパウロは「ユダヤ人としてのイエス」を知らない。パウロにとってのイエスとは民族性を脱却したイエスである。この世のあらゆるしがらみから自由なイエスである。この視点に立ってパウロ「十字架と復活」を柱とする神学を樹立した。それが思想的に表現されたキリスト教であり、パウロはそれを「福音」と呼ぶ。
しかし実際にペトロやヤコブ、ヨハネによって指導されている信徒たちは、何らかの形で生前のイエスと関わりのある人々である。また教会の内部で語られている説教はイエスの言葉を中心とする「思い出」である。このギャップは大きい。まるでエルサレムを中心とするユダヤ人信徒たちのキリスト教とパウロによって入信するに至った非ユダヤ人キリスト者を中心とするキリスト教と、まるで2つの違ったキリスト教があるようであった。

3.マルコについて
この2つのキリスト教の狭間にあって悩み、統一しようとしたのがマルコであった。マルコについて、彼がこの福音書の著者であるということ以外、私たちはほとんど何の情報もない。ただ「福音」という言葉の使い方によって、彼はパウロの思想の影響下にあるということが推測されるだけである。それと同時に、この書を記したということで、パウロに対しても一定の批判的な立場に立っていたということも推測できる。
パウロの福音は十字架と復活が基礎である。言い換えると、福音は十字架からはじまる。その際、イエスが何故死ななければならなかったのかという現実的な側面はほとんど無視される。神はイエスを十字架上で死ぬ者としてこの世に遣わされたのであり、神の意志に基づいて定められた通りに死んだのである。まさにこの点にマルコは疑問を感じた。その通りであろうという面と、それだけか。イエスが死ぬに至るまでの悩み、師が死ぬに至ったことへの自責の念で葛藤する弟子たちの苦悩、ユダヤ人やローマの事情等を知っている。福音とはそれらをすべて含むものであるし、含まなければならない。ただ単に「神のドラマ」であるだけではなく「人間のドラマ」でもある。
その思いからマルコは福音書を書いた。おそらくマルコが最初に書いた部分は、いわゆる「受難物語」と呼ばれるイエスの生涯の最後の部分であったと言われている。しかし、それを十分に描こうとするならばイエスの生きた道筋も無視できない。

4.福音の初め(1:1~8)
今日のテキスト(1:1~8)は「イエス・キリストの福音はここから始まったのだ」という言葉で始まる。これがマルコがこの福音書において語りたい第1のメッセージである。キリスト教、つまり福音はここから始まった。マルコが取り上げる最初の出来事は洗礼者ヨハネの活動である。イエス・キリストの福音はここから始まる。マルコが福音の初めとして洗礼者ヨハネのことを取り上げるのには2つの意味がある。一つはイエス登場の歴史的背景を明白にするということ、もう一つは洗礼者ヨハネとイエスとの関係である。現在の視点から見ると、洗礼者ヨハネはあくまでもイエスの物語の付録ぐらいにしかみなされないが、イエスが登場した当時の社会状況においては、洗礼者ヨハネの存在と活動は画期的なことであり、まさに時代の象徴である。彼の活動にはヘロデ王も戦戦恐恐としていた。とくに民衆の間での評判は高く、ヘロデ王も手が出せない存在であったらしい(マルコ6:14~29)。従って洗礼者ヨハネの後で現れたということは十分に時代を特定できたのであろう。
マルコは洗礼者ヨハネの活動と説教とが多くの人々に受け入れられ、多くの人々がヨハネのもとに集まり洗礼を受けたということを述べる(5節)。つまり、この事実がとりあえずイエスが登場する歴史的背景、状況を端的に説明している、と考えているようである。それでは、なぜヨハネの活動が多くの人々に受け入れられたのかということについて、彼の活動は一言でまとめるなら、「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた」ということにほかならない。このまとめ方は見事である。要するに、このことが当時の多くの人々にとって大きな関心事であり、重要な課題であったということにほかならないからである。以下、マルコはイエスの活動を洗礼者ヨハネの状況に合わせて描く(1:14、6:14)。
もう一つの意味は、洗礼者ヨハネとイエスとの関係である。マルコが指摘する点は、洗礼者ヨハネの次の言葉である。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1:7~8)。おそらく、これの言葉はイエスの時代というよりも、マルコの時代の評価に基づくものであろう。
パウロが活動してた世界では「ヨハネの洗礼」はかなり広く影響を与えていたらしく、それとイエスの名による洗礼」とはいろいろな場面で競合していたようである。
使徒言行録18章に面白い記事が記録されている。非常に雄弁な人物アポロが「主の道」(=キリスト教)を受け入れ、イエスのことについて熱弁をふるっていたと言う。それでパウロの同労者、プリスキラとアキラとがアポロに会っていろいろ話しをきくと、どうも洗礼者ヨハネの弟子でイエスのことをよく知らないらしい。それで彼らはアポロに正確に「神の道」のことを説明したという。イエスの集団と洗礼者ヨハネとの集団との間が曖昧で、かなり混乱があったものと思われる。その後、パウロがアポロと会って「信仰に入ったとき、聖霊を受けたのか」と聞くと、彼は聖霊のことが聞いたこともないという。そこでパウロは彼の頭に手を置いたとき聖霊を受けたという。
マルコは洗礼者ヨハネとイエスとの関係を「水による洗礼」と「聖霊による洗礼」とを対比させて述べる。「水による洗礼」は非常に明確であるが、「聖霊による洗礼」という表現は微妙である。パウロは「水による洗礼」には批判的で、あまり積極的ではなかった(1コリント1:14~17)らしい。先に述べたアポロの出来事によると、「水による洗礼」とは宗教団体への加入の儀式(形式)であり、「聖霊による洗礼」とはその内実化、現実化を意味しているように思われる。つまりマルコがここでこれらを対比させている意図は、パウロによる「福音」を生きるということは具体的にイエスのように生きるということで、それがここでいう「聖霊による洗礼」を意味しているのであろう。それがこの福音書執筆の目的でもあろう。

《人として生きた神こそ福音だ、マルコは語るイエスの人生》

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