原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

7月30日(土)のつぶやき

2016-07-31 02:33:46 | つぶやき

7月29日(金)のつぶやき

2016-07-30 02:34:04 | つぶやき

7月28日(木)のつぶやき

2016-07-29 02:32:46 | つぶやき

『除染が続く福島での悲劇』<リンゴが腐るまで ~原発技術者~> ※27回目の紹介

2016-07-28 22:00:00 | 【除染が続く福島での悲劇】

*『リンゴが腐るまで著者 笹子美奈子 を複数回に分け紹介します。27回目の紹介

『リンゴが腐るまで』原発30km圏からの報告-記者ノートから-

著者 笹子美奈子

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**『リンゴが腐るまで』著書の紹介

第2章 原発と生計

原発技術者

(前回からの続き) 

「原発事故前は縫製関係の会社が3、4社あって、女性はそこで働いていた。でも原発事故後、休業している。共働きは職場が近くないと、子育てしながら働きに出られない。勤めはダメ、農業もダメ、米プラス年金だったら生活できるが、原発事故でそのスタイルが崩れてしまった。結果、現在この地区は若い人はゼロ。一番若い人で60歳前後。これから何をやったら生計を立てていけるのか、みんな悩んでいる状態だ」

 雇用の場を奪われたうえ、農業収入も見込めない。政府に押し切られた形で避難指示解除になり、毎月10万円の精神的賠償もやがて打ち切られる。「年金生活者はよいが、今の状況で打ち切りでは困る。生活が軌道に乗るまでめんどうを見てもらわないと。原発事故がなければ生計を立てられていたのだから」。

 生活の手段をどこに求めるのか。

 結果、除染の仕事に従事する人が多いという。だが、「除染は勧められる仕事ではない。放射線量は原発と一緒だ。うちの会社の線量の上限は、年間15ミリシーベルトだった。政府は避難指示解除の説明会で、考えられないようなことを言った。

『普通の生活で年間20ミリシーベルトまでなら大丈夫だ』と。そんなばかなことはない。その上、緊急時の原発作業従事者の上限を年間250ミリシーベルトに引き上げた。ばかげている。勝手に基準をコロコロ変えて、本当に安全な値が知りたい」。

 国が実施する除染についても、広田さんは不満を抱いている。

 ※「第2章 原発と生計「原発技術者」」は、次回に続く

2016/8/1(月)22:00に投稿予定です。 

リンゴが腐るまで 原発30km圏からの報告‐記者ノートから‐ (角川新書)


7月27日(水)のつぶやき

2016-07-28 02:33:30 | つぶやき

『除染が続く福島での悲劇』<リンゴが腐るまで ~原発技術者~> ※26回目の紹介

2016-07-27 22:00:00 | 【除染が続く福島での悲劇】

*『リンゴが腐るまで著者 笹子美奈子 を複数回に分け紹介します。26回目の紹介

『リンゴが腐るまで』原発30km圏からの報告-記者ノートから-

著者 笹子美奈子

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**『リンゴが腐るまで』著書の紹介

第2章 原発と生計

原発技術者

(前回からの続き) 

 広田さんは1983年から原発で働いてきた。変圧関係の技術者として、日本全国、新潟、宮城県と各地で仕事をしてきた。広田さんの勤務先は東芝の下請け企業で、本社は福島県外にある。社長は地元の人で、従業員は5,6人のみだった。

 専業農家を営んでいたが子供を高校に通わせるため、毎月の現金収入が必要になり、農業より原発の仕事が主体になった。(中略)

 原発事故後は事故収束作業に携わり、2013年11月、65歳になったのを機に原発の仕事から退いた。農業と年金で老後の生活を送るつもりだったが、原発から約20キロメートルにある自宅は、原発事故から3年が過ぎても放射線量が高いままだった。2015年春の米の作付け再開をめぐって地区で話し合った結果、地区としては作付けしないことに決まった。「本当は作付けするつもりだったが、全国的に米価が下がって、卸売業者から『この地区の米はいらない』と言われた」。

