日露戦争に従軍し「小国の富は、畢竟大国の餌。 之を防ぐは、軍国主義に在り」という考えの軍国主義者から、第一次世界大戦のフランス ベルダンの惨状を見て、「破壊と殺戮とをほしいままにしたる戦の跡は 見るも悲惨 聞くも悲哀誠に言語の外である」「村落は壊滅し 田園は荒廃し 住民は離散し 家畜は死滅し満目(まんもく)これ荒涼 惨として生物を見ない」という事実を突きつけられ、「国家とは国民を守るために存在するのではなかったのか」、「戦争を防ぎ戦争をさくる途は 各国民の良知と勇断とに依る軍備の撤廃あるのみである」と記し、軍国主義者から軍備撤廃主義者へと転身した水野広徳をNHKの番組「その時 歴史は動いた」は取り上げていました。
【番組案内のホームページから】
昭和20年5月、敗戦の様相を呈していた日本で、B29から降伏を促す大量のビラが巻かれた。そこには軍の暴走によりこの戦争は起こってしまったという、日本軍の過ちを記した論文が引用されていた。論文の著者は、元海軍軍人・水野広徳。もとは生っ粋の軍国主義者だった。軍事研究のために第一次世界大戦後のヨーロッパに渡る。そこで目にしたのは、多くの一般人を巻き込み、戦勝国ですら荒廃した姿。水野は、国民を守るために戦争をしているはずの国家に対して、疑問を感じる。国を守るためには戦争を避けなければならない。そのためには軍備を放棄するしか手段はない。この時水野は、軍国主義者から軍備撤廃主義者へと転向した。
帰国後、自ら軍を辞め、軍備撤廃のためにまずは軍縮運動へと身を投じてゆく。世界が軍縮に向けて足並みを揃えようとしている中、日本もまた、軍縮への道を歩み始める。しかしそれに異を唱えたのが軍部だった。統帥権の独立をたてに、政府でさえも口を挟むことが出来なくなってゆく。軍部の暴走をマスコミ、そして世論が後押しする中、水野はいずれ日米戦をも引き起こす可能性があると訴え続けるが、水野自身も弾圧を受け、発表の場さえも奪われてしまう。誰もなにも言えなくなってしまったその時、日本は太平洋戦争へと突き進んでゆく。
戦争への道を避けることを訴え続けた水野。彼の残したメッセージから、改めて今の時代、過ちを繰り返さないためには何が必要かを伝える。
水野広徳略歴
1875(明治 8)年5月24日 愛媛県に生まれる
1896(明治29)年2月 江田島の海軍兵学校に入学
1905(明治38)年5月 日本海海戦に水雷艇の艇長として参加
1906(明治39)年3月 海軍軍令部戦史編さん部に出仕
1911(明治44)年3月 「此一戦」出版
1919(大正 8)年3月 第一次世界大戦後のヨーロッパを視察
1921(大正10)年8月 海軍を辞してジャーナリストとなる
同年 10月 中央公論に軍縮を主張した論文を書く
1932(昭和 7)年10月 「興亡の此一戦」が発禁処分を受ける
1941(昭和16)年2月26日 執筆禁止となる
1945(昭和20)年10月18日 疎開先の愛媛県吉海町で亡くなる。享年71。
【海軍大臣に帰朝挨拶をしたときの言葉について】
当時の海軍大臣・加藤友三郎に対して水野が発した言葉「日本は如何にして戦争に勝つかよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」
水野のジャーナリストデビュー作について 水野は海軍を辞めたのち、軍備縮小同志会に参加。自説を主に中央公論に発表していく。デビュー作は大正10(1921)年の中央公論10月号。
【陸軍の軍縮を唱えた水野の論文について】
「海軍の縮小は世界的に協約を要するも 陸軍は隣国の情勢に応じて国内的に処理することが出来る」「陸軍縮小は今や国民の声である。国民の要求である」
【統帥権の干犯を主張する軍部に対しての水野の論文について】
「軍部が統帥権をうんぬんして憲法の正文を無視せんとするは憲政の将来を厄たいならしむるの恐あり」
【満州国建国に対する水野の主張について】
「日本の満州国承認は国際連盟を驚愕せしめ、米国を憤慨せしめ、中国を悶殺せしめた」
【日米戦によって日本は敗れ、大きな被害を被るとした水野の主張について】
「東京では、数百の飛行機が流星の如く暗空に去来して敵味方の識別も出来ない」「逃げ惑ふ百万の残留市民。父子夫婦乱離混交、悲鳴の声」「跡はただ灰の町、焦土の町、死骸の町である」
【海軍大臣に宛てた公開質問状について】
「戦争を防ぐことこそ、国家百年の安泰を得るの道で、それが国務大臣としての真の責であらねばならぬ」(以上)
水野広徳は事実を率直に見つめる心を持っていました。そしてその事実に基づいて自分の考えを転換する柔軟な思考力を身につけていました。今日の東アジアの情勢は最後に残る米朝や日朝の冷戦体制を打破し、地域の平和と安定を構築する努力が、かつては対立していた国が協力して行われています。この事実を直視しない軍事志向の日本の政治家がいます。
