*『リンゴが腐るまで』著者 笹子美奈子 を複数回に分け紹介します。25回目の紹介
『リンゴが腐るまで』原発30km圏からの報告-記者ノートから-
著者 笹子美奈子
----------------
**『リンゴが腐るまで』著書の紹介
第2章 原発と生計
孫請け会社
(前回からの続き)
これから先どうなるか。避難指示の解除後、集落に戻ったのは高齢者ばかり。かつての生活バランスを取り戻せない限り、若い世代が戻ってくることは見込めない。それでも、「命ある限りここにいて頑張る」という。
中井さんにとって、忘れられない出来事がある。1953年、自家発電が地域に初めてやってきた時のことだ。かやぶき屋根からコードでつるされた電球が、ピカッと光ってやってきた時の衝撃が忘れられない。当時、小学生だった。
その後、自分が電力の仕事に関わり、原発で働くことになるとは全く想像がつかなかった。「福島第一、第二原発は、東京に電気を送るためのものだった。でも、東京の人はどこから電気が来るのかを知らない(略)
原発技術者
「1Fの応援に行ってくれないか」
2011年4月、原発事故の発生から約3週間後、自宅が避難指示区域に指定され、長男の自宅で避難生活を送っていた広田春一さん(66歳)の元に、勤め先の会社の社長から1本の電話が入った。「電源復旧作業をする資格を持っている人がいないんだ。行ってくれないか」。
家族の心配をよそに、広田さんは1Fに向かった。通い慣れたはずの1Fは、それまでと全くの別世界に変わっていた。広野長から全面マスクを着用し、防護服を着込んでの作業。建物の陰にいないと、たちまち放射線を浴びる。作業は1日2時間のみ。放射線量計の数が足りず、10人程度の1グループにつき1個が支給されるのが常だった。
※「第2章 原発と生計「原発技術者」」は、次回に続く
2016/7/27(水)22:00に投稿予定です。