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私的読書年表小史 60年代後半~70年代 雑誌篇 その2の5

2015年04月16日 | 私的読書年表小史

                 ▲60年代後半~70年代の雑誌 

 

 

私的読書年表小史 60年代後半~70年代 雑誌篇 その2の5

 

 

                                                                                    ▲ 今回は『歴史と人物』 中央公論社から

 

私的読書年表小史 60年代後半~70年代 雑誌篇 その2の5

 

前回 写真の順序では右にある、『国文学』の雑誌2冊に触れたのだが、その左にある『歴史と人物』 中央公論社 を忘れていたので、今回はここからはじめる。

   

▲ 左から『歴史と人物』 

1975年11月 特集騎馬民族国家

1973年4月 山口昌男の「歴史・祝祭・神話」 358枚一挙掲載号 

単行本まるまる1冊分一挙発表した山口の力量に脱帽。学術論文風にしたら、査読の果てに何の取り柄もない駄文になっていただろう。山口昌男は物語作者としてこのような書き方が一番ふさわしい。

1979年1月 特集 謎の五世紀

▲ 『歴史と人物』 1979年1月 特集 謎の五世紀 の特集部分目次

この号は古代専門の雑誌を凌ぐ充実した内容の特集号だった。稲荷山古墳から出土した鉄剣は、銘文の発見と解読によって、日本書紀や、古事記の伝承ともリンクする史実を生のまま伝えた。、大学での机上の勉強が、自分にとって野のフィールドを獲得して、西郷信綱さんの『古事記の世界』や、甘粕健さんの「古墳時代論」の講義が、急に身近になってきたから不思議。稲荷山古墳の銘文解読の衝撃とともに、読書傾向も次第に古代史・考古学の資料収集にも向かうことになる。

倭の五王、稲荷山古墳鉄剣に関する、網羅的ではないが、それなりの文献表はここ▼

http://blog.goo.ne.jp/jfk1122zzzya/e/5f3b388662ed1c4dd584665961e745cb

http://blog.goo.ne.jp/jfk1122zzzya/e/0f271a6c22a79ee29d1d3a34247c3cf5

 

▼『海』1969年 夏創刊 中央公論社 1984年頃まで存続していたか。海外の文学紹介、特集号も多く、ベケット、ラテンアメリカ文学、ボルヘスなどここで紹介されて、読み始めた作家も多い。武田泰淳の「富士」が長期連載されていた。左下の1971年2月号には、ハンナ・アレントの「暴力論」、水野忠夫の「詩的言語のイメージ・・・マヤコフスキー・ノート」 右の1969年12月号にはJPリシャールの「方法としての<ヌーヴェル・クリテック>」、サミエル・ベケットの「名づけられないもの」が訳載されていた。1969年には青土社の『ユリイカ』も創刊されて、「フェリーニの道」で映画に開眼した素朴な田舎少年は上京した後、あらゆる表現のカオスの渦に飲み込まれていく。

 左1971年2月号、右1969年12月号

創刊記念号というのが、1969年の6月に出ているはず。海創刊にあたり世界の文学者、批評家に原稿を依頼し、寄稿してもらった20世紀後半の世界文豪・批評家名鑑?なかなか壮観な顔ぶれでした。残念ながら、創刊記念号、創刊号発掘中で未だ発見できず、いつかまた紹介することにする。それまで、創刊年の1969年の『海』の主要内容をどうぞ。

 

 

 

 ▲ 冬樹社 から発刊された、『カイエ』 この雑誌1978年7月に創刊号

足かけ3年?短命だったのだが、薄くもなく、厚くもなく、1月でちょうど読み終えて、次の号がちょっと楽しみになるという、ほどよい中身が身体の健康にいい。ラテンアメリカ文学の紹介も定期にあり、雑誌『海』とともに、70年代後半期の文学雑誌をおもしろくしてくれた。

1970年代後半の雑誌は、60年代末~70年代初頭の、異様な熱情はそれほど感じないのだが、身の丈にあった関心には、ぐいぐいと取り組む簡素な情熱があったといおうか。

今紛失して、1冊も保存していないのが残念なのだが、川本三郎や、青山南などが書いていたと思うが『ハッピーエンド通信』というクリーム色のアメリカ文学・文化に強い、ホッチキスで綴じたような薄い雑誌があった。年代的には、『カイエ』とだぶる時期に出版していたのじゃないだろうか。

もしかすると、家のどこかに、大型の本に挟まれて数冊くらい残っているとよいのだが、短いのに中身の濃いコラムがあったような記憶がある。一度手にいれようと、試みたのだが、高値の花になっていたので、すぐに入手を断念したのだが。もうすこし60年代末~70年代雑誌のことを詳しく書こうと思ったら、やはり『ハッピーエンド通信』のことを触れることになるだろう。

カイエのことを思い出すと、やはり『ハッピーエンド通信』を思い出してしまうのだ。

何かを友と行動を共にする場合でも、

「ぼくはこんなふうにやる方法がすきなんだけど、そしてぼくはこう考えるけど、きみはどう?」 というスタイル。

60年代末~70年代初頭の雑誌、あれやれ、これやれ、威勢がよかったのだが、割と命令口調のスローガンも多くて、拒否するはずの相手の論理と同じような、空疎な論も多かった。

1970年代中頃からは、確実に雑誌も変わりつつあった。また、雑誌を求める若者のライフ・スタイル、コミュニケーションの取り方、話し方、相手との距離感も変化が始まっていた。

これは、植草甚一が編集の『宝島』 JICC出版局 にも現れていると思う。

 『宝島』1975年3月号 JICC出版局 当時480円

 

 

  ▲ 『宝島』 1975年 3月号 通巻15号の植草甚一の巻頭コラム

ぼくは散歩が大好きのノリで、林達夫と久野収の連続対談集 『思想のドラマトゥルギー』1974年 平凡社  を書評していた植草甚一さん。こんな文章だったら、若者もその気になって買ってしまったのじゃないだろうか。

 

 

つづく 

 

    

 

 

 

 

 

 



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