「海軍の対米戦に対する判断は、中堅将校や青年将校の中には、主戦論も必勝論もあったであろうが、少くとも責任当局や上層部においては、避戦論に一致しており、その理由とするところは、勝算なしというにあった。」
(『海軍の反省』)
福留 繁(ふくとめ・しげる、1891 - 1971)
海軍軍人。海兵40期、海大24期卒。海兵では山口多聞、宇垣纏、大西瀧次郎らと同期。ハンモック・ナンバー144人中8位というのだから、軍事官僚組織でのエリートである。1933(昭和8)年、大佐となり連合艦隊首席参謀の職に就く。その後、連合艦隊首席参謀、軍令部作戦課長、連合艦隊兼第一艦隊参謀長を歴任。
海軍エリート軍人の「反省」。
しかし、政治責任は、そのようなところにはない。
開戦を決定づけたのは、「避戦論に一致して」いたにもかかわらず、「ノー」と言えなかったか/言わなかったことにある。
近衛内閣の海軍大臣だった及川古志郎は、首相の諮問に対して
「よくわかりませんので、首相にご一任申し上げます」
と言って、開戦責任を放棄した。
東条内閣の大本営政府連絡会議(昭和16年11月2日開催)では、永野修身軍令部総長は(海軍大臣は嶋田繁太郎)、
「戦機は後には来ない。今がチャンスだ」
と言ったという。
軍事官僚の「反省」は、この程度のものなのである。
そして、64年前の今日、対米戦が開始された。
参考資料 半藤一利『昭和史』(平凡社)
(『海軍の反省』)
福留 繁(ふくとめ・しげる、1891 - 1971)
海軍軍人。海兵40期、海大24期卒。海兵では山口多聞、宇垣纏、大西瀧次郎らと同期。ハンモック・ナンバー144人中8位というのだから、軍事官僚組織でのエリートである。1933(昭和8)年、大佐となり連合艦隊首席参謀の職に就く。その後、連合艦隊首席参謀、軍令部作戦課長、連合艦隊兼第一艦隊参謀長を歴任。
海軍エリート軍人の「反省」。
しかし、政治責任は、そのようなところにはない。
開戦を決定づけたのは、「避戦論に一致して」いたにもかかわらず、「ノー」と言えなかったか/言わなかったことにある。
近衛内閣の海軍大臣だった及川古志郎は、首相の諮問に対して
「よくわかりませんので、首相にご一任申し上げます」
と言って、開戦責任を放棄した。
東条内閣の大本営政府連絡会議(昭和16年11月2日開催)では、永野修身軍令部総長は(海軍大臣は嶋田繁太郎)、
「戦機は後には来ない。今がチャンスだ」
と言ったという。
軍事官僚の「反省」は、この程度のものなのである。
そして、64年前の今日、対米戦が開始された。
参考資料 半藤一利『昭和史』(平凡社)