一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

「19世紀という時代」から

2005-12-14 14:15:47 | Essay
ドラクロワ
ウジェーヌ・ドラクロワ(自画像)
Ferdinand Victor Eugene Delacroix

1830年の「七月革命」後、フランスでは、新興「ブルジョワ」が我が世の春を謳歌していた。

彼らの集う場所は、オペラ劇場や「サロン」である。
「深紅の絨毯やシャンデリアの輝き、シャンパン・グラスのふれあう音、馬車で劇場に乗りつける燕尾服やイブニング・ドレス姿の紳士淑女、香水と高価なアクセサリー、客を鄭重に迎える案内係、ロココ風の金細工を施された椅子、舞台に投げ入れられる花束、そして天井桟敷のファンたちのサッカー競技場顔負けの熱気とかけ声」(岡田暁生『オペラの運命』)
そして、パリではロッシーニ (1792 - 1868) のオペラ『ウィリアム・テル』が依然として人気を集め、マイアベーヤ (1791 - 1864) のオペラが、それに代わる人気の的となろうとしていた。

また、社交界の貴婦人たちが催す「サロン」には、
「才気にあふれた美貌のダンディ、文学者や芸術家といった有名人、外国からやってきた『時の人』」(鹿島茂『職業別 パリ風俗』)
などが招かれ、いとも優雅なる社交生活を送っていた。

1831年、まだ「7月革命」の余塵の残るパリに出てきたショパン (1810 - 49) も、翌年にはデビュー演奏会で成功をおさめる。その時、会場には、既にサロンの寵児となっていたリスト (1811 - 86) がいた。ショパンも、リストに続いて、やがて社交界の花形ピアニストになるであろう。

一方、絵画の世界では「7月革命」以前から新しい動きが始まっていた。
ドラクロワ (1798 - 1863) が1824年の美術展(官展:サロン)に『キオス島の虐殺』を発表したのである。

先輩画家のグロは、
「これは(『キオス島の虐殺』ではなく)絵画の虐殺である」
とまで酷評したが、この作品を絶賛したのがスタンダール (1783 - 1842)。
「あの若いドラクロワにあって特別の評価に値するものは勇気である。彼は自分が何物でなくなるかもしれず、アカデミアンですらないかもしれない危険をおかした」(「1824年の美術展」)
この流れが、フランスのロマン主義絵画を方向付け、やがて印象派絵画を生むことになる。

Gloria in excelsis, et in terra pax -1st movement

2005-12-14 08:01:39 | Essay
Lockheed "Constellation"

お勧めの観測日は、今朝と今夜、つまり12月14日~15日のようです。
「今年一年の最後を飾る三大流星群のひとつ」と言われる
「ふたご座座流星群」
のことです。

今早朝は、雲がところどころにかかってはいるものの、まずは晴れといってもいいでしょう。
ピークじゃあなくても何とか見えるかな、と東から南の空をしばらく眺めていたのですが、やはり観測できませんね。
しようがありません、街中で天体観測をしようというのが無謀なのです。
その内、空もだんだんと明るくなってくる。
一等星ならともかく流星群、見られる訳がない、と思って諦めかけたところ、視界の隅にぴかっと光って動くものがある。

さては、とそちらへ視線をやったんですが、朝一番の旅客機でした。
風向きによって、羽田へ離着陸するジェット機が拙宅のほぼ上空を飛んでいく。
その1機だったんですね。
翼端の明かりが瞬きながら通過、まだ明け切らない北の空に消えていきました。

というのが、「ふたご座流星群」観測の顛末(「てんまつ」ではなく「おそまつ」と誤読してください)。

そう言えば、「ロッキード・コンステレーション」という名前の4発レシプロエンジン機(ライト・サイクロンエンジン2500HPだからB29と同系統)がありましたっけ。垂直尾翼が3枚という、一度見たらなかなか忘れられないデザインの旅客機(米軍では輸送機C-121としても使用)でした。愛称は「コニー」、「太平洋のレディー」とも言われました。

あの「コンステレーションConstellation*」は、やはり「星座」の意味でしょうね。今朝小生が見たのは、小振りでしたのでB737かA320あたり。これが「コンステレーション」だったとすれば、天体観測と平仄が合って面白かったんですが、余りにも時代が違い過ぎている。
その内、タイム・トラベルもののネタにしましょうか。

