*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。4回目の紹介
被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎
はじめに
私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。
私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。
だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。
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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介
前回の話:『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※3回目の紹介
あちこちに痛みを感じますが、たしかめている余裕はありません。目や鼻や口に入った泥を夢中でぬぐいながら、明るいほうにむかってがれきのなかをはい出しました。
私は男の子がいたことを思い出しました。見まわすと、泥にうもれた花もようの夏ぶとんから、小さな手がのぞいています。力まかせにふとんから引きずり出し、私は男の子をかかえて表へ転がり出ました。
庭先の広場に子供を横たえましたが、聴診器はどこかに行ってしまって見当たりません。私は耳のなかに入りこんだ泥をかき出し、その子の胸に直接耳をあてて心臓の音を聞きました。元気な音がしています。ほっとしました。
男の子の意識もかえって、あたりを不安そうに見まわしました。おそろしいのか私の手にしがみついてきます。その手をにぎりかえして、あらためて広島の空を見ました。
ああ! なんてことだろう!
広島に紅蓮の火柱が立っています。おそろしく激しく燃え立つ火柱は空へ空へとのぼり、巨大な雲となってどん欲にわきたっていました。
不意に背すじが寒くなって、下腹のあたりに言い表しようのない恐怖がにじり上がってきます。
私がいま、見ているのはなんなのだろう!
28歳の人生で出会ったことのない未知の世界が、そこにありました。広島の街全体を火柱の下にふみしだき、壮大にそびえ立っている「きのこ雲」。おさないころに間近で見た、浅間山噴火の噴煙とはくらべようもない異様な巨大さ。私はいつの間にかその場にひざまずいていました。
村のあちこちから互いによび合う声が聞こえてきます。まわりには霧のように砂ぼこりがたちこめていました。裏の畑のほうからこの家のおじいさんが、おろおろしながらやってきましが、巨大なきのこ雲を見てその場に座りこんでしまいました。
「孫はここにいるよ。大丈夫だからね」
私はおじいさんにむかってさけんで、庭に転がっていた自転車にまたがり広島の病院をめざして走りだしました。ほんとうは、後ろをむいて逃げ出したい気持ちです。でも、任務だからしかたありません。
きのこ雲へつづく太田川沿いの道を、私は自転車でひた走りました。いまでは4車線の大きな国道になっていますが、当時は荷車がやっとすれちがえるくらいの砂利道です。人の姿も犬ころ一匹も見かけません。おそろしさを必死にこらえてベダルをこぎました。
(「3 八月六日」紹介は今回で終わり、次回は「4 初めて出会った”被爆者”」です)
※続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/1(火)22:00に投稿予定です。