一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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今日のことば(47) ―― 桑原武夫

2005-12-06 01:30:22 | Quotation
(小さん(三代目?)の藝には)「私が一流の藝術には不可欠だと思う一要素、ぬるっとした艶っぽさ。内分泌という言葉がふと頭にうかんでくる、そうした感じのものに欠けていて、これを至藝などといっている江戸ッ子文化とは、薄くはかないものだという気がした」
(富士正晴『桂春団治』「序にかえて」)

桑原武夫(くわばら・たけお、1904 - 88)
仏文学者、評論家。福井県敦賀に東洋史学者の桑原隲蔵(くわばら・じつぞう)の長男として生まれる。京都帝国大学文学部卒業後、東北帝国大学などの教職を経て京都大学人文科学研究所の教授となる。スタンダール、アラン、ルソー等の紹介・研究のほか、〈俳句第二藝術論〉などで有名。

問題は、東と西との藝風の差である。

東のさっぱりした藝に対して、西のこってりした藝。
小生など、まず連想するのが絵画で、小出楢重(こいで・ならしげ)の作風。
小出は大阪島之内の商家の出で「大阪の土着性や美意識を盛り込んだ彼独自の洋画を描いた」と評される画家である。

関東者にとって、このような作風は、良く言えば「こってりした」、悪く言えば「くどい」ということになる。
確かに、こうした美意識があることは認めるが、趣味ではないのが正直なところ。
しかし、油絵という絵画手法に、あるいは西洋の美術に、このような粘着質のものが根底にあるのも確かなところ(現代俳句を西洋的な意味での、本格的な藝術ではないとした〈俳句第二藝術論〉にも通じるところがある)。
東京出身の岸田劉生(銀座に〈楽善堂〉という薬屋を経営していた岸田吟香の四男)は、そのような美感を「でろり」と表現した。

風呂上がりの体を、初夏の風に吹かれるような〈さっぱり感〉を良しとする東の美意識に、欠けているところがあることは認めざるをえないだろう。
これも悪く言えば「追及心や徹底性」に欠けるということにもなる(音楽では、ベートーヴェンなどの、ソナタ形式の徹底性に辟易することがないわけではない)。

キップリングのことばを、あえて誤解するならば、「東は東、西は西」なのであるが、「ついに相会うことはなし」"east meets never west" ではなく、それぞれの半球が合体するところに、生まれてくるものを期待したいところなのだが……。

参考資料 富士正晴『桂春団治』(講談社)