ホルマリンのマンネリ感

札幌出身苫小牧在住、ホルマリンです。怪しいスポット訪問、廃墟潜入、道内ミステリー情報、一人旅、昭和レトロなどなど…。

積丹・神威岬「念仏トンネル」探索(前編)

2021-09-27 00:19:41 | ホルマリン漬け北海道 秘境編

神威岬「念仏トンネル」探索
(2021年8月訪問)



積丹半島北西部、積丹郡積丹町神岬町の日本海に向かった突端にある「神威岬」。「カムイ」とはアイヌ語で「神」を意味します。
高さ80メートルもの断崖絶壁が細く突き出し、積丹ブルーの海面と共に素晴らしい景色を作り出していますが、岬の沖は暗礁が多いため海難事故が多発し、古くから海難交通の難所として恐れられていました。
船に和人女性を乗せて岬を通ると海神の怒りを買い、船が遭難し漁業も不振となるという言い伝えがあったことから、1691(元禄4)年、岬は松前藩により女人禁制の場所とされました。
1855年(安政2年)に規制は解除されましたが、国道229号から岬へ向かう遊歩道の入り口には、今も「女人禁制の地・神威岬」の文字が掲げられています。

2021年8月末、実に13年ぶりに神威岬を訪れたのですが、残念ながら強風の影響により、入り口の門は閉鎖中でした……。
仕方がないので2008年訪問時の写真にてご紹介します。


雄大な地形に張り付くように、総延長700メートルほどの細い遊歩道(通称「チャレンカの道」)が延びています。
かなり高低差のある道なのがお分かり頂けると思います。


2~30分ほど歩くと岬の先端に到着します。
高さ41メートルの直立した岩礁「神威岩」が特徴的です。
伝説によると、かの源義経が奥州から日高地方へ逃れた際、アイヌ首長の娘・チャレンカと恋仲になったものの、義経は彼女を残してひとり大陸へ出航。
後を追ってこの岬までたどり着いたチャレンカでしたが真相を知って絶望し「婦女を載せた船がここを過ぐれば覆没せん」と叫び海に身投げしました。
彼女の怨念の化身こそが神威岩だ、との言い伝えもあり、岬一帯が女人禁制の地になった一因とも言われています。


くねくねと曲がりくねった遊歩道は崖のわずかに平らな部分を伝っていたり、途中が金網になっていたりで、見下ろすと足がすくむほど高く中々のスリルです。
断崖の上から岬を目指せるこの道が完成したのは平成4年ごろといい、それまでは国道わきの海岸から岩場を歩き、急斜面を登ってゆく約2時間を要するルートしかありませんでした。

そしてこの旧ルートには念仏トンネルと呼ばれる、大正初期に彫られた小さな手掘りの隧道がありました。

現遊歩道から念仏トンネルを望むことができます。

崖下のはるか彼方に、ポッカリと開けられた人工的な穴が確認できます。
現・遊歩道の途中に見晴らし台があり、トンネルの解説板もあるので、現在でも認知度はそれなりにあるかもしれません。
ただし、現在は旧ルート自体が崖崩れの危険性があり廃道となっており、トンネルも基本的には通行禁止のようです。

噂によると念仏トンネル、かなり不思議な構造をしており、それほど長くないトンネルにも関わらず光が全く入らず、通過するのが中々怖いのだとか。
そもそも、なぜ「念仏」なのか??心霊スポット的な噂もあれば、「通る時に念仏を唱えなくてはならない」といった話も聞く。


これは気になりますね……。
行くしかないではありませんか!!


2021年8月30日(月)午前7時。

現在の神威岬入り口から、余市方面へ車を走らせた道路沿いの某所。
旧ルートの入り口だった場所には、今も「神威岬入り口」と書かれた看板が名残として残っています。
ただし、道らしきものは消滅してしまったのか確認できず……。


広場になっている場所に車を停め、ここから本格的な探索です。
道中は崖沿いの波打ち際を歩くのですが、落石が多くかなり危険との事なので、ヘルメットを被って気を引き締める。また、多少の波にも耐えられるように長靴も履いていざ出発。いずれもこういった探索のために、車に常備してあるグッズだ。
……あっ、そういえば車買い換えました。スズキSX4セダンという珍車です。ばかデカいトランクがかなり重宝します。



