5/23パワーリハ:謎の天才絵師:伊藤若冲(*^_^*)
おはようござい (*^_^*)
今日も、また、元気に楽しいパワーリハビリだ‼
今日も一日、この様に楽しくパワーリハビリが出来ることは、感謝であり、喜びである☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.☆
今日は、朝方からいい天気で6月並みの天気になり、昨日よりも晴れて夏日になる~(笑)(*^_^*)
気温は、27-15度である(*^_^*)
今日も、熊本の方々には、申し訳ないが、リハビリ(パワーリハビり、理学療法士、物療)で、スタッフ/友人との大バカ笑い、と気もちの良いお風呂、にはいって、大いに、今日一日、一瞬一瞬を楽しませてもらおう^_^;
10時から、夕方四時半までだ(*^_^*)
✴️僕の行っているパワーリハビリは、逆瀬川にある森クリニックで、関西を中心に全国に展開しているポラリスグループの【本部】である~(笑)(*^_^*)
3階には、今まで通りの、内科(ポラリスグループの森社長兼理事長)/整形(理事長の父上)の外来がある~(笑)(*^_^*)
🔶今まで、一階に通っていた、3時間コースの方々が、2階と3階に、分散し、通所リハビリは、今まで1、2、3階に、分散していたが、それを先日から、1階、2階、の二つの階に、統合した。即ち、1階の要支援以上の利用者の、3時間コースの方々が、1、2階に分散した~(笑)(*^_^*)
そして、スタッフも、1階の人々が、2階、3階に、分散された~(笑)(*^_^*)
🔶そして、ポラリスの本部が、今まで、ちょっとこの逆瀬川の近くの場所にあったが、この森クリニックの建物の1階に、入った~(笑)(*^_^*)
これで、1、2、3階の中に、現場と本部が、入り、より、一体となった体制になる~(笑)(*^_^*)
🔳この前、ショートステイに、入っていたときに、NHKスペシャルで、やった番組である。あ~、見逃したかなと思っていたが、その時興味があり、見失ったかと思っていたら、帰ったら以前、録画出来ていた~(笑)(*^_^*)
この番組を見ると、やはり、若冲は、すごい技量で、千年に一度の天才である~(笑)(*^_^*)
🔷「千載具現の徒を俟つ」と言い、江戸時代の中期に、突如と現れ、忽然と消えた天才絵師、若冲。
「1000年後に、自分の絵を理解する人を待つ」という意味である。
⚫︎最新の科学で、若冲の絵が、次々と明らかになっている
⚫︎肉眼で見えない所まで、描きこまれていた、超細密画の謎
⚫︎人間の眼で、認識出来ないレベルの描写
⚫︎人間の脳の中で、認識させ、微妙な色を作り出す
⚫︎日本では、使われた事がない、絵の具
⚫︎照明の無い時代に、計算されていた、光の反射
⚫︎「若冲」は、まさに、型破りな絵師である
⚫︎生誕、300年の若冲の絵が、今回発見された。83年前に、行方不明になり、太平洋戦争時代の混乱期を経て、埋もれて来た一対の掛け軸を、NHKのテレビスペシャルで、取り上げ、初めて撮影が許された。
⚫︎「孔雀鳳凰図」である。一服は、松の樹に舞い降りた鳳凰、もう一方は、咲き誇る牡丹の中に佇む純白の孔雀である。
⚫︎あらゆる部分が、非常に、丁寧に、緻密に、描かれている。
⚫︎この一対の絵を、分析すると、若冲の天才が分かる。
⚫︎どの羽を見ても、輪郭に、線というものが存在しない。
⚫︎しかも、どの線にも、ミスは無く、線の間隔も変わらない。ほんとに、一定の間隔、一定のリズムで、綺麗に線を引いている
⚫︎よほどの、精神力、根気強さがなければ、描写出来ない。かなり、情熱を持って描こうとしないとこういう描き方は、出来ない。
⚫︎卓越した技術を持った若冲、誰から、絵を学んだかも、分からないし、手紙や日記も残っていないし、多くが謎に包まれている
⚫︎最も愛したモチーフは、鶏で、独学で描きたい事を描いた。
⚫︎最大の特徴は、絵の中に現れる極彩色
⚫︎X線装置の解析により、1~2cmの範囲を、4層に、塗り、他の絵師と、同一の顔料で、違った若冲、独特の技法を出した
⚫︎また、赤一色の南天の実が、それぞれ違うのは、X線装置の解析により、一粒、一粒、濃淡の差を絹地の空き具合により、色彩変化を起こしていた為である。