*ちなみに、米海軍には「コンステレーション」という名前のキティー・ホーク級空母もあった(CVA-64)。

今日のことば(54) ― 網野善彦

2005-12-14 00:04:37 | Quotation
「意識的に出家・遁世して、自己の定住集団から離脱し、遍歴生活に身をゆだねる人びともあった。(中略)中世後期以降にさかんになった社寺参詣・物見遊山のための巡礼や旅行も、定住の日常からの一時的な離脱であった。(中略)いったん共同体から脱出・離脱した人びとは、まさしく〈まれひと〉であり、〈異人(ことひと)〉にほかならなかった」
(『日本論の視座――列島の社会と国家』)

網野善彦 (あみの・よしひこ、1928 - 2004)
歴史家。専攻は日本中世史・日本海民史。東京大学文学部卒業後、澁澤敬三によって設立された日本常民文化研究所(現在は、網野氏の尽力により、神奈川大学日本常民文化研究所に引き継がれている)に勤務、中世の漁村史についての研究を始める。
その後、東京都立北園高校教諭、名古屋大学助教授、神奈川大学短期大学部教授、同大学特任教授などを歴任、日本中世史・日本海民史の研究を続ける。
遍歴民(定着民の反対語)=非農業民から見た日本の歴史について論じ、歴史家のみならず多くの人びとに示唆を与えた(時代小説家の隆慶一郎の著作、映画『もののけ姫』に与えた影響は、よく知られている)。
主な著作に『蒙古襲来』『無縁・公界・楽』『異形の王権』『日本の歴史をよみなおす』『日本社会の歴史』などがある。
ちなみに、宗教学者の中沢新一は甥に当たる(中沢『僕の叔父さん 網野善彦』を参照)。

小生、現在「道のアジール*」ということを、網野氏の著作から示唆を受けて、考えている。
これは、中世において、街道や辻・宿などが一種のアジールであった、という事実から、その意識は、近世まで残っていたのではないか、という発想である。
*アジール:「俗世界の法規範とは無縁の場所、不可侵の場所という意味。(中略)通常神殿や寺院、教会などがこれにあたる。宗教的、呪術的に特殊な聖域と考え、俗世界で犯罪を犯しても、アジールに逃げ込めば聖的な保護を与えられ、世俗権力による逮捕や裁判を免れるという一種の治外法権のような性質を持った」(Wikipediaより)

その一端を、本ブログ『〈道行〉雑考』に記した。
しかし、本来の目的は、この概念によって「ええじゃないか」*の本質が明らかになりはしないか、ということである。
*「ええじゃないか」:「1867(慶応3)年8月から翌年4月ころまで、江戸以西の地でおこった大衆乱舞。御陰参(おかげまいり)の変形ともいう。伊勢神宮のほか、諸宮の御札が降り、歌詞に『ええじゃないか』のはやしをつけて、集団で町や村を練り歩いた。名古屋におこり東海・近畿・南関東・四国へ波及。前年までの一揆・打毀(うちこわし)に続く世直し要求を宗教的形態で表したものといわれ、倒幕派は、大衆の混乱助長にこれを利用したといわれる」(角川・第二版『日本史辞典』)

『日本史辞典』にあるような「世直し要求」と「宗教的形態」とが、どのような機序で結びつくのか、また「倒幕派の利用」説が正しいのかどうか、というのが、目下のところの課題である。

網野氏の研究成果は、意外と射程が遠くまで及んでいるのではないか、という気がする。一般的には、中世史の範囲で語られ勝ちであるが、それだけではなく、近世、場合によっては近代に至るまで、役立つ成果ではないのか。
また、網野氏の述べた所説は、心性のレベルで言えば、今日のわれわれの無意識あるいは半意識の底にあるものにまで言及しているとも思える。

まだ、小生の考えも道半ば。
網野氏の著作を読みながら、ああでもない、こうでもない、とやっているところである。

参考資料 網野善彦『歴史としての戦後史学』(日本エディタースクール出版部)
     中沢新一・赤坂憲男『網野善彦を継ぐ。』(講談社)