ゴロゴロした岩場を、滑らないように気を付けながらひたすら進んでいきます。
本格的な秘境探検は同じ積丹半島、神恵内村西の河原(2016年)以来か?やや緊張しますね。
まだ朝が早いため、海には小さなボートに乗った漁師さんの姿がいくつか。勝手に歩いて怒られないか心配になりましたが、このまま探索を続けます。


岩場には、遊歩道の名残と思しきコンクリートの階段の残骸や、看板を打ち付けていたような木製の杭などが確認できました。
岩場を人工的にくりぬいたような窪み?は何なのかよく分からず……。


崖に沿って歩く道中には、真新しい落石の跡が……。
実は念仏トンネルの存在は10年以上前から知っており、ずっと探索したいと思っていたのですが、落石や波打ち際を歩くことなど、リスクがかなり高いことから中々挑戦できずにいました。
……無事に帰れるでしょうか?


足元が比較的安定した岩礁になり一安心するも、絶壁を回り込むと再び大きな石がゴロゴロ。
まだまだ先は長そうですね……。


歩いてきた道のりを振り返ってみます。
本日は晴天で波が全くないのが幸いですが、高波の日はかなり危険でしょうね。
ここまで、探索開始から20分ほど……。


後編へ続く。
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広島 平和を願うまち探訪(後編)

2021-09-23 12:17:07 | 旅行(道外)2018~2019
前編はこちら

・袋町小学校平和資料館(爆心地から460メートル)

旧日本銀行広島支店から徒歩5分程度の場所にあります。
木造校舎はすべて倒壊・全焼し、鉄筋コンクリート造3階建ての西校舎が原型を留めました。ただし内部は焼失し、朝礼直後であった児童と教員160人が被爆、そのほとんどが犠牲となりました。
被爆建物として校舎の一部を保存し、内部は資料館となっています。




壁や天井の至るところに、被爆時の火災によって付着した黒い煤が残ります。
かろうじて焼け残った校舎は、原爆投下の翌日から被爆者の救護所として、学校が再開する直前の翌1946年春ごろまで利用されたといいます。


校内の壁は、行方不明の知り合いの情報提供を求めるものや、現在の居場所を知らせる伝言板として使われました。
1階の階段付近には、1999年に漆喰を剥がした際に現れた「寮内」という黒い文字が確認できます。
煤の上からチョークで書かれ、上塗りされた漆喰によって煤とチョークが吸収され、チョークの下にあった煤が文字の形に残っていたものだと推測されています。


こちらは救護室として使用されていた部屋の柱を切り取ったもので、「患者村上」という文字が確認できます。
実際、村上姓の患者が救護所にいたと書かれた原爆体験記もあるらしいです。

この施設はボランティアと思しき年配の男性がおり、丁寧に解説をして頂きました。
帰り際には小さな折り鶴も頂き、ありがとうございます。


・本川小学校平和資料館(爆心地から140メートル)

平和記念公園から本川を挟んだ対岸にあります。
1928年に広島で初めて建てられた鉄筋コンクリート造3階建ての校舎でしたが、爆心地に最も近い学校で外部を残して完全に焼失。10人の教職員と約400人の児童が犠牲になりました。
こちらの校舎も被爆者の救護所にあてられました。




現・本川小学校敷地内に、校舎の一部が保存され資料館となっています。
黒く焼け果てた校舎内はほぼそのままで、非常に生々しい。熱風で焼けた木製の戸枠などが確認できます。
学校は1946年2月、寄せ集めの机で授業が再開されたといいます。


被爆直後の周辺の様子を伝える写真やジオラマ、溶けたガラス瓶、窓などの遺物などが展示されています。
爆風で吹き飛ばされ、河川敷から引き上げられた原爆ドームのバルコニーの一部もあり、手を触れられることが可能。元は光沢のある御影石だったといいますが、石が焼けてざらざらになっており、原爆の恐ろしさを改めて思い知らされました。

・爆心地



現在は内科医院が建っている西側になります。建物の前に小さな説明版がひっそり建っていますが、気に留める人は少なそう。
1945年8月6日午前8時15分、米軍機B-29「エノラ・ゲイ」によって史上初めて投下された原子爆弾。
爆心直下の一帯は約3000~4000度の熱線、爆風、放射線を受け壊滅。数多くの命を一瞬で奪いました。


