*『死の淵を見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。69回目の紹介
『死の淵を見た男』著者 門田隆将
「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」
それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)
吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。
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**『死の淵を見た男』著書の紹介
第22章 運命を背負った男
「チェルノブイリ事故×10だった」 P354~
2012年2月7日、食道癌の手術をおこなった吉田は、その抗癌剤治療で吐き気や嘔吐に苦しみながら、なんとか回復の道を辿っていた。だが、7月26日に脳内出血を起こし、その後、2度の開頭手術とカテーテル手術も一度受けるという厳しい闘病生活を続けている。
洋子夫人が言う。
「食道癌の手術は、肋骨を1本外しておこなう10時間近い大手術になりました。そこで一度退院してから、今度は、脳内出血で倒れましてね。その姿をみながら、どうして、パパはこんなにひどい目にばかり合うんだろう、神様に嫌われちゃったのかしらって、正直、思いました。あれだけパパは頑張ったのに、と。でも、こういう人が、あの時に福島にいたっていうのは、やっぱり運命だったのか、とも思います。
なぜ、一億3000万人中でパパが選ばれたのかしら、と思った時、若いころから、運命を受け入れることをずっと言い続けた人だったので、こういうことがやっぱり決められていたんじゃないかしら、と。主人は、私の前で、弱音とかを吐いたことがない人なのでわかりませんが、あの事故の時、現場に残る人たちを分別する時に、まだお若い方や女性の方とか、(免震重要棟の中には)沢山いらっしゃったので、主人の胸の内はどれだけ苦しかっただろう、と思います」
その吉田所長が私の取材に答えてくれたのは、食道癌の手術が終わって、脳内出血で倒れるまでの短い期間、2012年7月のことだった。
長時間に及んだ取材の中で、最も私の心に残ったのは、吉田が、想定していた「最悪の事態」について語ったことだった。彼の頭から離れることがなかったのは、自身が背負わされていたものの”大きさ”にほかならなかった。
「格納容器が爆発すると、放射能が飛散し、放射線レベルが近づけないものになってしまうんです。ほかの原子炉の冷却も、当然、継続できなくなります。つまり、人間がもうアプロ―チできなくなる。福島第二原発にも近づけなくなりますから、全部でどれだけの炉心が溶けるかという最大を考えれば、第一と第二で計10基の原子炉がやられますから、単純に考えても、”チェルノブイリ×10”という数字がでます。私は、その事態を考えながら、あの中で対応していました。
だからこそ、現場の部下たちの凄さを思うんですよ。最後まで部下たちが突入を繰り返してくれたこと、そして、命を顧みずに駆けつけてくれた自衛隊をはじめ、沢山の人たちの勇気を称えたいんです。」(略)
※『死の淵を見た男』の紹介は、今回で終わります。
次回から『リンゴが腐るまで』(原発30km圏からの報告-記者ノートから-)の紹介を始めます。
2016/6/8(水)22:00に投稿予定です。
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