▲ 『国文学』ー解釈と教材の研究ー 学燈社 1985年3月号 当時定価790円
『国文学』ー解釈と教材の研究ー 学燈社 という雑誌があった
そこにはJAZZも中上健次も村上春樹も前田愛もいた
『国文学』という雑誌があった。そこにはJAZZも中上健次も村上春樹も前田愛もいた。
日本経済が破綻したのち、全国にあった文学系特に国文系の大学の学科は極端に少なくなりそれが廃刊の理由ではないとはおもうが。大学でのレポートを書くには格好の素材を提供していた。好きな作家を過去に遡って詳しく調べようか、という時にお世話になった人もいるのじゃないだろうか。学生時代は時に気に入った作家の本を探すのに、今のようにインターネットはなかった。ので、直接大型書店で探すか、基幹の図書館で、図書カードをめくるのが当たり前だったのだが。現在では、インターネット情報だけで、レポートを仕上げてしまう人もいると聞く。『国文学』ー解釈と教材の研究ー 学燈社は2009年に廃刊、その後、同系の『国文学 解釈と鑑賞』至文堂も休刊している。
日本文学についての一般的な研究誌は、会員制の国語学の専門誌を除けば、岩波書店の『文学』くらいになってしまった。
今や、ちょっと前の渋い作家のことを調べるには、古書店の棚を探すことが必要になってきた。
しばらく前に、柄谷行人と中上健次による小林秀雄をめぐる対談のことについてブログで書いたことがあった。その折り、我が家の本棚を探してみたところ、雑誌の『国文学』学燈社を10年ほど購読していた時期があることに気づいた。戦後の批評家で著名な作家は、ほぼ、全員が『国文学』誌に執筆していたのではないだろうか。なかなか組み合わせが珍しい作家の対談も含まれていて、今読んでも面白いものがあるのだ。
このブログでは火薬くさいものが続いたので、このテーマはちょっと一休みして、今日は昔、1985年3月の『国文学』「中上健次と村上春樹ー都市と反都市 の紹介。
▲ 『国文学』ー解釈と鑑賞ー 学燈社 1985年3月号 目次
目次を見ての通り、なかなかの執筆陣なのだ。国文学と一応銘うっているものの、海外文学事情には由良君美ほか、映画欄では川本三郎が書いていた。
まだ1985年の春の段階では、中上健次も村上春樹も初々しさを保っている。いきなり殴りかかるような壮絶な論戦をやろうとしていないところがいい。それでも、「破壊せよとアルバート・アイラーはいった」という中上健次は、村上春樹の白人のジャズが好きだというジャズ嗜好を肴に、見えない論争が見え隠れする。
小野好恵はこの号で、「二つのJAZZ・二つのアメリカ」という、JAZZ論から二人を読解しているのも、この特集に花を添えている。中上健次も、小野好恵も、前田愛も立松和平ももういない。
前田愛の「僕と鼠の記号論」は、食事をめぐる記述から、村上春樹の小説の構造に迫り、あわせて、早稲田出身の立松和平のリアリズムに論が及んでいて優れた記号学的読解だった。
村上春樹ファンはもちろん、後から中上健次も発見してなかなかやるじゃないという人も、読んで決して失望させない特集号だったと思う。お薦めだ。
村上春樹と中上健次の対談のジャズの話しを再読しているうち、久しぶりにJAZZを聴きたくなり、今コルトレーンの、初リーダー・アルバム『COLTRANE』 PRESTIGE 7105とパド・パウエルの『THE GENIUS OF BUD POWELL』を聴き終えたところだ。
▲コルトレーン 『コルトレーン』
この中の2曲目 「コートに菫を」
と日本語には訳されているようだが「VIOLETS FOR YOUR FURS] は私の一番のお気に入りの曲となった。
https://www.youtube.com/watch?v=b4bTWo2HkzA
ジャズ入門したてだった頃、この曲を初めて聴いたとき、感動したものの曲名がわからず、長い間不明のままだったのだ。何かの折り、『JAZZ批評』誌だったと思うが、詩人の白石かずこが、コルトレーンの「コートに菫を」の曲について書いていた。その言葉は、何と私が聴いた曲のインパクトと同じだと思ったのである。その後まさしく私がぜひとも知りたいと探していた曲は、コルトレーンの「コートに菫を」だったのだ。
コルトレーンは、その後前衛の極限を旅していったが、このアルバムの写真のように、それは運命のようなものだ、まっすぐにしか歩めない人に、ちょっと休もうよと声をかけても、誰もそれを止めることなどできやしない。
晩年の曲から見ると、この曲はなお一層『コルトレーン』の、はにかみ屋の、うぶで純粋で、切なくて、稚拙な恋心と言おうか、青年が必ずや一回は通り過ぎていく通過儀礼のように、一瞬が刻印されているのだろう。春の儚い植物たち「スプリング・エフェメール」に比すべき、「青年の時間の刻印」がこの曲にある。
この曲を聴いた時、まるで私の青春の隠し事が大観衆の舞台で曝されているようで、鳥肌がたってしまったのだ。
1960年代末から、1970年代初頭にかけ、JAZZ喫茶は、怒りと希望と諦念と純粋とが互いにがっぷり四つの舞台を繰り広げていたのである。
中上健次も村上春樹も半世紀近い時を隔ててみれば、同じ1960年代の大気を呼吸して育った二人は、都市と反都市という異なる環境で育ち、全く違った文学者のように見えるのだが、今では、同じ双子の兄弟のように思える類似性も見えてくるのだ。
▲ 高円寺南エトアール通りにあった「サンジェルマン」と 神田の「響」 『JAZZ批評』誌1968年4月第3号から
1年ほど高円寺に住んでいて、散歩のぶらぶら歩きで見つけた「サンジェルマン」から私のジャズ喫茶通いは始まった。
▲ 渋谷道玄坂にあった「ジニアス」 パド・パウエルにちなんで店名をつけたのだろうか、店主に聞くのを忘れてしまった。
▲ バド・パウエル 『THE GENIUS OF BUD POWELL』
▲ 『JAZZ批評』1971年 9月 ジャズ喫茶広告欄より
現在営業しているのは、DUGだけのようだ。ヴィレッジ・ゲートや、ヴィレッジ・ヴァンガードの名も上に見える。
新宿DIGにはよく通った。ここで、ジャズ演奏家や、曲名を覚えた。たばこの紫煙で店内が、年中くもっていた。
▲上左は新宿「ポニー」、右は渋谷道玄坂にあった「音楽館」渋谷には道玄坂界隈にはもっとジャズ喫茶はあり、私はジニアスに通った。話しも出来る大型の店もあった、店名は忘れてしまったが、木馬だったように思う。
私語が禁じられている店が多いので、ジャズ喫茶は読書か、ジャズのお勉強。
友人との話がしたい時は新宿「木馬」か、水道橋の「スィング」、下北沢に「マサコの店」という一般住宅をそのまま喫茶店にしたような店もあった。降っても晴れても、1960年代後半から1970年代前半は、ジャズ喫茶通いなのだが、映画・読書の方に忙しくなると、高田馬場・早稲田界隈の本屋や、早稲田松竹・パール座の映画のはしごの後は、高田馬場の駅前付近に「あらゑびす」といったと思うがクラシックの店があり、読書がはかどった。勉強には、こちらの方がいいのがわかった。
つづく