愛媛県宇和島市からの良いたより♪

私のブログでは次の内容を紹介致します。
1.「神の王国の良いたより」、聖書教育
2.花々、風景写真
3.俳句、他

12月16日のイチゴミルクと赤の山茶花

2015-12-16 20:02:33 | 四季折々の花々

 今日はあいにくの曇りの日となりましたが、

 庭にはイチゴミルクが可愛く咲いています。

 このイチゴミルクを見ていると愛の絆を教えているように思います。

 今日は庭に咲いているイチゴミルクと赤の山茶花を紹介致します。

                    12月16日の庭の「イチゴミルク」

                       12月16日の庭の「山茶花」

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あなたは、イエスが二人の盲人の目を即座に治された場面をご存知でしたか?(マタイ9:27~31)

2015-12-16 19:42:47 | 神の言葉・聖書

 イエス・キリストは神の王国の良いたよりを宣明し、あらゆる疾患とあらゆる病の人たちを即座に治されるのは、人間の目にはまさに奇跡の業でした(ルカ4:43.マタイ4:23)。そうしたイエスの慰めとなる奇跡の業は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書に詳しく記録されています。そのようにイエスが示された奇跡の業は、神の王国が、邪悪な者たちを断ち滅ぼし、地上に義の宿る楽園を回復した時に、約束通り神エホバの臣民にすべて生じることを証拠として示されていたのです(ペテロ第二3:10~13.啓示21:3,4)。また当時、即座に治された人たちは何の治療費も必要でありませんでした。この事は、このような善い業は神エホバの無償の賜物なのです。ですから神エホバは善い方なのです(ルカ18:19)。神エホバの善い賜物の癒しの業、奇跡的な業について、マタイの福音書に以下の通り記されています。それはイエスが、二人の盲人の信仰に応じて目を即座に治し、見えるようにされた時に善良な奇跡の業を示されました。

 「イエスがそこから進んで行かれると、二人の盲人が、「ダビデの子よ(イエスよ)、わたしたちに憐れみをおかけください」と叫びながらあとに付いて来た。彼(イエス)が家の中に入ると、盲人たちはそのもとにやって来た。それでイエスは、「あなた方は、わたしにそれが(目が見えるようにすることが)できるという信仰がありますか」とお尋ねになった。彼らは「はい、主よ」と答えた。そこでイエスは彼ら(二人の盲人)の目に触り「あなた方の信仰どうりのことが起きるように」と言われた。すると、彼らの目は見えるようになったのである。ついでイエスは、「だれにも知られないようにしなさい」と厳しく言い渡された。しかし、彼らは、外に出てから、イエスのことをその地方全体に言い広めた」(マタイ9:27~31)。

 イエスの神の王国の良いたよりの伝道には大群衆が、イエスの後に従っていました(マルコ8:1)。大群衆はイエスの教えに信仰を働かしていた人ばかりではなく、大半は好奇心から、イエスが行う奇跡の業を見るために、イエスの後に付いて行っていたのです。そのような中で二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちに憐れみをおかけください」と叫びながら付いて来たことが記されています。盲人がイエスのことを「ダビデの子よ」と叫んでいるのは、イエスが約束通りダビデの子孫の家系の大工ヨセフの妻、まだ処女だったマリアを通して誕生したメシアであることを理解していたことが分かります(マタイ1:6,16,18~25)。二人の盲人がイエスに「憐れみをおかけください」と、叫んでいる意味は、「目を見えるようにしてください」という懇願です。イエスが家の中に入った時、イエスのもとに二人の盲人が来た時、イエスは、「あなた方はわたしにそれが(目が見えるようにすることが)できるという信仰がありますかと、簡潔に尋ねられました。二人の盲人は「はい、主よ」と全き信仰を表明しました。それで、イエスは二人の盲人の目に触り、「あなた方の信仰どうりのことが起きるようにと言われると、直ぐに「彼らの目は見えるようになった」のです。このようにイエスが行った奇跡の業は、神エホバのご意志の権威の行使であり、とても爽やかさをもたらすものなのです(マタイ11:29;28:18)。ですから、当時のイエスの行われた跡の業は、神エホバがどのような方かをイエスを通して見ることができたのです。現在の私たちも福音書を通して、神エホバを見ることができるようになっているのです。

 イエスは二人の盲人の目を即座に見えるように治された後、その二人に、イエスが行った業によって目が見えるようになったことを誰にも知られないようにしなさい、と厳しく言いつけています。なぜイエスはこのように指示されたのでしょうか。人間的な考えであれば、イエスは奇跡を行う力を持っていることを伝えるように願うものですが、イエスは全く逆でした。イエスは謙遜であり、センセーショナルな形で話が伝わることを避けておられるのです。いつも、イエスはご自分ではなく、み父エホバのご意志を行い、み父エホバに栄光と賛美を帰せるために、慎み深く行動されていたのです(ヨハネ12:50)。このイエスの言動は、真のクリスチャンに手本として残されたのです(ペテロ第一2:21)。さらに、クリスチャンでない人たちもイエスの手本として残された謙遜な精神態度に見倣い、爽やかに歩むことができます(フィリピ2:5)。

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        病棟の 五階の外は 冬カモメ 今日の一句  

                我が家に来て1年が経過した「ボタンちゃん」

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