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石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか 1-2

2016年10月23日 | 幕末・明治維新

              ▲『日本近代史の虚像と実像』 1 大月書店 1990年 定価1650円+税

 

石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか その1-2

 

 

石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか その1-2

今日は孝明天皇崩御に関わる本の紹介の2回目。

原口 清 「孝明天皇は毒殺されたのか」 の論文の入った本。藤原 彰・今井清一・宇野俊一・粟谷憲太郎編『日本近代史の虚像と実像』 1 大月書店 1990年 の紹介

前日、このブログで扱う「孝明天皇崩御に関わる本」の主要なリストを掲げていた。

再録すると以下のようである。

 

① ねずまさし  『天皇家の歴史』 三一書房 1976年

② 田中 彰   『明治維新の敗者と勝者』 日本放送出版協会 1980年 「孝明天皇毒殺事件」

③ 原口 清   「孝明天皇は毒殺されていたのか?」 『日本近代史の虚像と実像』に収録1990年1月 大月書店

④ 石井 孝   『近代史を視る眼』 1996年 吉川弘文館 Ⅲ 開国期の人びと 四「孝明天皇病死説批判」 1 原口清氏による病死説の難点  2 急性砒素中毒の症状 3 孝明天皇急死の背景

 

①のねずまさし の本は、まだ入手交渉中なので、あとで紹介するとして、この中では、原口 清と石井 孝間で、孝明天皇の死をめぐる論争をしている。この2人の論考を先にメモし、その後、戦後、孝明天皇暗殺説の論争の端緒を飾った、ねずまさし、田中彰の説を紹介してみたい。

1 原口 清 →  2 石井 孝 → 3 田中 彰  → 4 ねずまさし という順

 

まず、『日本近代史の虚像と実像』の目次を掲げる。

 

 

▼『日本近代史の虚像と実像』 目次1

 

 ▲ 『日本近代史の虚像と実像』 目次1

 

▼ 『日本近代史の虚像と実像』 目次2

 ▲ 『日本近代史の虚像と実像』 目次2

 

原口 清の「孝明天皇は毒殺されたのか」はこの本の47-62頁に収録されている。

孝明天皇の死

毒殺か病死か

医師が記す痘瘡の症状

天皇は痘瘡死だった

そのとき岩倉具視は

の5項目を掲げているので、この順序で、メモ抄録する。

 

1 孝明天皇の死

孝明天皇は、1867年1月30日(陰暦 慶応2年12月25日)死去。

以下陰暦で記しているのでそれに従う。

12月11日 臨時御神楽の儀式に出席。

12月12日 発熱

12月15日 手に一対吹出物、高熱、譫言、不眠、食欲不振

12月16日 顔にも吹出物、 宮中典薬寮の医師痘瘡と判断、典医一同正式に痘瘡 この日から15人が三班にわかれ、交代制で看護・治療にあたる。

12月17日 以後、「御日取り書」に記されたとおりの順調な経過をたどる。全快の日も間近いと思わせるものがあった。

12月25日午後11時ごろ、天皇は突然はげしい嘔吐・下痢をおこし、「御九穴より御脱血」『中山忠能日記』し、苦しみぬいて息が絶えた。

 

2 毒殺か病死か

戦後、言論・思想の自由回復で、民間には伝えられていた孝明天皇毒殺説が公然と語られるようになった。

吉田常吉 「孝明天皇崩御をめぐって」 『日本歴史』 16号 1949年5月

ここで、吉田は天皇の死因を出血性膿疱性痘瘡か、痘瘡性紫班病と推定。

ねずまさし は『孝明天皇紀』 、『中山忠能日記』そのほかの資料を詳細に検討、全快にも間近い時期に突然病状急変・死亡した点を重視、その末期の症状から砒素による毒殺と推定。天皇毒殺の首謀者を岩倉具視、直接の下手人を岩倉の実妹堀河紀子に寄る毒殺と推定。

坂田吉雄 h、1899年(明治32)『史談会速記録』中の山科元行(典薬寮医師)の談話紹介。「天皇が悪質の黒痘瘡で死亡」と証言したとする。

1975年ー1977年、孝明天皇侍医伊良子光順(みつまさ)の日記・メモが光順の曾孫光孝の解説つきで発表。一応毒殺と仮定した場合、天皇の死因は急性毒物中毒によるものと推定。

石井孝 は「反維新に殉じた孝明天皇」 『幕末悲運の人びと』 有隣堂 1979年

天皇の末期の症状と医学書にに記されている急性砒素中毒の症状と比較検討。12月24日夕刻に毒薬を飲まされたものと推定。直接の下手人が堀河紀子説は否定するが、岩倉具視首謀者説。

孝明天皇の死と岩倉具視がとは直接関係ないと見る見解は、大久保利謙 『岩倉具視』中央公論社1972

森谷秀亮 『岩倉具視関係文書』 八 「解題」などがある。

以上の各説は、原口清 によれば天皇の経過について、典医らの公式報告書をうのみにしていると指摘。

また、毒殺論者が、天皇末期の症状がなぜ痘瘡死に該当しないかという問題を掘り下げていないと指摘。

 

今回は原口論文の1-5のうち1-2まで、次回は 3 「医師が記す痘瘡の症状」 から

 

つづく

 



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