台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台北州 (基隆郡瑞芳庄火庚子寮163番地) 瑞芳社 

2011-01-15 00:42:58 | 台北州
鎮座日:明治39年(1906年)5月28日  祭神:金山彦命、金山姫命  例祭日:5月28日  社格:社
鎮座地:基隆郡瑞芳庄火庚子寮163番地                      
現住所:台北県瑞芳鎮崙頂路145(九份国小裏山)

 2009年4月の調査ではこれまで数度に渡って筆者の研究調査にご協力を頂いた蔡英清さんにご足労を願い、台陽股份有限公司の江兩旺さんにお会いすることが出来た。江兩旺さんは平成19年(2007年)、日本の映画会社Creative21によって作製・上映された「風を聴く~台湾・九份物語」ドキュメンタリー映画の主人公でもあった。思いがけない出会いに驚きながら、予てから鎮座地が不明であった瑞芳社についてお聞きした。すかさず、瑞芳鉱山の地図を取り出し、瑞芳社の鎮座地である「火庚(火へんに庚)仔寮(こうしりょう)163番地」は当時の九份公学校裏あたりと指差した。間違いなく火庚仔寮163番地は地図上にあった。日本統治時代、九份全体が「火庚仔寮」と呼ばれていたのである。
 九份は一般的に「九份仔」と呼ばれた。台湾語の「仔」は接尾語で少ないとか小さいという意味である。当時は9戸の家しかなかったことから名づけられたとのこと。1893年に基隆河で偶然砂金が発見されるやいなや今まで静かだった九份が一夜にして慌しくなった。日本政府による施政が開始されるとともに、台湾総督府は植民採金制度を導入した結果、金鉱の開発をさらに煽ることになった。そして台湾各地で激しい抗日運動が起こっていることもあり、鉱山は一時閉鎖となる。台湾総督府は基隆山を東西の境界線で分け、金瓜石鉱山を田中長衛兵率いる田中組に、この九份鉱山は大阪の政商・藤田伝三郎に任せた。藤田伝三郎は明治政府の軍の輜重(しちょう)用達で急成長し、明治14年(1881年)に藤田組を創設した。汽船・鉄道・紡績など幅広い経営を行い、巨大な富を築くと共に日本国内の小坂鉱山を政府払い下げで手に入れた。その中で瑞芳鉱山や九份鉱山も手に入れた。       
 藤田組による金の採掘が明治29年から始まったが、経営不振などが原因で小粗坑および大粗坑の金鉱採掘権を顔雲年に委譲した。第一次ゴールドラッシュが起こった大正6年(1917年)の翌年に顔雲年は九份鉱山の経営権を掌握し、大正9年(1920年)に台陽鉱業株式会社を設立した。九份鉱山の産出高も1.7トンになり、九份の街も大いに繁栄した。昭和13年(1938年)の第二次ゴールドラッシュには九份鉱山の産出高も最大の1.7トンの採鉱量を記録したという。しかしながら節度の無い採金により鉱脈は枯渇し、1948年に台陽鉱業株式会社から台陽公司と社名を変えた台陽公司も1971年に操業を中止し、黄金の歴史は幕を閉じることになった。閉山後は衰退の一歩をたどったが「悲情城市」の映画で再び一躍有名になった場所である。また、最近ではアニメ映画「千と千尋の神隠し」のモデルになった街である。数々の店が並ぶ入口から続く細長い道と石段に沿って所狭しと建て並ぶ商店街とその狭間に見られる御茶屋は九份の街が華やかなりし頃の歓楽街の一部である。いまだ歴史を伝える街として残っている所である。
 瑞芳社は「吉原先生記念碑」とともに現在の九份国民小学校禮堂の後方にあった。吉原先生と言うのは九份公学校の初代校長である。一般には台風の襲来で亡くなりその吉原校長を記念して建てられたのが「吉原先生記念碑」となっているが、九份国民小学校に残されている「学校沿革史」によると昭和元年2月に暖暖公学校に赴任している。記念碑には下記の通り刻まれている。
職員
故吉原末太郎之碑
    同窓生
    昭和三年三月二六日
    九份公学校同窓会敬立
    昭和十四年二月二一日再建立
神社の遺跡を示すものは一切残っていない。本殿・鳥居および一対の石燈籠からなる規模は小さい神社であったという。祭神は冶金の守護神としての大国主命、金山彦命そして猿田彦命であり、冶金(やきん)とは、鉱石からの金属の抽出(精錬および製錬)と金属の加工に関する技術のことである。




神社はこの吉原先生の記念碑の裏辺りにあった

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