原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※30回目の紹介

2015-10-12 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。30回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※29回目の紹介

 これまでお話ししてきたように、私は多くの被爆者を診てきましたが、私の印象に残っている被爆者の死をつづっていくと、直接ピカにやられて、「あれじゃ助かりようはない」という死に方よりも、後から肉親を探すため入市した人とか、遠距離でわずかしかピカを浴びなかった人とか、いわゆる残留放射能によって内部被曝して、後になって死んでいったという症例にたくさん出会っています。原爆で殺されたと証明する方法がない、口惜しい、歯がゆい死に方をした被爆者が強く印象に残っているのです。

 考えてみると、被爆者には、ひと目で被爆者とわかる火傷あとやケロイドの目立つ障害をもった人よりも、なんとも言いようのない不運を背負って、連れ合いからも、身内からも甲斐性なし、怠け者と思われながら、あまり幸せでない人生を歩かされてきた人たちの方が多かったように思われます。

 ピカを生きのびた被爆者がこうした不幸な死への道をたどらざるをえなかったのは、繰り返しになりますが、第一に、アメリカが対ソ戦略上の理由から、原爆被害をプレスコード(報道規制)をしいて隠し続け、被爆者にもっとも必要だった傷害の研究と、治療法の開発の道を閉ざしたこと、第二には、日本政府がアメリカの理不尽な圧力に屈して、1957年に原爆医療法をつくるまでの12年間、社会の底辺で苦しむ被爆者をまったく放置したことによると、私は確信しています。

『被爆医師のヒロシマ』の紹介は今回で終わり、『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』の紹介を始めます。10/13(火)22:00に投稿予定です。

==『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』著者 雁屋 哲==

何度でも言おう。

「今の福島の環境なら、鼻血が出る人はいる」

これは”風評”ではない。”事実”である。

2年に及ぶ取材をへて著者がたどりついた結論はこうだ。

「福島の人よ、福島から逃げる勇気を持って下さい」

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被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに

美味しんぼ「鼻血問題」に答える


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※29回目の紹介

2015-10-09 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。29回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※28回目の紹介

 彼女は当時、18歳。8月9日の正午すぎ、兄と共に長崎で被曝した父を探しに行き、3日間、長崎の街を歩き回りました。結局、消息不明のまま父の葬儀を出します。そのうち、兄弟とも下痢が始まり、激しい怠さが続きます。下痢がよくなっても、怠さだけは相当長くつづき、突然、死んだように動けなくなることもあったほどでした。医者にかかっても神経衰弱と言われるだけで、原因はわかりません。

 しかし、いつの間にか怠さもなくなり、忘れていたそうです。父が関係していた商社でずっと働いていて、38歳のとき、出張先の東京でいまのご主人に見初められて、望まれて結婚します。理想的な夫だと聞いています。それなのに、なぜ、彼女は自殺しなければならなかったのでしょうか。それこそ彼女が相談したいことだったのです。手紙には次のようなことが書かれていました。

 結婚して10年がたち、記念に2人で欧州旅行に出かけた。旅行の最終日に泊まったジュネーブのホテルでカゼ気味だったこと意外、旅行中変わったことはなかった。欧州旅行から帰ってきた翌日、夫とセックスをしているときに、突然、手足の力が抜け、全身がゴム人形のようにだらんと伸びてしまった。急に死んだようになってしまったので、夫は驚いて心配してくれたが、自分でもどうなったのかわからず、泣いてしまった。

 泣きながら、原爆のあとにこういう発作があったことを思い出した。それ以来、セックスのたびに発作が起こった。心配した夫が親しい医師に相談してくれたが、被爆者を診たことのない医師は不思議がるだけ。長崎の親しい友人が、「被爆者仲間に似たような症状の人が何人もいて、『ぶらぶら病』と言われている。あなたも直後から爆心地を歩いているから、それと同じでしょう」となぐさめてくれた。

 だが、発作が自然におさまるまで根気よく待つ以外なかった。セックスの機会がどんどん遠のいた。数カ月して、夫がほかの女性と付き合っていることがわかっても、黙って耐えるほかなかった。表向きは仲のよい夫婦をよそおってすごした。決定的だったのは、夫と女性の間に子供が生まれ、夫の関心が一気に向こうに傾いたことだった。

 このような手紙の内容から、私への相談はぶらぶら病の治療のことだと思いました。相手が医師でも、女性が口にするためにはためらわれる相談だったのです。

「11 ぶらぶら病」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/12(月)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※28回目の紹介

2015-10-08 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。28回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※27回目の紹介

 1964年、埼玉の浦和市(現・さいたま市)に、新卒医師の研修ができるセンター病院をつくって、民主的な医療活動を受け継ぐ若手医師を養成していこうと、民主診療所を建設することになりました。私はその診療所に移って活動しました。

