いせ九条の会

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軍国主義に迎合した者としなかった者との違い/山崎孝

2008-03-27 | ご投稿
2008年3月27日付朝日新聞「新聞と戦争/戦後の再出発」より

 45年10月、新任あいさつに訪れた首相の幣原喜重郎に、連合国軍最高司令官マッカーサーが次のような見解を示した。

 「日本国民が何世紀もの良きにわたって隷属してきた社会の秩序伝統を矯正する必要があらう」(45年10月13日付朝日)

 敗戦から2カ月足らず。朝日は憲法改正が連合国軍から要求されたことを報じ、社説「欽定憲法の民主化」で早急な改正手続きを求めた。

 だがこの時は、改正の中身についてはあまり言及しなかった。15日付で憲法学者の美濃部達吉のインタビューを掲載し、「正しく運用すればこのままで民主主義政治に何ら差支へないと存じてゐます」との慎重論を載せた。

 「民主化」が紙面を飾る時代、最大の課題である憲法問題を朝日はどう考えたのか。法制局長官を務めた入江俊郎の文書が国会図書館に残っている。その中にある、「朝日新聞社研究室」が記した「憲法改正と天皇の大権」 (45年12月20日)と題する文章に朝日の見方がうかがえる。

 それによると、改正は最小限にすべきだとし、「国体の護持は掛け替えのない我等の生命であって、われわれはたとひ身を水火に投ずるも此の一事は断じて之を死守せねばならぬ……」。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」や統治権総攬など天皇制根幹は維持し、条約の締結など天皇の大権に一定の制限を加える案を示した。

 「検討はしていたが、紙面で読者に提起することはなかった。幅広い議論を起こすことが新聞の使命だったはずだ」。新聞の近現代史に詳しい東京経済大教授の有山輝雄(64)はそう指摘する。

朝日記者だった門田圭三(94)は官邸担当で、憲法問題を取材していた。社内には「共和制」支持者もいた。民主化は当然と思ったが、やはり天皇制はあった方がいいと考えたという。「天皇制を残すかどうか、が社会の秩序を保てるかどうかの分かれ目と思っていた」

 46年3月、天皇を「象徴」とする政府草案が発表された。朝日の社説「画期的な平和憲法」とし、主権在民、戦争放棄を高く評価。天皇の大権・の大幅な縮小も「当然の結果であらう」としている(3月7日付)。「当時は、天皇制が維持されただけで安心できた」と門田は言う。

 5月27日、毎日新聞は草案についての世論調査結果を報じた。天皇制は85%、戦争放棄は70%が賛成しており、おおむね支持を得ていたことがうかがえる。

 門田は当時、職場で憲法を議論することはあまりなかった、と振り返る。その理由についてはこう言う。

 「新聞社自体が戦後の虚脱状態から脱していなかった」(敬称略)(以上)

朝日新聞は満州事変以降から軍部に対する批判をあまりしなくなり、やがて軍国主義に加担していきます。

敗戦後、「朝日新聞社研究室」が記した「憲法改正と天皇の大権」(1945年12月20日)の考え方は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」や統治権総攬など天皇制の根幹は維持し、条約の締結など天皇の大権に一定の制限を加える案を示しています。これは1946年2月8日に政府がGHQに提出した憲法草案が、天皇大権を温存させていたのとさほど変わりません。思想的に天皇制の就縛から解放されていません。

これとは対照的に鈴木安蔵らの憲法研究会は、1945年11月5日発足し、12月6日まで6回の会合を開き憲法要綱を検討して、12月26日には「憲法要綱草案」をGHQと政府に提出しています。

憲法研究会のメンバーたちは、軍国主義の時代にも時流に迎合せず、不羈の精神を貫いた人たちでした。憲法研究会は思想的に天皇制の就縛を脱し、天皇の地位を直接的には政治に関わらせない「象徴天皇」のアイディアを示しました。天皇制の就縛から解放されなかった人たちは、軍国主義の時流に迎合してしまった人たちでした。