爆心地すぐ近くには、市民でにぎわう商店街「サンモール」があり、買い物を楽しむ人々を見てほっと一安心でした。
今回巡った被爆建物や関連施設はその存在を知らなかった場所もあり、あちこちに残された生々しい痕跡にさまざまな感情を抱きました。
実際にこの目で見るからこそ身にしみてわかる原爆の恐ろしさ。
改めて平和について考えさせられる有意義な時間となりました。



「広島 平和を願うまち探訪」
完。

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広島 平和を願うまち探訪(前編)

2021-09-22 21:58:28 | 旅行(道外)2018~2019


2019年4月、兵庫、岡山、広島珍スポットラリーで広島市を訪問した際に巡った、市内の被爆建物、平和関連施設などの記録です。

・平和記念公園
本川と元安川に挟まれた中島地区一帯を恒久平和の象徴の場とすべく、「広島平和記念都市建設法(1949年公布)」に基づき整備されました。12万1200平方メートルの敷地内には原爆死没者慰霊碑、広島平和記念資料館をはじめ、平和を願うモニュメントなどが点在。毎年8月6日には平和祈念式典が行われます。



こちらは公園内でも代表的なモニュメント「原爆の子の像」。
まわりには全国から寄せられた千羽鶴や折り紙の作品が納められていました。



・原爆ドーム/旧広島県産業奨励館(爆心地から160メートル)

チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により1915年に完成。緑色のドームが特徴的で、市民に親しまれていました。
原爆は建物の南東約160メートル、上空600メートルで炸裂し、館内にいた全員が即死しました。
1996年、核兵器廃絶と恒久平和を願うシンボルとしてユネスコの世界文化遺産に登録。


・広島平和記念資料館

原爆による被害や、被爆前後の広島の歩みなどを被爆資料、遺品、体験者の証言などで伝え、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴えています。入館料大人200円。
(訪問時はリニューアル工事のため一部閉館中でした)


・被爆したアオギリとハマユウ(それぞれ爆心地から1300m、2200mから移植)

いずれも平和記念公園内。アオギリは市内東白島町の中国郵政局(旧広島逓信局)の中庭で被爆し、幹の半分が熱線と爆風で焼けてえぐられましたが、傷跡を囲むように成長を続けているといいます。


・旧日本銀行広島支店(爆心地から380メートル)



建物は1936年に完成。被爆時は非常に堅牢な構造のため崩壊は免れたものの、爆風で窓枠やシャッター、欄干などはすべて吹き飛ばされ、内部が破壊され職員ら42人の犠牲者が出ました。
現在は内部が公開されるとともに、市民団体の芸術・文化活動の発表の場として活用されています。


支店長室として使われていた一室の木製の壁には、爆風で飛ばされた窓ガラスの破片が突き刺さった跡が残ります。光を当てると奥にめり込んだガラスのかけらが光ります。


市内の金融機関がほとんど壊滅した状況の中、同店は地下金庫の無事が確認されたため、他の銀行と共同で使用することを決め、原爆投下2日後の8月8日から業務を再開しました。
内部に仕切りが設けられ、11の各銀行が窓口を設置。天井のガラス屋根は破損していたため、雨の日は傘をさして業務が続けられたといいます。広島の復興を支えた施設といえましょう。


・被爆したエノキ、ムクノキ、クロガネモチ、クスノキ

(いずれも爆心地から530メートル)
路面電車の通る鯉城通りと、平和大通りが交わる交差点付近、通りに面する白神社前にあります。立派な大木に成長していますね。


後編へ続く。

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兵庫、岡山、広島珍スポットラリー その18(最終回)

2021-09-03 22:37:09 | 旅行(道外)2018~2019
2019年春の旅、最終回です。

4月17日(水)。

おはようございます。
4日前の夜から始まった西日本3県の珍スポットラリーも、本日で最終日です。
広島に来たからにはぜひ見ておきたいあの世界遺産と周辺の被爆遺構を巡ってから、新幹線で一気に兵庫まで戻り、神戸空港発の飛行機で北海道へ帰ります。

