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岩波講座 『天皇と王権を考える 1 人類社会の中の天皇と王権を考える』 2002 岩波書店

2013年02月01日 | 旧刊書遊記

岩波講座 『天皇と王権を考える 1 人類社会の中の天皇と王権を考える』 2002 岩波書店

この巻は岩波講座 『天皇と王権を考える 1 人類社会の中の天皇と王権を考える』 と題してこのシリーズの最初の巻になる。総論的な、網野善彦の「社会・国家・王権」を巻頭に、第一部は日本の天皇制に関わる論、二部に世界のさまざまな王権の考察が収められている。5世紀を中心とした、倭国の王権を読み解くための手がかりとなる視角を専らの収集目標。この巻の第二部に収められている樺山紘一の 「ヨーロッパの王権」 が目にとまった。

王権を読解する序論の序論にあたる 網野善彦 「社会・国家・王権」の指摘ピックアップ

「 「戦後歴史学」がもっぱら権力者としての「天皇を批判的対象としていたこと。中世後期から近世にかけての実質的権力を持たない天皇に関する研究は70年代まではほとんどなかった。」

しかし1980年代に入り、歴史学が大きく転換しはじめ、単純な進歩史観や、一国史観、さらに権力者による被支配者の抑圧にもっぱら焦点を合わせた社会・歴史に対する批判と反省が深化する」 」

社会と「王権」に関して

「古代以来、共和制「、民主制の国家が少なからず存在した、事実。」

「国家」と「王権」とは深い関わりを持っているとしても、それぞれ、独自に追求される必要がある。実際、王権の出現は国家の成立と切り離し難いことは間違いないが、逆は必ずしも真ではない。」

「定義の仕方にもよるので、一概には言えないが、王権の源流が人類の歴史とともに古い大小さまざまな社会集団の長ー族長・首長にあることはいうまでもなく、これらの首長の中の首長とでもいうべき最有力者が、「王」となるのがふつう   しかしそうした首長と平民=一般人民、また首長相互の関係は、時代や、地域によってきわめて多様であった。例えばこれまでも 民会 の有無に即して論じられることがあったが、一般人民による首長の 権力 の制約が貫徹した場合には、ついに、「王」 も 「国家」 も生み出すことのなかった、社会集団が間違いなく存在した 」

 樺山紘一 「ヨーロッパの王権」 のピックアップ

帝国と王権 に関して

「多数の国家や王権の存在にもかかわらず、それを超越したかたちで存続した帝国、および皇帝の意味と機能」

「ヨーロッパにおける帝国の要件、1 ローマ帝国の権威を受け継いでいること、正統性。 2 普遍性、帝国とは、地上のさまざまな政治権威を超越して、あらゆる土地と人民とを統治する主体のこと。 いかんる例外も許容しない。 3 神聖性 帝国もしくは皇帝には聖なる性格、キリストにかかわる特殊な権能。歴史的には、カール大帝への戴冠をときの教王レオ三世によって施行。」

権力の専有と分有 に関して

「ヨーロッパの歴史学は、かねて王権について、これを一定地域のあらゆる統治権力を専有する唯一の権力として純化する傾向にあった。」

「すべての権力が、王権に集中され王はその意志によって、専制的に統治するのだという臆断である。その成立事情については、十分に事情を推察することができる。近代の歴史学は、それに先行する時代の専制王権を打倒することから始まったからである。」

「王権理念それ自体が成立しがたいことが、しだいに明白になってきた。」

「封建社会に関する歴史学の理解は、なににもまして集権的・統合的な中央権力の不在を前提としている。・・・・・・割拠勢力もまた、自力では、十分に統治を完結しえず、さらに、下位の権力、もしくは、軍事的実力に支配を委託せざるを得ない。このような政治支配のアナーキー状態を封建制とよんだ。」

「中世社会にあっては、統合権力の欠如が優越しており、国王を自称するものであっても、実質的には、いかなる意味でも本来の王権を帯びてはいなかった。」

「あえて誇張すれば、封建社会にあっては、王権は存在しえないのであり、中世国家という呼称すらもフィクションというべきである」

「王権はたしかに社会構成上は、最上の段級に置かれているとはいえ、じつはその階層構造を支える堅固な組織の中に密封されている。・・・・社団的構成。」

「王権はその社団組織との間で確実な合意をとりつけたうえでのみ、主権の体現者を名乗ることができる。」

絶対王政

「名目上は国家の最上位に君臨しながらも、決して単独では軍事権も、財政権も行使し得ず、神授性すらもその文脈のうちにおいてのみ限定して自称できる。」

王権

「王権という概念に対して、単独で権力を専有する政治上の存在と規定するならば、そのような王権は、すでに消滅している」

このような整理をした上で樺山はこれからの王権論の分析に、提案をおこなう。

「王権をして権力や権威を社会のうちの諸勢力と分有する統治の形態とみなし、あらためて分析の対象に据える」 こと。

 「王権や国王の地位は、あくまでも社会総体のうちで、、多様な依存関係の網目のなかに置かれている。」

「王権」や王室という名で、総称しているものすら、単一の主体として扱うことが著しく困難であることに気づく。いかなる王政にあっても、王は、単独の支配者ではなく、王室という集団の中に位置し、王妃や、王太子、王族側近たちによって、実質上の権力分有を受けている。それらの機構を正確に分析することなしに、権力の専有と分有の構図は解明されない。いまだ、歴史学は多様な課題を負っている。」

儀礼と象徴 に関して

「儀礼はひたすら盛儀を追求し、臣民に対しては娯楽性を兼備した、集団祭典の様相をも呈するようになる。ルネサンス時代以降にあっては、儀礼は祝祭としての性格を持ち始め、王国という構成をもたぬ都市国家であっても、市民にとっての共同性の担保に供される。」

「ルネサンスの王権 宮廷芸術家 、建築・美術・音楽・演劇 多分野に渡り、芸術の創造場となる。芸術を産み落とした功績だけではなく、・・・ルネサンスの王権は、諸分野の芸術によって装飾を与えられ、さらにそれゆえに、権力そのものの審美性や荘厳さが保証しえた・・・」

「王権は儀礼によってと同じく、芸術によっても、統治能力を証明してみせた」

 

以上今回は序論の巻にあたる1巻のうちから、倭の古代王権の分析に役立ちそうな視点をメモ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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