初冬の越後の棚田の風景を新潟の写真家が紹介されていました。
初冬の風景の中に、きちんと管理された棚田を見ると
写真を通し越後の人たちの勤勉な働きを感じ取ることができます。
棚田に稲の収穫後に水を張ったままにするのは、
棚田の畔の損傷防止に欠かせないのだそうです。
そうした初冬の棚田と風景を美しい写真で紹介されていました。
今日は初冬の越後の棚田の風景と宇和島市和霊公園の紅葉を紹介致します。
新潟の写真家の提供「初冬の越後の棚田の風景」
宇和島市和霊公園の「紅葉」
初冬の越後の棚田の風景を新潟の写真家が紹介されていました。
初冬の風景の中に、きちんと管理された棚田を見ると
写真を通し越後の人たちの勤勉な働きを感じ取ることができます。
棚田に稲の収穫後に水を張ったままにするのは、
棚田の畔の損傷防止に欠かせないのだそうです。
そうした初冬の棚田と風景を美しい写真で紹介されていました。
今日は初冬の越後の棚田の風景と宇和島市和霊公園の紅葉を紹介致します。
新潟の写真家の提供「初冬の越後の棚田の風景」
宇和島市和霊公園の「紅葉」
聖書を学ばれた方はご存知ですが、信仰とは、次のように聖書は説明しています。「信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実態についての明白な論証です」(ヘブライ11:1)。分かり易く言い換えれば、信仰とは私たちが抱く・望む期待・希望が明白な証拠に基づき、神エホバによって保証されていることを指します。聖書には、大勢の信仰の人が記録されています(ヘブライ11章)。マタイの福音書には、権威のもとにあったある士官が、自分の下男がまひしており、その下男を治してもらうためにイエス・キリストに表した全き信仰は模範的であり、見倣うことができます。次のように記されています。
「イエスがカペルナウムに入ると、ひとりの士官がその(イエス)もとに来て、懇願してこう言った。「閣下、私の下男がまひして家にこもったまま、ひどく苦しんでおります」。イエスは彼に言われた、「わたしがそちらへ行った時に治してあげましょう」。士官は答えて言った、「閣下、私はあなたに自分の屋根の下に入っていただくほどの者ではありません。ただそのお言葉をください。そうすれば、下男はいえることでしょう。と申しますのは、私も権威のもとに置かれた人間ですが、私のもとにも兵士がおりまして、この者に、「行け!」と言えば、その者は行き、別の者に「来い!」と言えば、その者は来ます。また、私の奴隷に、「これをせよ!」と言えば、それを致します」。これを聞いてイエスはすっかり驚き、自分の後に従っている者たちにこう言われた。「あなた方に真実に言いますが、イスラエルの中のだれにも、わたしはこれほどの信仰を見たことがありません。しかしあなた方に言いますが、東のほうや西のほうからの大勢の人が来て、天の王国(神の王国)でアブラハム、イサク、ヤコブと共に食卓について横になるでしょう。一方、王国の子ら(王国の子らとは文脈から信仰から離れたイスラエル国民を指しているようです)は外の闇に投げ込まれるのです。そこで彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう。それからイエスは士官に言われた、「行きなさい。あなたの信仰のどおりのことが起きるように」。すると、下男(のまひ)はその時刻にいやされたのである」(マタイ8:5~13)。
イエスのもとに訪ねてきて、下男のまひをなおしてくださるように懇願した士官は権威を持った人で、心の優しい人でした。イエスがその士官の要望に応じ「そちらに行った時に治してあげましょう」と、約束されました。それに対して、士官はイエスのその約束を喜ぶのではなく、「ただそのお言葉をください。そうすれば、下男はいえる」と強い信仰を表明しました。士官は自分がどのような立場の人間かを説明しました。イエスはその士官に「わたしはこれほどの信仰を(イスラエル人の中に)見たことがありません」と述べ、「あなたの信仰どうりのことが起きるように」と士官の要望通りにしました。すると「下男(のまひ)はその時刻にいやされた」のです。私たちはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を読み、イエスが神エホバからすべての権威を委ねられ、神の王国の良いたよりを証しし、あらゆる疾患の人を即座に治し、かつ亡くなった人を復活させたことを証拠として知っているのですから、士官が示したような全き信仰に見倣うことができるでしょう(マタイ28:18)。
ジョウビダキ いつもの枝に 止まり行く 今日の一句
道端の木陰に休む「山雀」
かかりつけの医院に鉢植えの多肉植物があります。
この時期には、その多肉植物が丁度花を咲かせた感じになります。
あまり見かけない珍しい多肉植物です。
今日は珍しい多肉植物と宇和島市和霊公園の銀杏の黄葉を紹介致します。