午前8時、八丁堀電停まで歩き、路面電車に乗車。

ビル街をてくてく歩いて思ったのですが、広島、運転荒い(汗)。
朝っぱらから思いっきり信号無視するセルシオがいましたよ(^_^;)。

8時15分、「原爆ドーム前」で下車。

電停から降りてすぐのこの橋は、本川を渡る相生橋
現在は掛け替えられていますが、初代は昭和7年に架設。T字型をした全国でも珍しい形の橋で、原爆投下の際の目標になったとも言われています。
被爆時は幸い落橋を免れたそうです。

電停の名前の通り、路面電車を降りると目の前に原爆ドームがありました。
相生橋の上から望みます。




周辺は広場になっており、本川と元安川の分かれ目にある平和記念公園へ向けて遊歩道が延びています。
ドームのすぐ脇を歩き、元安橋を渡って川の向こうから眺めます。


・原爆ドーム
もはや説明する必要もありませんね。昭和20年8月6日、歴史上始めての原子爆弾によって被爆、破壊された旧広島県産業奨励館の遺構です。
チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により1915年に完成し、緑色のドームが特徴でした。
原爆は建物の南東約160メートル地点の上空600メートルで炸裂、館内にいた全員が即死し、半径約2キロメートルの市街地が廃墟と化しました。
1996年、核兵器廃絶と恒久平和を願うシンボルとしてユネスコの世界文化遺産に登録。

平和記念公園を訪問。

終戦記念日の式典でお馴染みの原爆死没者慰霊碑と、立派な広島平和記念資料館です。

さすが世界的に有名な場所だけあって、外国人観光客が大勢います(※2019年現在)
公園内を散策していると、男性の外国人に「Peace museum?」と場所を聞かれたのですが、聞き取れなかったので人生初の「Pardon?」を使いました(笑)

平和記念資料館は見学は出来たものの、ちょうどリニューアル工事中で規模が縮小されていたのが残念でしたね……。
その後、専用のマップを頼りに、市外に残る被爆建物、平和関連施設などを訪問したのですが、さすがに「珍スポットラリー」の中で紹介するのも憚られるので、別記事として後日アップしますね。




午後1時50分。

平和について見つめ直す有意義な時間を過ごし、広島に別れを告げて兵庫県の神戸空港へ向かいます。
まずは広島駅から新幹線に乗ります。

1時53分発 のぞみ132号に乗車!

え~、実は私ホルマリン、人生2回目の新幹線です(笑)。
中学の修学旅行で「こまち」に乗った以来。年甲斐もなくワクワクしています。


一度は食べてみたかった車内販売の通称「シンカンセンスゴクカタイアイス」(スジャータ)を迷わず注文。ようやく食べることができて感無量です。
そんなこんなで快適な旅を楽しんでいると、あっという間に兵庫県姫路市を通過。初日に探索した姫路モノレール跡や手柄山、回転展望台などをしっかり望めました(*^_^*)。

午後3時5分 新神戸駅で下車。

次に乗る空港行きの連絡バスにはまだ時間があります。
駅前に「←布引の滝 徒歩5分」の看板を見つけたので行ってみることに。


・布引の滝
森の中の階段を数分登った行き止まりに、予想以上に大きな滝がありました。上流から4つの滝があるといい、こちらは雌滝で落差19メートル。
那智の滝、華厳の滝と並んで三大神滝と呼ばれているそうな。
新幹線の駅のすぐ近くにこれほどのスケールの滝があるとは驚き!


午後4時10分、神戸空港行きバスに乗車し、約20分で空港へ。


展望デッキから神戸港を望む

兵庫県の太陽公園から始まり、姫路モノレール跡、岡山県の津山自然のふしぎ館、広島県の福山自動車時計博物館と、長らく行ってみたかった場所ばかりをいっぺんに制覇できた今回の「珍スポットラリー」。
ひとつひとつの場所が期待通り、もしくは期待以上であったのに加え、西日本の魅力的な観光地の多さに圧倒され、2014年の大阪・京都・兵庫旅同様、大・大・大満足でおなかいっぱいになりました。
今回も良い旅でした(*^_^*)。

午後7時35発 スカイマーク178便


2019年春「兵庫、岡山、広島珍スポットラリー」、
完。

最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m
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