 冬場の貴重な収入源だったシイタケの栽培もできなくなった。地域は全国有数の原木シイタケの産地だった。だが、その原木が放射性物質によって汚染され、使い物にならなくなった。「米は売れない、野菜はダメ、じゃあ何をやればいいのかという状態だ」。

 働く場所もない。

 ※「第2章 原発と生計「原発技術者」」は、次回に続く

2016/7/28(木)22:00に投稿予定です。 

リンゴが腐るまで 原発30km圏からの報告‐記者ノートから‐ (角川新書)


7月26日(火)のつぶやき

2016-07-27 02:30:34 | つぶやき

『除染が続く福島での悲劇』<リンゴが腐るまで ~孫請け会社~> ※25回目の紹介

2016-07-26 22:13:15 | 【除染が続く福島での悲劇】

*『リンゴが腐るまで著者 笹子美奈子 を複数回に分け紹介します。25回目の紹介

『リンゴが腐るまで』原発30km圏からの報告-記者ノートから-

著者 笹子美奈子

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**『リンゴが腐るまで』著書の紹介

第2章 原発と生計

孫請け会社

(前回からの続き) 

 これから先どうなるか。避難指示の解除後、集落に戻ったのは高齢者ばかり。かつての生活バランスを取り戻せない限り、若い世代が戻ってくることは見込めない。それでも、「命ある限りここにいて頑張る」という。

 中井さんにとって、忘れられない出来事がある。1953年、自家発電が地域に初めてやってきた時のことだ。かやぶき屋根からコードでつるされた電球が、ピカッと光ってやってきた時の衝撃が忘れられない。当時、小学生だった。

 その後、自分が電力の仕事に関わり、原発で働くことになるとは全く想像がつかなかった。「福島第一、第二原発は、東京に電気を送るためのものだった。でも、東京の人はどこから電気が来るのかを知らない(略)


原発技術者

「1Fの応援に行ってくれないか」

 2011年4月、原発事故の発生から約3週間後、自宅が避難指示区域に指定され、長男の自宅で避難生活を送っていた広田春一さん(66歳)の元に、勤め先の会社の社長から1本の電話が入った。「電源復旧作業をする資格を持っている人がいないんだ。行ってくれないか」。

 家族の心配をよそに、広田さんは1Fに向かった。通い慣れたはずの1Fは、それまでと全くの別世界に変わっていた。広野長から全面マスクを着用し、防護服を着込んでの作業。建物の陰にいないと、たちまち放射線を浴びる。作業は1日2時間のみ。放射線量計の数が足りず、10人程度の1グループにつき1個が支給されるのが常だった。

 ※「第2章 原発と生計「原発技術者」」は、次回に続く

2016/7/27(水)22:00に投稿予定です。 

リンゴが腐るまで 原発30km圏からの報告‐記者ノートから‐ (角川新書)


7月25日(月)のつぶやき

2016-07-26 02:28:34 | つぶやき

『除染が続く福島での悲劇』<リンゴが腐るまで ~孫請け会社~> ※24回目の紹介

2016-07-25 22:14:18 | 【除染が続く福島での悲劇】

*『リンゴが腐るまで著者 笹子美奈子 を複数回に分け紹介します。24回目の紹介

『リンゴが腐るまで』原発30km圏からの報告-記者ノートから-

著者 笹子美奈子

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**『リンゴが腐るまで』著書の紹介

第2章 原発と生計

孫請け会社

(前回からの続き) 

 中井さんが暮らす田村市都路地区は福島第一原発から約20キロメートル西の山あいに位置する。大型のスーパーは市の中心部にあり、車で30~40分ほどかかる。

 多くの家は、農業を営みながら兼業で生計を立てている。中井さんの実家は農家で、養蚕と林業を兼業していた。「長男なのであとを継がなければと思って」、中学卒業後、家業を継いだ。農業に加え、生活の足しにするため、自営業で採石の販売を10年ほど行ったこともあった。生活は何とか成り立っていたが、3人の子供が高校に進学するにあたって、それまでの収入だけではやっていけなくなった。一番近い学校でも車で30分以上。バスは1日数本しかない。高校に通わせるとなると、やむを得ず下宿生活になる。