⚫︎色へのこだわりは、すごかった。雀の胸1cmの範囲に、驚くべき、事実が明らかになった。オレンジ色の点々が、存在し、鉛を主成分とする鉛丹である。その大きさは、0.01mm以下である。
⚫︎人間の脳の中で、認識させることで、脳の中で“混色”を作りだす。色へのこだわりが、尋常でなく、あのような、粒子を置く行為なった。
⚫︎色彩の追求は、これだけでは、なかった。紅葉の葉の色が、異なり、表からは赤、裏からは橙を塗り燃えるような色を表現、また葉の縁取りに赤、裏からは黄色、奥の葉は表は何も塗らず、裏からはピンク、等の裏彩色と呼ばれる技法を、全ての570枚に使って、一枚も同じ色彩が無い紅葉の世界を作りあげていた。
⚫︎若冲は、裏からもう一枚、絵を描くという膨大な手間をかけ、無限の色彩を生み出していた。
⚫︎発色の効果をかんがえながら、あるいはそれを離れて見た時に、どういう色として、認識するか、どういう奥行き間を持って認識するか、理解した上で、色を選び、塗りの厚みを選び、描いた。
⚫︎まだ、今の技術では、解きあかせないていないことも、隠されているんじゃないかと思う
⚫︎この頃、花びらに、施された光の表現は、江戸時代はほとんどが、均一に塗られていた。しかし、若冲は、自然の光を浴びた印影を花びらに描こうとしていたという。
⚫︎世界に先駆けて、光の印影を表現しようとしたのは、印象派のマネだ。マネは、19世紀で、若冲は18世紀で、100年も早く、到達していた。
⚫︎また、若冲は、印象派とは、違う手法を用いた。油絵は、何回も、書き直しができるので、書き直しや色の間違いがあっても、構いません。若冲は、下書きも無いので、はじめに筆使いと色を決め、最後まで完璧に描かなくてはなりません。しかも、修正した後も、見当たりません。
⚫︎若冲のあくなき好奇心も、明らかになって来ている。京都、信行寺にある、天井にはめ込まれた168枚の格子画である。丸いキャンバスに、この世のあらゆる花々を描いたという。
⚫︎しかし、天井画は、長い歳月を経て、面影は失われた。天井画は、どのような世界を生み出していたのであろうか。明治時代から、続く出版社に手がかりが、残されていた。木版画を作るときの、色鮮やかな版画である。この記録を、元に、最新のコンピュータグラフィックスで、再現した。描かれていたのは、日本だけではなく、世界中の花々だった。中国の花や、亜熱帯の花々、インドの花々 もあった。実物を取り寄せたのか、書物で見たのか、正確に、描かれていた。
⚫︎理想の色を追求する若冲の執念も浮かび上がって来た。この小さな青い魚から、当時使われていなかった顔料が、見つかった。
⚫︎それは、ドイツで、作られたプルシアンブルーで、長崎の出島に1Kgしか届いていなくて、それを若冲は、最初に絵に試していた可能性がある。
⚫︎ハーバード大学のYukio Ripit 教授は、若冲は、命の姿を情熱を持った完璧に描く特別な絵師だっと考えている。豊かな発想、あふれんばかりの好奇心、常に新たな実験を試みる姿勢、それが若冲の最大の特徴です。とてつもなく高い理想を掲げ、その実現にはどんな努力も惜しまない。若冲とは、そういう人だったと思います。
⚫︎自分の絵は、1000年後に、理解される。、どの流派にも、属さず、画壇の常識にもしばられず、自らの絵に打ち込んだ若冲。既存のものに、縛られない精神が独創的なものを生み出していく。
⚫︎空想上の生き物や当時日本にいなかった動物まで、等しく生きる楽園を描いた異色の絵だ。
⚫︎実に、86000個の升目で、表現され、江戸時代のデジタル画と呼ばれている。1cm四方の升目の中に、更に升目、そこに驚くべき工夫が施されていた。絵に、光をあてると、外側の升目と内側の升目が、反射度合いの違う絵の具を使い、色が変化するよう設計されていたのだ。
⚫︎どの絵師とも、異なる絵を次々と生み出した若冲。しかし、その奇抜な作風は、当時理解されず、孤独だったのではないかという説がある。
⚫︎千載具現の徒を俟つという言葉は、孤高の天才、若冲の“心の叫び”だったのでは、ないかと言われている。
⚫︎千年後の私の絵画作品を見抜いてくれる価値を見抜いてくれる人が頼りだと。
絵の中で、十分に、表現している。言葉はいらない。
⚫︎江戸時代の京都を舞台に、命の輝きを追求した若冲。
