ウジェーヌ・ドラクロワ(自画像)
Ferdinand Victor Eugene Delacroix
1830年の「七月革命」後、フランスでは、新興「ブルジョワ」が我が世の春を謳歌していた。
彼らの集う場所は、オペラ劇場や「サロン」である。
「深紅の絨毯やシャンデリアの輝き、シャンパン・グラスのふれあう音、馬車で劇場に乗りつける燕尾服やイブニング・ドレス姿の紳士淑女、香水と高価なアクセサリー、客を鄭重に迎える案内係、ロココ風の金細工を施された椅子、舞台に投げ入れられる花束、そして天井桟敷のファンたちのサッカー競技場顔負けの熱気とかけ声」(岡田暁生『オペラの運命』)そして、パリではロッシーニ (1792 - 1868) のオペラ『ウィリアム・テル』が依然として人気を集め、マイアベーヤ (1791 - 1864) のオペラが、それに代わる人気の的となろうとしていた。
また、社交界の貴婦人たちが催す「サロン」には、
「才気にあふれた美貌のダンディ、文学者や芸術家といった有名人、外国からやってきた『時の人』」(鹿島茂『職業別 パリ風俗』)などが招かれ、いとも優雅なる社交生活を送っていた。
1831年、まだ「7月革命」の余塵の残るパリに出てきたショパン (1810 - 49) も、翌年にはデビュー演奏会で成功をおさめる。その時、会場には、既にサロンの寵児となっていたリスト (1811 - 86) がいた。ショパンも、リストに続いて、やがて社交界の花形ピアニストになるであろう。
一方、絵画の世界では「7月革命」以前から新しい動きが始まっていた。
ドラクロワ (1798 - 1863) が1824年の美術展(官展:サロン)に『キオス島の虐殺』を発表したのである。
先輩画家のグロは、
「これは(『キオス島の虐殺』ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、この作品を絶賛したのがスタンダール (1783 - 1842)。
「あの若いドラクロワにあって特別の評価に値するものは勇気である。彼は自分が何物でなくなるかもしれず、アカデミアンですらないかもしれない危険をおかした」(「1824年の美術展」)この流れが、フランスのロマン主義絵画を方向付け、やがて印象派絵画を生むことになる。