 その診療所で、長野県から来たという中年の男性の被爆者を診たときのことです。

「ぶらぶら病」がいかに深刻なのか、私は初めて目の当たりにしました。

 患者は、最近、急に身体がだるくなって仕事ができなくなり、医者にかかると、どこも悪くないと言われた。そこで私に診てほしいと訪ねてきたのです。

 彼は中学2年生のとき、岡山県に住んでいましたが、原爆が落とされた翌日、父を探しに広島に行き、焼け跡を歩き回りました。しかし、結局、父を見つけられないまま、遺骨のない葬式をすませます。少したってから身体がだるくなり、何日か学校を休んだりしたのですが、それはいつの間にか治っていました。そういうことが何回かあったけれども、今回、だるさを覚えるまで忘れていたと話してくれ、「それが」と言いかけたときです。驚くようなことが目の前で起きました。

 患者は「先生、すみません、だるくて」と言って、椅子からおり、床に座り込んでしまったのです。それでもつらいのか、最期は「ごめんなさい」と言って横になってしまいました。彼を抱き上げて診察台に寝かせましたが、被爆者の言う「だるさ」がまったく普通のものじゃない、私たちが感じるものとは質が違うということを、そのとき知ったのです。

 診療所に2ヶ月か3ヶ月に一度、相談にくる女性の被爆者も、誰にも打ち明けられない大変深刻な悩みをかかえていました。初めてやってきたときから相談したいことがあると言いながら、結局はそれらしい話もせずに帰って行くことが何度もあって、診察室では話しにくいのだろうかと思っているうちに、書留で分厚い封書が送られてきました。開けてみると、「この手紙が先生のお手元に着くころ、私はこの世にはもういません」と書き出されていて、青ざめました。

「11 ぶらぶら病」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/9(金)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<ぶらぶら病> ※27回目の紹介

2015-10-07 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。27回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※26回目の紹介

 11 ぶらぶら病

 同じ1955年の暮れのことでした。私が市議会で被爆者の例をあげて市の社会福祉行政をただした発言がどこをどう回って伝わったのか、妻沼町(現・熊谷市)にいた広島の被爆者が私を訪ねて来ました。順番が来て診察室に入ってきましたが、妙にまわりを気にしてそわそわするので、すぐ被爆者と察し看護婦に席をはずしてもらいました。思った通り被爆者でした。被爆者であることを絶対に話さないでくれと妻から言われているので医者にも言わなかったのですが、結核でかかっている深谷市の日赤病院の主治医が詳しく診察してくれないので、思いきって広島で被曝していて心配だと話したところ、「そんなことはあなたの病気に関係ない」と取り合ってくれません。行田には被爆者をよく診てくれる先生がいると聞き、受診しにきたと言います。

 彼は私のいた広島陸軍病院のすぐ隣にあった西部2部隊の兵隊でした。あの日、彼は兵舎の水道管がこわれたので、縁の下にもぐって水道工事をしていたそうです。そこに突然、足元の地面がドスンと跳ね上がり、建物が崩れ落ちます。爆心から6百~7百メートルの近距離ですから、ほとんどの兵隊が死にました。彼は工具で隙間をこじあけ、やっとはい出ると、もうもうとした埃でなんにも見えません。だんだん晴れてくると、兵舎もなければ街もない。何人かの呻き声を聞いたが、恐ろしさが先立って、死体と負傷者の街を走りぬけます。中山峠をこえて、西条(現・東広島市)にあった親戚の家まで逃げます。2日後から下痢、発熱が始まり、2週間寝ついているうちに戦争が終わりました。その後、岡山県の実家へ帰ったそうです。

 岡山では実家の農家の手伝いをしていたけれど、疲れが酷くて仕事になりませんでした。埼玉の妻沼町から遊びに来ていた兄嫁の妹と縁あって結婚。いつまでも兄のところに厄介になっているわけにいかず、1949年に妻の実家がある妻沼に越してきて、実家の瓦づくりを手伝いました。疲れてだるい体調は変わらず、身体が思うように動きません。日赤病院で結核と診断され、現在、通院しているとのこと。最近、同年兵のなかに白血病で死ぬ人が多く、心配なので相談に来たというのでした。

 色々調べましたが、私にはどうも結核とは思われず、いわゆる「ぶらぶら病」、原爆病のように思われました。「ぶらぶら病」というのは、寝こむほどではないが、具合の悪い状態が続く症状で、医師の診察を受けても、裏付けになる所見や検査結果をえられないことが特徴です。原因不明でだるい。疲れやすい。結果、「ぶらぶらしていて働かない」、あるいは「働けない」という患者の家族が、いつの間にか誰とはなしにつけた病名が「ぶらぶら病」なのです。

 この患者は胸部エックス線写真でも、腸の検査でも結核の病巣ははっきりしませでしたし、喀痰や尿の培養でも結核菌は検出されませんでした。最後は下血を繰り返して日赤病院に入院し、結局、亡くなりました。病名は腸結核でした。当時はまだ現在のような精密な血液検査ができない時期でしたが、放射性起因の慢性血液疾患だった疑いが濃厚だったのではないかと思います。

「11 ぶらぶら病」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/8(木)22:00に投稿予定です。

 

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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※26回目の紹介