⚫︎73歳の時、京都を襲った“天明の大火”で、自宅やアトリエなど、全てを失う事になった。そして、晩年、人里離れた寺院に身を寄せ、85最で生涯を閉じた。
⚫︎若冲の技は、途絶え、その存在は、人々の記憶から、失われていった。
⚫︎天明の大火で、焼け野原に、なった京都と東北大地震での光景が、学者は、重なるという。焼け野原になったところから、スクッと立つ小さなつぼみが、命の輝きで、全ての命は、宇宙の中で、延々と続いていくことが、若冲が言いたかった事ではないかと思う。これは、手塚治虫の「火の鳥」の永遠の命を繋ぐものではないかと思う~(笑)(*^_^*)
🔷伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、正徳6年2月8日(1716年3月1日) - 寛政12年9月10日(1800年10月27日))は、300年前の近世日本の画家の一人。江戸時代中期の京にて活躍した絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事があるが、その使用例は見出されていない。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)とも号す。
写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として曾我蕭白、長沢芦雪と並び称せられる。
生い立ち 編集
正徳6年(1716年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者である。桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たという。23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられたと推定される居士号であり、『老子』45章の「大盈若沖(冲は沖の俗字)」から採られた。意味は「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」である。大典の書き遺した記録「藤景和画記」(『小雲棲稿』巻八)によると、若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。商人時代、若冲は家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲してしまい、その間、山師が枡源の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑したという逸話が残る。ただし、この逸話は後述する錦市場に起こった事件と共通する記述が多いことから、事件を元に後世に作り変えられた話だと考えられる。
隠居、絵師として自立 編集
齢40となった宝暦5年(1755年)には、家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居する(当時、40歳は「初老」であった)。宝暦8年(1758年)頃から「動植綵絵」を描き始め、翌年10月、鹿苑寺大書院障壁画を制作、明和元年(1764年)には金刀比羅宮奥書院襖絵を描く。明和2年(1765年)、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去した年、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進する。このとき若冲は死後のことを考えて、屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡し、その代わり、問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約した。
🔷このように、若冲は、老子の思想が、入っているのか、全く、世間の価値観では、計り知れない。質素で、簡素、あまり飾らず、自然に、己が生きるままに、生きたように、思える~(笑)(*^_^*)
