前編はこちら。
・袋町小学校平和資料館(爆心地から460メートル)
旧日本銀行広島支店から徒歩5分程度の場所にあります。
木造校舎はすべて倒壊・全焼し、鉄筋コンクリート造3階建ての西校舎が原型を留めました。ただし内部は焼失し、朝礼直後であった児童と教員160人が被爆、そのほとんどが犠牲となりました。
被爆建物として校舎の一部を保存し、内部は資料館となっています。
壁や天井の至るところに、被爆時の火災によって付着した黒い煤が残ります。
かろうじて焼け残った校舎は、原爆投下の翌日から被爆者の救護所として、学校が再開する直前の翌1946年春ごろまで利用されたといいます。
校内の壁は、行方不明の知り合いの情報提供を求めるものや、現在の居場所を知らせる伝言板として使われました。
1階の階段付近には、1999年に漆喰を剥がした際に現れた「寮内」という黒い文字が確認できます。
煤の上からチョークで書かれ、上塗りされた漆喰によって煤とチョークが吸収され、チョークの下にあった煤が文字の形に残っていたものだと推測されています。
こちらは救護室として使用されていた部屋の柱を切り取ったもので、「患者村上」という文字が確認できます。
実際、村上姓の患者が救護所にいたと書かれた原爆体験記もあるらしいです。
この施設はボランティアと思しき年配の男性がおり、丁寧に解説をして頂きました。
帰り際には小さな折り鶴も頂き、ありがとうございます。
・本川小学校平和資料館(爆心地から140メートル)
平和記念公園から本川を挟んだ対岸にあります。
1928年に広島で初めて建てられた鉄筋コンクリート造3階建ての校舎でしたが、爆心地に最も近い学校で外部を残して完全に焼失。10人の教職員と約400人の児童が犠牲になりました。
こちらの校舎も被爆者の救護所にあてられました。
現・本川小学校敷地内に、校舎の一部が保存され資料館となっています。
黒く焼け果てた校舎内はほぼそのままで、非常に生々しい。熱風で焼けた木製の戸枠などが確認できます。
学校は1946年2月、寄せ集めの机で授業が再開されたといいます。
被爆直後の周辺の様子を伝える写真やジオラマ、溶けたガラス瓶、窓などの遺物などが展示されています。
爆風で吹き飛ばされ、河川敷から引き上げられた原爆ドームのバルコニーの一部もあり、手を触れられることが可能。元は光沢のある御影石だったといいますが、石が焼けてざらざらになっており、原爆の恐ろしさを改めて思い知らされました。
・爆心地
現在は内科医院が建っている西側になります。建物の前に小さな説明版がひっそり建っていますが、気に留める人は少なそう。
1945年8月6日午前8時15分、米軍機B-29「エノラ・ゲイ」によって史上初めて投下された原子爆弾。
爆心直下の一帯は約3000~4000度の熱線、爆風、放射線を受け壊滅。数多くの命を一瞬で奪いました。
爆心地すぐ近くには、市民でにぎわう商店街「サンモール」があり、買い物を楽しむ人々を見てほっと一安心でした。
今回巡った被爆建物や関連施設はその存在を知らなかった場所もあり、あちこちに残された生々しい痕跡にさまざまな感情を抱きました。
実際にこの目で見るからこそ身にしみてわかる原爆の恐ろしさ。
改めて平和について考えさせられる有意義な時間となりました。
「広島 平和を願うまち探訪」
完。
・袋町小学校平和資料館(爆心地から460メートル)
旧日本銀行広島支店から徒歩5分程度の場所にあります。
木造校舎はすべて倒壊・全焼し、鉄筋コンクリート造3階建ての西校舎が原型を留めました。ただし内部は焼失し、朝礼直後であった児童と教員160人が被爆、そのほとんどが犠牲となりました。
被爆建物として校舎の一部を保存し、内部は資料館となっています。
壁や天井の至るところに、被爆時の火災によって付着した黒い煤が残ります。
かろうじて焼け残った校舎は、原爆投下の翌日から被爆者の救護所として、学校が再開する直前の翌1946年春ごろまで利用されたといいます。
校内の壁は、行方不明の知り合いの情報提供を求めるものや、現在の居場所を知らせる伝言板として使われました。
1階の階段付近には、1999年に漆喰を剥がした際に現れた「寮内」という黒い文字が確認できます。
煤の上からチョークで書かれ、上塗りされた漆喰によって煤とチョークが吸収され、チョークの下にあった煤が文字の形に残っていたものだと推測されています。
こちらは救護室として使用されていた部屋の柱を切り取ったもので、「患者村上」という文字が確認できます。
実際、村上姓の患者が救護所にいたと書かれた原爆体験記もあるらしいです。
この施設はボランティアと思しき年配の男性がおり、丁寧に解説をして頂きました。
帰り際には小さな折り鶴も頂き、ありがとうございます。
・本川小学校平和資料館(爆心地から140メートル)
平和記念公園から本川を挟んだ対岸にあります。
1928年に広島で初めて建てられた鉄筋コンクリート造3階建ての校舎でしたが、爆心地に最も近い学校で外部を残して完全に焼失。10人の教職員と約400人の児童が犠牲になりました。
こちらの校舎も被爆者の救護所にあてられました。
現・本川小学校敷地内に、校舎の一部が保存され資料館となっています。
黒く焼け果てた校舎内はほぼそのままで、非常に生々しい。熱風で焼けた木製の戸枠などが確認できます。
学校は1946年2月、寄せ集めの机で授業が再開されたといいます。
被爆直後の周辺の様子を伝える写真やジオラマ、溶けたガラス瓶、窓などの遺物などが展示されています。
爆風で吹き飛ばされ、河川敷から引き上げられた原爆ドームのバルコニーの一部もあり、手を触れられることが可能。元は光沢のある御影石だったといいますが、石が焼けてざらざらになっており、原爆の恐ろしさを改めて思い知らされました。
・爆心地
現在は内科医院が建っている西側になります。建物の前に小さな説明版がひっそり建っていますが、気に留める人は少なそう。
1945年8月6日午前8時15分、米軍機B-29「エノラ・ゲイ」によって史上初めて投下された原子爆弾。
爆心直下の一帯は約3000~4000度の熱線、爆風、放射線を受け壊滅。数多くの命を一瞬で奪いました。
爆心地すぐ近くには、市民でにぎわう商店街「サンモール」があり、買い物を楽しむ人々を見てほっと一安心でした。
今回巡った被爆建物や関連施設はその存在を知らなかった場所もあり、あちこちに残された生々しい痕跡にさまざまな感情を抱きました。
実際にこの目で見るからこそ身にしみてわかる原爆の恐ろしさ。
改めて平和について考えさせられる有意義な時間となりました。
「広島 平和を願うまち探訪」
完。