2015-10-06 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。26回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※25回目の紹介

 それでおそろしくなって、1953年の暮れに妻の実家を頼って埼玉県の行田市に来たのです。ところが、頼みの妻が急性白血病で3ヶ月前に死んでしまいました。そうしているうちに、最後の頼りの義父も脳出血で倒れ、あっという前に他界。知らない土地で頼れる人は誰もいなくなってしまいました。これでは生きていけないと思い、再び生活保護を申請したら、大きな仏壇を財産とみなされ、売れば当面、生活できるからという理由でまた断られたと言いますから、酷い話です。肝臓病で動けない人が12歳の娘を抱えて、見知らぬ土地で寝込んでしまったわけです。生活保護の見込みもなく子供に食べさせることもできなくなって自殺をはかったというのが真相でした。

 私は当時、行田市の市議会議員に当選したばかりで、初めて招集された市議会で、この問題を市長にぶつけました。

 市長の答弁は、「ご本人が医師の診療を受けておられなかったため、肥田議員からご報告を受けるまで、市側は本人の病状がそんなに悪いという認識をもっていなかったのであります。生活保護の申請に対して、もっとよく健康状態をつかむべきであったのに、厚生省の指導を強く意識して経済状態の判定に目を奪われ、本人に必要以上の苦しみを与える結果になりました。市長の監督不行き届きとして深くお詫びします」というもので、結果、本人は生活保護を受けられることになりました。

 当時は彼が被爆者だということがわかっても、何も公的な支援はありませんでした。政府が被爆者の医療法(「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法)」)をつくって被爆者手帳を交付したのは1957年4月のことです。それまで政府は12年もの間、被爆者をまったく捨ておいていたのです。その結果、彼に援助の手がいかず、こういう被爆者が行田にいたことですら、誰も知らなかったのです。

 被爆者がどんなに酷い目にあって死んでいくのかを、私はこの人の場合にも、骨身に徹して教えられました。

「10 孤立無援の被爆者たち」は、今回で終わり、次回は「11 ぶらぶら病」)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/7(水)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※25回目の紹介

2015-10-05 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。25回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※24回目の紹介

 孤立無援を強いられた被爆者の例を、もう一つお話しします。

 1953年、埼玉県行田市に、貧乏人でも親切に診てもらえる民主的な診療所を新しくつくろうという運動が起こり、どういうわけか、ぜひ私にという話になって移住することになりました。親戚も知人もない、まったく無縁の土地でしたが、日本最大の足袋の産地として有名な街でした。

 1955年3月、行田市に移って2年目のことです。ある日の深夜、近所の人から緊急往診を頼まれました。かけつけると、首をつって自殺をはかったのを発見されて、下ろされたとことでした。応急処置をしながら事情を聞くのですが、何も話さない。この人もだんまりなのです。

 小学校6年生くらいの娘さんがいて、その子に聞けば、「お祖父さんとお母ちゃんがこのあいだ、死んじゃった。お父ちゃんは貧乏でどうしようもない。病院で肝臓が悪いと言われた」と言います。患者にいろいろ聞きましたら、次のようなことがわかりました。

 32歳で、重い肝硬変があるが、お金がないので医療は受けていない。家族は12歳の娘だけ。妻は昨年、白血病で死亡。妻が生きているときに生活保護を申請したが、本籍地の養家の相続権があるという理由で却下されていました。

 意外にも一家3人は広島の被爆者でした。広島の町工場で働いていたのですが、当日は早朝から五日市に出かけていて、帰り道でピカにあいました。遠かったので火傷もケガもありません。市電の線路沿いに広島市内にもどり、比治山から広島駅をまわって、爆心から4キロメートルの自宅に帰りついたそうです。

 家は見る影もなく、戸や障子や屋根瓦が吹き飛んでいましたが、妻と2歳の娘はガラス片のケガがあったくらいで元気でした。仕事がなくて困っていたところ、三次市で工場を始めた仲間がいて、働けるなら来いと誘ってもらい、工場を手伝うことになりました。ところが、3年前に、体調をくずして働けなくなってしまいます。広島逓信病院で肝臓病との診断。アメリカのABCCからしつこく誘われて受信すると、大量に血を採られるだけで、治療はしてくれません。行かないでいると、ジープでむかえにきたと言います。

「10 孤立無援の被爆者たち」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/6(火)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※24回目の紹介

2015-10-02 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。24回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※23回目の紹介

 脈をとり、胸元をはだけさせると、肋骨が高く出っぱって聴診器のあてようもないほどです。腹部は落ち込み、皮膚はカサカサで、まさに末期症状でした。看護婦に、大きい注射器とブドウ糖をすぐ届けるよう、診療所に電話をかけに行かせて、姿が消えるのを待って、「もう誰もいない。私も広島の被爆者だから、安心して話しなさい」と、患者の目を見つめました。彼はようやく手ぬぐいをはずしました。予想通り、首の後ろから右耳の下にかけて大きなケロイドがありました。彼は広島で被爆したことを話し出しました。当時は、自分が被爆者であることを知られてプラスになることは何もなかったのです。