 農業の収入は年に一度、秋に一括して大きな収入があるが、不安定だ。教育費を工面するには、毎月の定期的な現金収入が欠かせない。長男の高校進学を機に、1988年から中井さんは原発で働くことにした。(中略)

 中井さんの家族も原発事故後、世帯分離を余儀なくされている。長男夫婦は柏崎市、次男夫婦は三春町、長女はいわき市で生活している。花が大好きで庭の手入れを欠かさず、自宅に戻るのを待ちわびていた妻は、避難指示が解除される直前、肺血栓で亡くなった。中井さんは避難指示解除後、自宅に戻り、1人で暮らしている。

「長男に帰ってこいとは言えない。帰ってきても仕事がないから。でも、家は誰が来ても泊まれるようにしたい。みんなで生活するための拠点として、自分の持ち山の木を切って造った大切な家だから」

 ※「第2章 原発と生計「孫請け会社」」は、次回に続く

2016/7/26(火)22:00に投稿予定です。 

リンゴが腐るまで 原発30km圏からの報告‐記者ノートから‐ (角川新書)


7月24日(日)のつぶやき

2016-07-25 02:32:38 | つぶやき

7月23日(土)のつぶやき

2016-07-24 02:34:25 | つぶやき

7月22日(金)のつぶやき

2016-07-23 02:35:09 | つぶやき

7月21日(木)のつぶやき

2016-07-22 02:42:17 | つぶやき

『除染が続く福島での悲劇』<リンゴが腐るまで ~孫請け会社~> ※23回目の紹介

2016-07-21 22:11:26 | 【除染が続く福島での悲劇】

*『リンゴが腐るまで著者 笹子美奈子 を複数回に分け紹介します。23回目の紹介

『リンゴが腐るまで』原発30km圏からの報告-記者ノートから-

著者 笹子美奈子

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**『リンゴが腐るまで』著書の紹介

第2章 原発と生計

孫請け会社

(前回からの続き) 

 中井さんは原発事故前、東電の元請の孫請けにあたる事務所を経営していた。自宅は田村市の避難指示解除準備区域にあり、約3年間の仮設住宅での生活後、避難指示が解除され、たむらしの自宅に戻った。

 2014年5月、かつての仕事仲間と共に除染の仕事を始めた。「事故収束のためには除染をやるしかないと思った。いくらかでも放射能を閉じ込めたい。なんぼでもきれいにしたいという、ただその思いで」。

 原発事故前、中井さんの事務所は従業員十数人で、原発の電動弁駆動部のバルブの管理業務を受注していた。原発の中枢部は壁の厚さが1メートル以上もあり、「原発がメルトダウンするなんてありえないと思っていた。どんな圧力がかかっても絶対ないと思っていた」という。

 東日本大震災の発生時、中井さんは大熊町の事務所にいた。その日のうちに田村市の自宅に戻ると、一見、自宅に地震の被害は見られなかった。「これぐらいの地震なら大丈夫だな」。原発のことは全く頭になかった。

 翌日、浜通りからの避難者で、自宅の近くを走る国道288号がたちまち渋滞した。「原発が危ない」。切迫して避難してきた人たちからそう言われても、「そんなことねえべ」と思っていた。「原発が爆発するなんて、思ってもみなかった」。

 ところが、テレビをつけて現実を見た。強固な壁で覆われていた1号機の原子炉建屋の屋根が吹き飛ばされていた。「とんでもないことが起こった」。絶対にありえないと信じていたメルトダウンが現実となった。その後、自宅のある地域は避難指示区域となり、3年間の仮設住宅暮らしが始まった。

 ※「第2章 原発と生計「孫請け会社」」は、次回に続く

2016/7/25(月)22:00に投稿予定です。 

リンゴが腐るまで 原発30km圏からの報告‐記者ノートから‐ (角川新書)