「我邦(くに)の人は書を読むこと多からず。故に見識なくして、人の真似をすることを専一と心掛けるなり。是を名づけて、矮人観場(わいじんかんじょう)といふ。」
(『淡窓詩話』)
廣瀬淡窓(ひろせ・たんそう、1782 - 1856)
江戸時代後期の儒学者、教育者、漢詩人。
筑前福岡の亀井南冥・昭陽父子の塾に学ぶ。1805(文化2)年、故郷の豊後日田に私塾(後に「咸宜園(かんぎえん)として発展・拡大)を開く。門人は3000人にも及び、能力別等級・試験による昇級などの教育法により、高野長英・大村益次郎ら多くの英才を育てた。
漢詩人としての著作に『遠思楼詩鈔』『淡窓詩話』がある。
当時の用語で「書」といえば儒学あるいは漢詩文の書物。もちろん、俗文学と称された「読本」「黄表紙」などは含まれていない。
それはともかくとして、現在でも、小説やノン・フィクション、週刊誌などに目を通す人は多くとも、専門書にまで手を出す人は、さほど多いとは思われない(出版界の不景気は、まだまだ続くであろう)。
それが原因であるとは言わないが、「人の真似をすること専一」なことは間違いない、当時からの日本人の通弊。
「現実主義」とは標榜していても、それが「現実追認」であるなら、「人の真似をすること」とさほどの変りはない。大勢に従う、という意味では同一と言っても良い。
また、「同調圧力」が強いのも、別に先の戦争中だけのことではない。
その意味からすれば、「矮人観場」は、江戸時代から変っていないのではないか。
参考資料 『江戸詩人選集9 広瀬淡窓/広瀬旭荘』(岩波書店)
(『淡窓詩話』)
廣瀬淡窓(ひろせ・たんそう、1782 - 1856)
江戸時代後期の儒学者、教育者、漢詩人。
筑前福岡の亀井南冥・昭陽父子の塾に学ぶ。1805(文化2)年、故郷の豊後日田に私塾(後に「咸宜園(かんぎえん)として発展・拡大)を開く。門人は3000人にも及び、能力別等級・試験による昇級などの教育法により、高野長英・大村益次郎ら多くの英才を育てた。
漢詩人としての著作に『遠思楼詩鈔』『淡窓詩話』がある。
当時の用語で「書」といえば儒学あるいは漢詩文の書物。もちろん、俗文学と称された「読本」「黄表紙」などは含まれていない。
それはともかくとして、現在でも、小説やノン・フィクション、週刊誌などに目を通す人は多くとも、専門書にまで手を出す人は、さほど多いとは思われない(出版界の不景気は、まだまだ続くであろう)。
それが原因であるとは言わないが、「人の真似をすること専一」なことは間違いない、当時からの日本人の通弊。
「現実主義」とは標榜していても、それが「現実追認」であるなら、「人の真似をすること」とさほどの変りはない。大勢に従う、という意味では同一と言っても良い。
また、「同調圧力」が強いのも、別に先の戦争中だけのことではない。
その意味からすれば、「矮人観場」は、江戸時代から変っていないのではないか。
参考資料 『江戸詩人選集9 広瀬淡窓/広瀬旭荘』(岩波書店)