 彼の症状は慢性の原爆症に違いありません。即刻、入院が必要でしたが、その方法が思いつきませんでした。近くに私立病院と国立第一病院がありましたが、そこまで運ぶまでに息が絶えるだろうと思いました。往診して最期まで診る以外ありませんでした。朝晩往診して輸液と輸血を続けましたが、結局、3日目に亡くなりました。本人の遺言通り、区役所に葬儀を出させ、無縁墓地に葬ったのです。


 1ヶ月くらいしたころ、彼の戦友だったという人が訪ねてきました。それで、患者の被爆の模様がわかりました。彼らの部隊は8月4日、原爆の落ちる2日前に中国大陸から広島の宇品港に着き、配属部隊の都合で船内に待機していて6日の朝、上陸を許されたところで被爆。彼は親戚の家に行く途中で吹き飛ばされ、首から肩に火傷を追って、やっとのことで船に戻ったそうです。数日後から嘔吐、下痢、発熱する人が出始め、仲間とともに海軍病院に送られます。やがて復員命令が出て、仲間は下痢の止まらない彼を残して退院し散り散りになって、戦友だと訪ねてきた人も東北の実家へ帰ったと言います。

 その後、文通が絶え、病院に問い合わせるとすでに退院していて、行方知れず。それが、彼と一緒に東京でニコヨンで働いていた仲間から彼の死を知らされて、私に聞いたら最後の状態がわかるだろうということで訪ねてきたのでした。

 亡くなった彼の実家には相続問題で複雑な事情があり、原爆にあった人は家系のなかにいてほしくないという家族の意向で、彼はえん曲に帰郷を拒否されていました。そのため、実家へ帰れず、被爆者であることを世間に隠しながら働いていたとのことでした。

 被爆者の過去には、被爆したときはこうだった、ああだったという話以上に、被爆したあと、どんな人生を送ったのか、なぜそういう人生を送らざるをえなかったのかということが、みんな原爆とかかわりを持っています。ここを知らないと、ほんとうの被爆の恐ろしさを知ることにはならないのです。熱かった、苦しかった、恐ろしかった、ケロイドができた、だけではないことを知ってほしい。被爆した後の人生もふくめて、そのすべてを知ってほしいと思います。それが、人間と核兵器がなぜ共存できないかという事につながっていくのです。

「10 孤立無援の被爆者たち」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/5(月)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※23回目の紹介

2015-10-01 21:12:35 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。23回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※22回目の紹介

   私が東京に出てからはじめて被爆者の死にぶつかったのは1950年、朝鮮戦争が始まった年のことでした。戦後、私の身分は、先に話したように厚生省技官という公務員となり、国立病院に所属していたわけですが、朝鮮戦争を目前にした1949年9月に、私は厚生省技官をクビになりました。右傾化を強めた占領政策のもと、労働組合の幹部などが官庁でも民間大企業でも大量にクビをきられました。日本全国を吹き荒れたいわゆるレッドパージ(※)の最初の一吹きでした。

 ※レッドパージ・・・1950年に朝鮮戦争が始まると、アメリカは日本の再軍備を求めて、日本国憲法第9条で戦争・武力の放棄を定めているにもかかわらず、日本政府に7万5千人の警察予備隊をつくるよう指示しました。それとともに、共産党員やその支持者を公職や民間企業から追放する政策(=レッドパージ)を本格化させ、反戦運動や労働運動に大きな打撃を与えました。

 そこで、私は翌1950年4月から、杉並区の西荻窪に労働者や貧しい人のための民主的な診療所をつくり、活動を始めました。個人宅の一部を借りた小さな診療所で、3畳の玄関が待合室、11畳の応接間に受付、薬局、診察室があり待合室の隣にはトイレ。それだけが診療所の広さでした。

 この診療所に、下痢が続くと言って通院していた、一見、すごく年寄りに見える男性患者がいました。実際の年齢は25~6歳ぐらいで、職業はやはりニコヨン。いつも首に手ぬぐいを巻いているのが印象的で、絶対にとろうとしませんでした。その患者がぱったり来なくなりました。治療を中断してよい患者ではないのです。来ないことに看護婦が気づいて、みんなで心配し、往診の途中にカルテの住所を訪ねてみることにしました。

 ところが、その番地のあたりは大きな農家ばかり。なかなか住所がわかりません。ようやく探し当てたのは、ある農家のニワトリ小屋でした。もうニワトリはいませんでしたが、トタン屋根の金網をはったニワトリ小屋のなかに、戸板をおき、その上にせんべい布団を一枚しいて寝ていました。やせこけて変わり果てていましたが、本人に間違いありません。もうあまり長くない顔つきでした。相変わらず垢にまみれた手ぬぐいを首に巻いています。「もういいよ。わかっているから、手ぬぐい取れよ」と行っても、首を横に振ります。

「10 孤立無援の被爆者たち」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/2(金)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<孤立無援の被爆者たち> ※22回目の紹介