水野広徳の「日本は如何にして戦争に勝つかよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」という言葉は、広島や長崎の原爆投下の惨状を深く認識せず核抑止力にこだわり、不確実な迎撃ミサイル網構築に大金を投じたり、日米同盟の強化のために、集団的自衛権行使を可能にする政治家たちに聞かせるべき言葉です。
【番組案内のホームページから】
昭和20年5月、敗戦の様相を呈していた日本で、B29から降伏を促す大量のビラが巻かれた。そこには軍の暴走によりこの戦争は起こってしまったという、日本軍の過ちを記した論文が引用されていた。論文の著者は、元海軍軍人・水野広徳。もとは生っ粋の軍国主義者だった。軍事研究のために第一次世界大戦後のヨーロッパに渡る。そこで目にしたのは、多くの一般人を巻き込み、戦勝国ですら荒廃した姿。水野は、国民を守るために戦争をしているはずの国家に対して、疑問を感じる。国を守るためには戦争を避けなければならない。そのためには軍備を放棄するしか手段はない。この時水野は、軍国主義者から軍備撤廃主義者へと転向した。
帰国後、自ら軍を辞め、軍備撤廃のためにまずは軍縮運動へと身を投じてゆく。世界が軍縮に向けて足並みを揃えようとしている中、日本もまた、軍縮への道を歩み始める。しかしそれに異を唱えたのが軍部だった。統帥権の独立をたてに、政府でさえも口を挟むことが出来なくなってゆく。軍部の暴走をマスコミ、そして世論が後押しする中、水野はいずれ日米戦をも引き起こす可能性があると訴え続けるが、水野自身も弾圧を受け、発表の場さえも奪われてしまう。誰もなにも言えなくなってしまったその時、日本は太平洋戦争へと突き進んでゆく。
戦争への道を避けることを訴え続けた水野。彼の残したメッセージから、改めて今の時代、過ちを繰り返さないためには何が必要かを伝える。
水野広徳略歴
1875(明治 8)年5月24日 愛媛県に生まれる
1896(明治29)年2月 江田島の海軍兵学校に入学
1905(明治38)年5月 日本海海戦に水雷艇の艇長として参加
1906(明治39)年3月 海軍軍令部戦史編さん部に出仕
1911(明治44)年3月 「此一戦」出版
1919(大正 8)年3月 第一次世界大戦後のヨーロッパを視察
1921(大正10)年8月 海軍を辞してジャーナリストとなる
同年 10月 中央公論に軍縮を主張した論文を書く
1932(昭和 7)年10月 「興亡の此一戦」が発禁処分を受ける
1941(昭和16)年2月26日 執筆禁止となる
1945(昭和20)年10月18日 疎開先の愛媛県吉海町で亡くなる。享年71。
【海軍大臣に帰朝挨拶をしたときの言葉について】
当時の海軍大臣・加藤友三郎に対して水野が発した言葉「日本は如何にして戦争に勝つかよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」
水野のジャーナリストデビュー作について 水野は海軍を辞めたのち、軍備縮小同志会に参加。自説を主に中央公論に発表していく。デビュー作は大正10(1921)年の中央公論10月号。
【陸軍の軍縮を唱えた水野の論文について】
「海軍の縮小は世界的に協約を要するも 陸軍は隣国の情勢に応じて国内的に処理することが出来る」「陸軍縮小は今や国民の声である。国民の要求である」
【統帥権の干犯を主張する軍部に対しての水野の論文について】
「軍部が統帥権をうんぬんして憲法の正文を無視せんとするは憲政の将来を厄たいならしむるの恐あり」
【満州国建国に対する水野の主張について】
「日本の満州国承認は国際連盟を驚愕せしめ、米国を憤慨せしめ、中国を悶殺せしめた」
【日米戦によって日本は敗れ、大きな被害を被るとした水野の主張について】
「東京では、数百の飛行機が流星の如く暗空に去来して敵味方の識別も出来ない」「逃げ惑ふ百万の残留市民。父子夫婦乱離混交、悲鳴の声」「跡はただ灰の町、焦土の町、死骸の町である」
【海軍大臣に宛てた公開質問状について】
「戦争を防ぐことこそ、国家百年の安泰を得るの道で、それが国務大臣としての真の責であらねばならぬ」(以上)
水野広徳は事実を率直に見つめる心を持っていました。そしてその事実に基づいて自分の考えを転換する柔軟な思考力を身につけていました。今日の東アジアの情勢は最後に残る米朝や日朝の冷戦体制を打破し、地域の平和と安定を構築する努力が、かつては対立していた国が協力して行われています。この事実を直視しない軍事志向の日本の政治家がいます。
水野広徳の「日本は如何にして戦争に勝つかよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要です」という言葉は、広島や長崎の原爆投下の惨状を深く認識せず核抑止力にこだわり、不確実な迎撃ミサイル網構築に大金を投じたり、日米同盟の強化のために、集団的自衛権行使を可能にする政治家たちに聞かせるべき言葉です。