イエスは神エホバの約束のメシアとして地上に遣わされ、神エホバのご意志の神の王国の良いたよりを証しし、贖いの死を遂げなければなりませんでした(ルカ4:43.マタイ20:28.ヨハネ3:16)。そうした神エホバのご意志の中の、地上に義の宿る楽園が回復された時には「わたしは病気だと言いう居住者はいない」という約束が成就する愛と知恵と力をお持ちであることを、イエスは多くの疾患の人々を奇跡的にいやし、証拠を示されました(マタイ4:23.ペテロ第二3:13.啓示21:4.イザヤ33:24)。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の中には、イエスが行われたたくさんの業が記録され、それを調べると確かに福音であることが分かります。しかしながら、多くの人たちは、イエスの行われた業と悪霊たちが行う業とを人々が見分けることができなかった興味深い出来事が、マタイの福音書に記されています。何を学ぶことができるでしょうか。イエスが凶暴な二人の男から悪霊を追い出した時の出来事が次のように記録されています。
「イエスが向こう側に着いて、ガダラ人の地方に入ると、悪霊に取りつかれた二人の男が記念の墓の間から出て来て彼(イエス)に会ったが、この二人はことのほか凶暴であったので、だれもその道を行ってそばを通る勇気がなかった。ところが、見よ、彼らが絶叫してこう言った。「神の子よ、わたしたちはあなたと何のかかわりがあるのですか。。わたしたちを責め苦に遭わせようとして、定められた時より前にここに来たのですか」。ところで、彼らから遠く離れた所で豚の大きな群れが放牧されていた。それで悪霊たちは彼(イエス)に懇願しはじめ、「わたしたちを追い出すのでしたら、あの豚の群れの中に送り込んでください」と言った。そこでイエスは「行け!」と言われた。彼ら(悪霊たち)は出て来てから、豚の中に入り込んだ。すると、見よ、その群れ全体が突進して断崖から海に落ち、水の中で死んだ。ところが、牧夫たちは逃げて行き、市内に入って、悪霊に取りつかれた男たちのことを知らせた。すると、見よ、全市の人々がイエスに会おうとして出て来た。そして、イエスを見たのち、自分たちの地域から出てくれるようにと切に求めるのであった」(マタイ8:28~34)。
上の聖句に記録されている通り、イエスは記念の墓(亡くなった人を埋葬した墓のことで、神エホバは亡くなった人をご自分の記憶の中に留める、という意味で「記念の墓」と言います)の間から悪霊に取りつかれた凶暴な二人の男が出て来て、イエスに会った様子が記されています。この悪霊とは、悪魔サタンの配下のサタンに仕えている霊者のことです(啓示12:9)。聖書は悪魔サタンに多くの霊者が仕えていることを明らかにしています。 二人の男が凶暴なのは、悪魔サタンの配下の悪霊が取りついているからです。上記の聖句を読むと悪霊たちは興味深いことを絶叫し、イエスに言っている言葉です。それは、「定められた時より前にここに来たのですか」と、言っていることです。この悪霊たちの言葉から、悪霊たちは将来神エホバが神の王国の王イエスによって処断されることを知っていることを明らかにしています(啓示20:1,2,10)。ですから、悪霊たちはその「定められた時より前に」と言っているのです。イエスは悪霊に「行け!」と命じると、二人の凶暴な男から出て、自ら「豚の中に入り込んだ」のです。すると豚の群れの全体が突進して断崖から海に落ち死んだことが記されています。ここで注意すべきことは、豚の群れが突進し断崖から海に落ちて死んだのはイエスが命じたことではない、ということです。悪霊たちが自ら、豚の群れの中に入り行った出来事である、ということです。悪魔サタンとその配下の悪霊たちは全地で人々を惑わす者であることが明らかにされています(啓示12:9)。サタンと同様に配下の悪霊も自分の欲望・性向のままに行動します(ヨハネ8:44)。神エホバは愛の神であり、人間と同じように家畜を優しく扱うように教えておられますので、豚の群れを殺すような残虐な行為は、神エホバから出ることは全くありません(ヨハネ第一4:8.箴言12:10)。
こうした出来事を牧夫から聞いた人々の反応は、どうだったでしょうか。市の多くの人たちが出て来てイエスを見ています。これは人々が起きた出来事を正しく理解するためではなく、興味本位で見ていたことが分かります。そのため市の人々は、「自分たちの地域から出てくれるようにと切に求め」たことが記されています。人々はイエスが行った業と、悪霊たちが自ら行った業とを見分けることができなかったのです。今日も、神エホバのご意志である、イエスが真の弟子たちに命じられた神の王国の良いたよりの真理を世界中の239の国や地域で証しのために宣べ伝えられていますが、これが成し遂げることができているのは、神エホバのイエスを通した業である事を見分けることができない人たちが多いのは、残念なことです(マタイ24:14.ルカ4:43)。ですから、神エホバはみ言葉を日々調べるように促し、イエスは神エホバから出る教えの必要を自覚している人たちは幸いです、と教えられました(詩編1:2,3.マタイ5:3)。
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モズ鳴きて 飛び去る庭に 陽の差して 今日の一句
12月10日の雨の中の「山茶花」