2015-09-30 22:10:20 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。22回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<アメリカによる原爆被害の隠蔽> ※21回目の紹介

 10 孤立無援の被爆者たち

  国立病院労働組合の専従として東京にやってきて、杉並区に六畳一間を間借りして住んでいたときのことです。夜中に訪ねてきた人がいました。戸を開けると、男がうずくまっています。私を見上げて、「広島の肥田軍医殿ですか」と小声で聞いてきます。「そうだ」と答えると、少し安心した様子で、広島の被爆者であると名乗り、今日、相談に来たことは絶対に誰にも言わないでほしいと何度も何度も繰り返して、ようやく話し出しました。

「原爆後、職がなく、上京してニコヨンとして働いている。月に16日働けば日雇い健康保険が使えるが、被爆してからずっと身体が悪くて、先月は13日しか働けなかった。医者に行くお金がない。働いてかならず払うから、後払いで診てくれる国立病院を紹介してほしい」

 私が国立病院労組の副委員長をしていると知っての頼みでした。ニコヨンというのは、日当が当時240円で、公園の掃除や道路工事などの失業対策事業で働く日雇い労働者のことです。240円の賃金から「ニコヨン」と呼ばれていました。16日働いて手帳にはんこともらうと、日雇い健康保険で無料で医療を受けられますが、一日でも足りなければ日雇い健康保険は使えません。

 当時はまだ国民皆保険ができておらず、結局、現金がなければ医者にかかれないのです。被爆者の多くが貧困のなかにいました。それも単なる貧乏ではありません。ひとつ間違えれば、餓死するほどの極限の貧乏です。実際、住む家も仕事もなく、家族をみんな失って一人ぼっちになった被爆者が、餓死したのを診た覚えもあります。

「10 孤立無援の被爆者たち」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、10/1(木)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<アメリカによる原爆被害の隠蔽> ※21回目の紹介

2015-09-29 22:11:30 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。21回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかっ た からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<アメリカによる原爆被害の隠蔽> ※20回目の紹介

 2週間後、総司令部から呼び出されました。「資料の公開は不可能である。総司令部で調査の結果、被爆者の調査資料を隠蔽した事実も、学会の研究を禁止した事実もまったくなく、事実無根である。したがって今後、そのような言動はいっさいしないように。万一、そのようなことを話すときは、その責任はお前がとらねばらない」と、慇懃無礼(表面は丁寧で礼儀正しく見えても、実は尊大で無礼なこと)に威嚇されて帰りました。猛烈に腹が立ちました。

 ちょうどそのころは朝鮮戦争が始まる直前で、総司令部が右傾化した時期でした。占領直後、総司令部は日本を民主化するという任務もあって、労働運動や農民組合づくりを応援するなど、リベラルで民主的なメンバーが総司令部にいましたが、朝鮮戦争を始める直前からの日本の占領政策が変わり、日本に芽生えたさまざまな民主的な運動をしめつける方向に大転換したのです。

 ※朝鮮戦争・・・第二次世界大戦の終結後、朝鮮半島は南北に分断された状態でした。1950年6月、武力による南北朝鮮の統一をめざした北朝鮮の軍隊が、南北の境界線になっていた北緯38度線を超えて、韓国に侵攻して始まった戦争。激しい戦闘の末、1953年7月に休戦協定が結ばれました。

 アメリカが落とした爆弾のせいで、たくさんの人がとても人間の死とは言えないような酷い死に方で死にました。それは決して許せないことです。さらに許せないのは、あの地獄のような爆発をくぐりぬけ、なんとか助かっている人が診断もつかず、治療法もわからない病気で苦しんでいるのを、捨ておこうとしていることです。日本の学者が苦労して調べた資料も没収し、研究を禁止した上、日本の医師の協力要請を拒否する。原爆被害に関することはすべて軍事機密としたアメリカの理不尽な傲慢さに、腹の底から憤りが燃えあがりました。

 国立柳井病院で院長から指示されたことをすでにお話ししましたが、アメリカの命令によって、被爆者は広島、長崎で見たり、聞いたり、体験した被害を書くこと、語ることのいっさいが禁止されました。違反を取り締まるため、名前が出た被爆者には私服の警官がつきまとい、労働組合にいた被爆者には米軍の憲兵が監視につきました。これは占領が終わったあとも日本政府によって引き継がれ、被爆者の監視が長く続いたのです。

 これによって被爆者を差別する風潮が広がり、被爆者の多くは孤立して生きざるをえない状況におちいります。警察に監視されるような危険人物には近寄らないほうが安全という保身と、被爆者から病気が移るという噂にまどわされた無知からの差別でした。

 被爆者は自分の被爆事実を隠しました。被爆したことが知られると、就職、結婚することが困難になるからです。こうした差別は2世、3世の世代まで続いています。

 この意味で、アメリカが戦略上、原爆の医学的被害を長期にわたって隠蔽した罪はこよなく大きいと思います。

「9 アメリカによる原爆被害の隠蔽」は、今回で終わり、次回は「10 孤立無援の被爆者たち」)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/30(水)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<アメリカによる原爆被害の隠蔽> ※20回目の紹介