医院の鉢植えの「珍しい多肉植物」
宇和島市の「和霊公園の銀杏の黄葉」
イエスが地上に遣わされたのは、人類がアダムから受け継いだ罪と死からの解放のために贖いの死を遂げるため、神エホバが約束に従って処女マリアを通して遣わされました(マタイ1:18~25;20:28.ローマ5:12.ヨハネ3:16)。また、イエスは「神の王国の良いたよりを宣明するために遣わされた」と、地上に遣わされている目的を説明され、自ら都市から都市、村から村に神の王国の良いたよりを宣明されました(ルカ4:43;8:1)。ですから、使徒たちは神の王国の良いたよりを徹底的に証ししました(使徒28:23)。さらに、真のクリスチャンたちは、イエスが世界中で神の王国の良いたより宣明するように、と命じられたことを守り、現在世界中の239の国や地域で神の王国の良いたよりの真理を証しています(マタイ24:14;28:19,20)。イエスはその有名な山上の垂訓の中で、神の王国に入ることができるのは次のように、天におられるみ父エホバのご意志を行う人であることを説明されました。
「わたし(イエス)に向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の(神の)の王国に入るのではなく、天におられるわたし(イエス)の父(エホバ)のご意志を行う者が入るのです。その日(事物の体制の終結の日)には、多くの者がわたし(イエス)に向かって、「主よ、主よ(イエス様、イエス様)、わたしたちはあなたの名(イエス)において預言し、あなた(イエス)の名において悪霊たちを追い出し、あなた(イエス)の名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか」と言うでしょう。しかしその時、わたし(イエス)は彼らにはっきり言います。わたし(イエス)は決してあなた方を知らない、不法を働く者たちよ、わたし(イエス)から離れ去れ、と」(マタイ7:21~23)。
上記の聖句の通りに、神の王国に招き入れられるのは、イエスのみ父エホバ(神エホバ)のご意志を行う者だけなのです。神エホバのみ名を呼び求めるのではなく、「主よ、主よ」つまり「イエス様、イエス様」と言い、イエスの名において説教し、各種の業や世界中で慈善事業を行って来たと、主張しても、事物の体制の終結の時・神エホバの大いなる日の戦争・ハルマゲドンの時に、イエスに救いを求めても、イエスは「決してあなた方を知らない、不法を働く者たちよ、私から離れ去れ」、と言うことを明らかにされています(マタイ24:3.啓示16:14,16)。聖書に記されていない教えのイエスを神にしたり、マリア崇拝は神エホバに是認されることはありません。
主要な神エホバのご意志は、愛を基盤にした霊の実の九つを培い、イエスの命じられた通りに神の王国の良いたよりの真理を証しのために宣明し、同時にイエスの贖いの死に信仰を働かし、一人でも多くの人々が義の宿る地上の楽園で永遠の命に至ることなのです(コリント第一13:1~8.マタイ24:14;28:19,20.ヨハネ3:16.ガラテア5:22,23.ペテロ第二3:9~13.啓示21:3~5)。その他にも、霊的な必要を自覚し、み言葉を学び、生活に適用し、神の王国と神エホバの義を第一に求めなければなりません(マタイ5:3;6:33.詩編1:1~3)。唯一まことの神エホバと、そのみ子イエスについての正確な知識を取り入れることも含まれます(ヨハネ17:3)。加えて神エホバを心をこめ、力をこめ、魂をこめ、思いをこめて神エホバを愛し、隣人を自分自身のように愛さなければなりません(マタイ22:37~39)。新しいおきての「互いを愛し合うこと」とも神エホバのご意志です(ヨハネ13:34,35)。イエスの行われた模範に見倣い、神エホバに栄光と賛美を帰すことなのです(マタイ11:25.ヨハネ7:16,17.11:41,42.ペテロ第一2:21.啓示4:11)。私たち人間を「神の像(かたち)」に創造してくださり、神エホバの比類のない特質の愛、公正(義)、知恵、力を学び、それらを生活に反映することです(創世記1:26,27)。神エホバからの知恵と識別力を学び、永続する幸福の道・快い道、平安の道、命の道に至ることをお父さんエホバは願っておられます(箴言2:1~9;3:13~18.イザヤ48:17,18)。神エホバのご意志は、朽ちる「肉の業」を絶対に避けなければなりません(ガラテア5:19~21)。神エホバのご意志は創世記3章15節で述べられた言葉を成就させ、神の王国によって、地上から邪悪な者を断ち滅ぼし、当初の目的の地上に楽園を回復し、ご自分の民を永遠に亘り祝福することなのです(創成期1:28;2:15.詩編37:11,29.マタイ5:5.ダニエル2:44,45.啓示18章~21:3,10;21:1~5;22:1~3)。
夫婦らし カラス二羽来る 冬の庭 今日の一句
宇和島市「和霊公園の紅葉」