幸福に生きたいと願う人は、誰でも幸福の源を知りたいと思われるに違いありません。幸福な神エホバの子イエスは何と教えられるでしょうか。
イエスは悪霊を追い出した後、心を空にすることの危険を教えられました。さらに、イエスは何を教えられるでしょうか。
イエスの教えを聴いている時、群衆の中にいた一人の女性が心を動かされ、「あなた(イエス)をはらんだ胎と、あなたが吸った乳房とは幸いです!」と叫びました。すべてのユダヤ人女性の願いは預言者、とりわけメシアの母親になることなので、その女性がそう言ったのも充分理解できます。イエスの母親になったマリアは特に幸福である、と、彼女は考えていたようです。
しかしイエスは、すぐに、幸福の真の源に関してその女性の誤りを正し、「いいえ、むしろ、神(エホバ)の言葉を聞いてそれを守っている人たちは幸いです!」と、お答えになりました。イエスは、ご自分の母マリアに特別な誉れを帰すべきである、ということをほのめかしたりはされませんでした。むしろ、真の幸福は、どんな血縁関係や業績にあるのでもなく、神エホバの忠実な僕であることにあるのだ、ということを示されました。
イエスはまた、ガリラヤで行ったように、天からのしるしを求めるユダヤの人々をやはり叱責されました。イエスは彼らに、ヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう、と言われました。ヨナは、魚の腹の中に三日間いたこと、また大胆にニネベの滅びを宣べ伝えた結果、ニネべの人々が悔い改めるよう動かされたという二つの点でしるしとなりました。「しかし、見よ、ヨナ以上の者がここにいるのです」と、イエスは言われました。またシエバの女王はソロモン王の知恵に驚嘆しました。しかし、「見よ、ソロモン以上の者がここにいるのです」とも、イエスは言われました。
人は灯をともすと、それを穴ぐらの中からかごの下ではなく、燭台の上に置いて、人々にその光が見えるようにします、とイエスは説明されました。イエスは、聴衆の中のそれらかたくなな人々の前で教えたり奇跡を行ったりするのは、灯の光を隠すのではなく、光で明るくなるようにすべきである、という意味で言われたのかも知れません。そのような観察者たちの目は純一であるわけでも、焦点が合っているわけでもないので、イエスの奇跡の初期の目的は達成されませんでした。
イエスはちょうど悪霊を追い出し、口のきけない青年が話せるようになった時で、そのため、純一な。つまり焦点の合った目を持つ人々は、このイエスの輝かしい偉業を称え、神の王国の良い便りを宣明するよう動かされるはずでした。ところが、ユダヤ人の反対者たちには、そうしたにことは起こりませんでした。そこで最後にイエスは次のように言われました。「それゆえ、用心していなさい。もしかすると、あなたのうちにある光は闇であるかも知れません。それゆえ、あなたの体全体が明るく、暗いところが少しもなければ、それは、ともしびがその光線であなたを照らす場合のように、全部が明るいでしょう」(ルカ11:14~36.出エジプト記8:18、19:31:18.マタイ12:22、28)。
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