2015-09-28 21:59:58 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。20回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかった からです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱 が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<アメリカによる原爆被害の隠蔽> ※19回目の紹介

 1949年が明けてすぐ、私は三宅医師の依頼のことで厚生省に出かけました。当時の厚生大臣は林譲治という人で、私は労働組合の団体交渉でしょっちゅう会っていましたから、このときも、労働組合の役員としてではなく、医師として頼みたいことがあるので短時間会ってほしいと言うと、林大臣はすぐに会ってくれました。当時、厚生省は三宅坂の元陸軍参謀本部の建物の中にあり、いつ行っても汚くてみすぼらしかったものです。占領下の日本政府の、それも厚生省などには誇示しなければならない権威もありませんでしたから、始終会っている人間には気安く対応してくれました。

 私は、米軍が持っている原爆被害の調査資料を公開し、ABCCが治療もおこなうよう、総司令部に嘆願してほしいと頼みましたが、「そんなことできない」と言下に断られました。”天皇陛下でもマッカーサー総司令官には簡単に合うことができないのに、そんなことができるか”、と動こうとしません。それでも根気強く頼むと、「そんなに言うなら、厚生大臣の代理と名乗ってお前が行け」と言うので、乗りかかった舟というわけで、私が総司令部に行くことになりました。

 翌日から私は総司令部の医療関係者に会うため、日比谷に通うことになりました。日比谷交差点の角にある、総司令部がおかれた第一生命相互ビルには、星条旗がひるがえっています。正面玄関に衛兵が立っていて、「軍医に会いたい」と伝えると、何かベラベラと英語で言われて、早口でよくわかりません。そのうちに「予約はあるか」と聞かれていることがわかり、「ない」と答えると門前払いです。もとより覚悟の上なので、翌日また出かけました。

 戦争中、陸軍病院にも面会禁止の兵士に会いに来る家族がいて、衛兵は断るのですが、何度もやってきて顔なじみになるうちに人情が通って、中に入れてやることはできないけれど、相手の兵士を営門までつれだして会わせていました。一目会いたいと願う家族があみ出した奥の手でした。それを知っていたので、何回も通えば道は開けると思いました。

 同じ衛兵と3度目に顔を合わせたとき、「用件はなんだ」と聞いてくれ、「医者に会いたい。大事な用だ」と言うと、「つれてきてやる」と、若い軍医に会わせてくれました。準備した英語のメモに身振り手振りを交えて、調査資料の公開と治療の依頼を伝えます。ところが、原爆関係は軍事機密で、その問題は自分の権限外だと言うのです。それでもせっかく来たのだからと、要望の点は調べて返事をくれることになりました。

「9 アメリカによる原爆被害の隠蔽」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/29(火)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<アメリカによる原爆被害の隠蔽> ※19回目の紹介

2015-09-25 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。19回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあたり、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされていません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<「ピカにはあっとらん」人が死んでいく> ※18回目の紹介

 9 アメリカによる原爆被害の隠蔽

 1947年からは、私は東京へ出て、国立病院労働組合の専従役員として活動していました。開設後間もない1946年1月には国立柳井病院にも労働組合が結成されて、何もわからないまま役員をやっていたのですが、東京の本部から執行委員を派遣するようにとの依頼があり、上京したのでした。そんな私のところに、広島県の五日市で開業員をやっている母方の叔父・三宅坦医師からめずらしく手紙が来ました。1948年12月のことでした。

 三宅医師は整形外科医で、広島の被爆者をたくさん診ていました。私の知っている被爆者のなかにも、三宅医師のところでガラス片をぬいてもらったり、ケロイドの治療をしてもらった人がいます。

 その三宅医師が、私が労働組合の役員をしていることを知って、送ってきた手紙には、つぎのように書いてありました。

 「近くアメリカのABCCが広島に病院を開くが、被害の調査研究だけで治療はしないらしい。占領軍は日本の医者や学者が被害者を医学的に調べたり、医学的被害を研究することを好まないように見える。医師会の幹部もアメリカの指示には逆らわず、被爆問題には深入りしないようにつとめている。疑問に思うが、ものを言う場がない。厚生大臣に頼んで、医師が原爆被害の研究・調査を自由にできるよう、また米軍が持っている医学的資料を現地の医師に公開するよう、占領軍総司令部(※)に陳情してほしい。ただし三宅の名は絶対に出さないこと」

 このなかに出てくるABCCというのは、アメリカが作った原爆障害調査委員会(のちに放射線影響研究所)とよばれる機関のことで、1947年、広島・長崎両市に設けられました。その後、広島のABCCは、1951年に市内比治山の高台に研究施設を建設し、そこに移ります。原爆の人体への影響を長期的に調査することが目的で、被爆者の治療にあたることはありませんでした。

 ※占領軍総司令部・・・GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)とも呼ばれました。その主力はアメリカ軍でした。

「9 アメリカによる原爆被害の隠蔽」は、次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/28(月)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<「ピカにはあっとらん」人が死んでいく> ※18回目の紹介