🔳このように、日常が平穏に過ごせることは、今の大変な熊本、大分の皆様に前の平穏な生活は出来ず、申し訳ないが、やはり普通の幸せが取り戻せるように祈り、これからの熊本から大分の人々の無事をお祈りしたい*・゜゜・*:.。..。.:*・'(*゜▽゜*)'・*:.。. .。.:*・゜゜・*
🔳今日のリハビリは、いつものように、まず、物療(気持ちのいいエアーベッド、脚のエアーマッサージ)を行い、それが終わったらお風呂に入り、午前中の12:30にお風呂が終わる~(笑)(*^_^*)
その後、食堂に、皆んなと一緒になり、昼ご飯抜きでアイスコーヒーを飲んで、皆んなと楽しく談笑する~(笑)(*^_^*)
⚫︎午後13:30から、NHKのテレビ体操から始めて、パワーリハビリ開始です。パワーリハビリは、6機種と自転車こぎ(バイオステップ)、をしっかり行い、そのあと理学療法士の身体を天井から釣って歩行するP-Walkの順番で行うか、天気が良いと、散歩に行く。最近、かなり体調が良いので、P-Walkだと0.6の速度で三分間行い、その後階段昇降、三段×2をやるようになり、散歩だと隣の脳神経外科医院の看板の少し先、往復70mくらいを歩く~(*^_^*)
この階段昇降を選んだ時は、上がる時、右側の麻痺側の脚をPTさんに補助してもらい階段分だけ上に挙げてもらい、その状態から身体を持ち上げる。ほとんどこれが出来て来たので、麻痺側の右脚太もも部分に筋肉が付いたらいいなとリハビリしている~(笑)(*^_^*)
①風呂での気持ち良い筋肉のほぐし
②仲間、スタッフとの大笑いによるコミュニケーション
③パワーリハビリによる上肢/下肢を使ったフルの6機種を用いた筋肉リハビリ
④理学療法士によるP-Walkによる三分間の歩行、階段の上り下り、か散歩の個別リハビリ
⑤エアベッド、エアマッサージ、ホットパック、等の物理療法
等身体によい、五種類のトータルバランスがとれたリハビリを行っている(*^_^*)
✳️さて、テルマエロマエではないが、楽しくお風呂に入るのは、僕の一番好きな楽しみの一つである。(^_^)
お風呂に、入る前に必ず物理療法のエアーベッドと時間があれば、エアーマッサージをする(*^_^*)
それから、午前中に湯船のお風呂に入る(*^_^*)
ここで、湯船の中で、身体を温めてリハビリに望むので、筋肉が温まる~(笑)(*^_^*)
この湯船の中で、テレサテンの“時の過ぎ行くままに”、村下孝蔵の”踊り子“、“聖者の行進“、三曲を唄う。これで、湯船の中での時間調整をする~(笑)(*^_^*)
これで午後のリハビリする身体を使う筋肉をほぐして、サッパリして最適である☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
お風呂を出て食堂で、皆んなといろいろな事で、悩み、雑談等で話しをし、しゃべったり、バカなことで大笑いしたり、楽しく会話したり、脳トレしたり、アイスコーヒーを飲んだり、すごく楽しく、刺激しあって楽しい時間を持つ(笑)(*^_^*)
僕はいつも一日、朝夕の二食なので、アイスコーヒーを飲む(*^_^*)
その後、午後は、上肢と下肢のトータルのパワーリハビリ、と理学療法士の先生による歩行訓練、と物療の残り、である☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
これで、だいたい6時間の従実したリハビリがほんとに、あっと言う間に終わるが、今日もリハビリ仲間といろいろ話しをして、非常に楽しい時間を過ごす~(笑)(*^_^*)
これで話しをしていると、すぐ一日が終わる。充実しているから時間の過ぎるのが本当に早い。
今日も、幸せだなぁ~と思う~(笑)(*^_^*)
光陰矢の如しである☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
その後、16:30からベッドに横になり、FBをし、19:00まで寝てしまった☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
今日の、夕食は、ヒレカツとキャベツ、クロワッサン、あとぬか漬けのハクサイ、京都のお香こ、味噌汁、1ポットの紅茶、である~(笑)(*^_^*)
そして、10:00ころベッドに横になり、1時ころに寝むりについた