2015-09-24 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。18回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<「ピカにはあっとらん」人が死んでいく> ※17回目の紹介

 旦那さんのほうはというと、8月6日の当日、早く出勤して県庁の地下室で書類の整理をしていたそうです。そのときにいきなり天井が落ちてきて下敷きになり、右大腿を骨折。骨が外へ突き出るほどの大ケガをしました。まわりにいた仲間がみんなで担ぎだしてくれ、火が出始めた市内から逃げおおせて、親戚だったこの家の土蔵にやってくることができました。衛生兵が回ってきて、その当時は包帯もなかったときで、骨が突き出た太ももを、無理やり足を引っ張ってもとに戻し、ぼろ切れを巻いて、竹の棒をあてて荒縄でしばってもらったそうです。「そのうち骨がくっつくから、歩けるようになったら這ってでも帰れ」と言われて、あとは何もしてもらえずじまい。寝ているところに、奥さんがたどり着いたということでした。

 衛生兵の手当はかなり乱暴だったように聞こえますが、これは副木治療という応急手当です。

 そして、奥さんは旦那さんを看病したり、まわりの重傷患者の治療や介護を手伝ったりしているうち熱が出て、紫斑があらわれたのです。私には何が起こったのか、わけがわかりませんでした。

 そうしているうちに、奥さんはどんどん悪くなって、出血が始まりました。血をはく。下血する。髪の毛が抜ける。県庁で原爆にあった旦那さんのほうは大腿骨折以外はなんともないのに、原爆が落とされてから1週間後に松江から出てきた元気な奥さんのほうがおかしくなっている。直接ピカを浴びた人とまったく同じ症状の経過で、奥さんは亡くなりました。身動きできない旦那さんが必死に名を呼ぶ声も届かず、抜け落ちた黒髪を真っ赤な血で染めながら ー 。

 似たような症例は1人や2人じゃありません。死亡した例は戸坂村では3、4例でしたが、発病者は多数ありました。

 もう1人、例をあげましょう。

 私は広島に赴任して以来、何かと世話になった友人の親戚で、中島さんという人がいました。中島さんは釣りが大好きで、8月6日の早朝も、市街から60キロメートルも離れた大畠(山口県の南東部にあった町。現・柳井市)の海に舟を出して釣りをしていたそうです。奥さんは家の納戸で探しものをしていました。そのとき、原爆が落とされます。新築の自慢の家だたためか、爆心から1・2キロメートルの距離にもかかわらず、家は倒壊をまぬがれ、奥さんはかすり傷一つ負わずにすみました。ですが、隣の家から出た火に追われて、奥さんはにぎつ神社下の猿猴川の河原に逃げ、そこで一夜を明かします。

 中島さんが、広島が大きな被害を受けたと聞いたのは正午近くでした。半信半疑で汽車に乗ったものの、五日市で下ろされ、それから先は不通。行く手に巨大なきのこ雲を見ながら線路伝いに広島にむかいます。到着したときには、夜空を真っ赤に火柱が染めていました。どこをどう歩いたのか、奥さんらしい人を見かけたという人の話をたよりに訪ねまわって、ようやくにぎつ神社にたどり着き、猿猴川に半身をつけ震えている奥さんを見つけたのは翌日の早朝近く。その日、2人は戸坂村に私がいることも知らないまま、太田川をさらにさかのぼり、親戚のいる町に避難したそうです。

 戸坂小学校が授業を再開するというので、戸坂分院を閉鎖するとの方針が伝えられ、移転先の交渉やら何やらで忙しく駆け回っていた私のところに、突然、中島の奥さんがあらわれました。あまりにもやつれていたその姿にはじめは誰ともわかりませんでしたが、奥さんからご主人が亡くなったことを告げられて、2度、驚かされました。

 親戚のいる町に落ち着いて間もなく、熱が出始め、紫斑があらわれ、下痢がつづいたので病院に行ってみると、そのうちに鼻血と血便がつづき、そうしているうちに髪の毛が抜け、最後は大量に血をはいて亡くなったのだと言います。爆発のとき、中島さんは60キロメートルも離れた海で釣りをしていたというのにー。

 いまから振り返ると、後から市内に入った人たちに現れた急性の症状は、爆発後あちこちに残っていた放射性物質を体内に取り込んだことによる内部被曝が原因かもしれないと疑われるのです。もしかすると、昔から病気があってそれがたまたまその時に発症して死んだのかもしれません。確証はないのです。

 当時、日本にやってきた占領軍は私たち広島の医者に、放射能症の記録をとってはいけないと命令していました。私が目撃した出来事ーピカにあっていない人たちが、なぜピカにあった人たちと同じ症状で死んでいったのか、それを十分に検証する術は、当時、残念ながらありませんでした。

(「7 「ピカにはあっとらん」人が死んでいく」は今回で終わり、次回は「9 アメリカによる原爆被害の隠蔽」)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/25(金)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<「ピカにはあっとらん」人が死んでいく> ※17回目の紹介

2015-09-18 22:00:28 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

◎読者の皆様へ 

「つぶやき」の記事は、9月21日(月)~24日(木)は休みます。

『被爆医師のヒロシマ』の紹介は、9月21日(月)~23日(水)まで休みます。

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*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。17回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<未知の症状で死んでいく被爆者> ※16回目の紹介

 その日、朝はなんとも変わった様子はなかったのですが、午後の回診時に、土蔵の隅にきれいな着物を来た女性が横たわっていました。来ている衣類を一目見て、被爆者でないとわかります。隣に寝ていた重傷の兵士(彼はこの3日後に死にました)が私のズボンをつかんで、「軍医殿、お忙しいでしょうが、この奥さんを診てあげてください。熱を出しているから」と言います。昔の人は親切ですね。当の女性は仰向けになって寝ているだけで、何にも言いません。きっと気分が悪かったのでしょう。

 私は不眠不休でろくに寝ていませんでした。「忙しいのにカゼぐらいで」と内心では思いながらも、女性の口を開けて喉を見、胸元に聴診器をあててみます。

「カゼだろうから、これを飲んで寝てなさい。2、3日で良くなる」と、解熱剤を一包み渡して帰りました。

 その女性は、3日間、寝ていました。私はたいしたことないと思っていたので、その間、特に気にもとめませんでした。4日目の朝、まだ寝ているので、さすがにそばへ寄ってみたら、着物の襟の合わせ目からのぞく白い肌に、紫色の斑点が出ているではありませんか。「これは!」と驚き、「奥さん、どうしたんですか」と訪ねました。

 奥さんが語ったのは次のような事でした。

 「1年前の7月、松江市で島根県庁職員の主人と結婚。主人がすぐに広島県庁に転勤になったので、宇品に住まいをかまえました。1年たった今年の7月始め、臨月になったので、松江の実家に帰り、出産しました。8月7日、ラジオは『広島市にB29が新型爆弾を落として相当な被害が出た模様』と報じたきり、それしか言わない。新聞にも同じ文句が書いてあるだけ。心配していたら、広島から松江に逃げてきた人が『広島は全滅して誰も生きていない。家は全部焼けた』と言うではありませんか。驚いて13日に五日市(爆心地から12キロメートルほど西に離れた町)の友人の家まで出てきて、毎日、広島の焼け跡を探し歩きました。生きていればどこかの村にいると聞き、20日にようやく戸坂村で主人に会えました」

(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/24(木)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<「ピカにはあっとらん」人が死んでいく> ※16回目の紹介

2015-09-17 22:08:57 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。16回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎<未知の症状で死んでいく被爆者> ※15回目の紹介

 7 「ピカにはあっとらん」人が死んでいく

 5つの症状を発症してから死んでしまう被爆者の数は減る様子もありませんでした。けれど、発病から死亡までの時間は、少しずつ長くなっていったように思います。

 8月も下旬になると、戸坂村に集まってくる被爆者もさすがに少なくなり、戸坂村にいた被爆者たちは、近くの縁者を頼って出て行ったり、日本海側にある病院に運ばれていったり、はかなくも亡くなったり、急速に減っていきました。四国や九州の部隊から応援に来てくれた軍医や看護婦たちもつぎつぎと出身部隊に帰っていきます。一時は3万人をこえたと言われるほど、人口が急激にふくらんだ戸坂村も、もとの静けさを取り戻しつつありました。

 しかし、まだ動けない患者や帰りたくても帰る場所のない人など、150人くらいが戸坂村に残り、診療が続いていたなかで、被爆の当日、広島にはおらず直接、原爆にあっていないのに、被爆者と同じ症状になって死ぬ人があらわれました。私たち医師は動転しました。

 話はもどりますが、被爆の翌日から広島市内には、肉親や知人の安否を訪ねる人たちがたくさん入ってきました。焼け跡を探し歩くのです。あちこち探しまわるうちに、「もし生きていれば、負傷者は近くの村々に収容されている」と聞きおよんで、私がいた戸坂村にも毎日、たくさんの人が肉親、知人を探しに訪ねてきました。

 訪ねてきた人は大きな声で「○○さーん」と名を呼びます。顔に火傷を負っていて見分けがつかない人が多いわけですから、名前を呼んで探し歩くのです。まれにめぐり会える人もいるし、「▲▲さんは、■■で見た」と消息をのわかる人もいました。けれども、むだ足をふんで次の村に移っていく人が多かったようです。

 被爆をしていないのに、被爆者と同じ症状を出した症例に出会ったのは、被爆してから2~3週間ほどたって、ある日の午後でした。

 ムシロをしいてヨシズの日よけがあるきりでしたが、こうした病室は村中のあちこちにありました。私たち医者はいくつかの区域に分けて受け持つ病室を分担し、毎日、看護婦を連れて回診していました。私の担当している区域のなかに、屋根の一部が壊れた土蔵があって、その中は涼しいので重傷の患者7~8人を入れていました。そこを1日2回、朝と昼に回診するのです。

(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/18(金)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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